名前 | 劉馥(りゅうふく) 字:元穎 |
生没年 | 生年不明ー208年 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
勢力 | 曹操 |
一族 | 子:劉靖 孫:劉熙、劉弘 |
画像 | 三国志(コーエーテクモゲームス) |
劉馥は沛国相県の出身であり、正史三国志に登場する人物です。
正史三国志には劉馥伝があり、陳寿がピックアップした人物の一人だと言えます。
劉馥は廬江が乱れた時に、揚州刺史となり善政を布き多いに成果を挙げています。
劉馥が堅固にした合肥の城は防備が固く、後に孫権軍を打ち破る原動力になりました。
後に満寵が合肥新城を築きますが、魏と呉の係争地である合肥を最初に堅固にしたのが、劉馥だと言えるでしょう。
呉は何度も合肥に侵攻し合肥の戦いが起きますが、孫権は最後まで合肥の戦いで勝利する事が出来ず、孫権死後も諸葛恪が合肥を進行しますが、最後まで落とす事が出来ませんでした。
それを考えると、劉馥が合肥に政庁を置き、合肥を堅固にした功績は極めて大きいと言えるでしょう。
合肥の戦いの、影の功労者と考える事が出来ます。
尚、劉馥を見ていると「武」の人ではなく、善政を行った「恩徳」の人だと見る事も出来るはずです。
因みに、劉馥の子は劉靖で、孫に劉熙と劉弘がいます。
三國志演義の劉馥は曹操の「短歌行」に意見した事で、曹操を怒らせ酒の席で殺害されました。
三國志演義では曹操は、劉馥を殺害してしまった事を後悔した事になっています。
ただし、短歌行と劉馥の話は三国志演義の創作であり、史実ではありません。
尚、劉馥は正史三国志では「劉司馬梁張温賈伝」に記述されています。
劉馥と共に劉司馬梁張温賈伝に収録されている人物は下記の通りです。
劉馥 | 司馬朗 | 梁習 | 張既 | 温恢 | 賈逵 |
揚州に赴く
正史三国志の劉馥伝によれば、劉馥は動乱を避けて揚州に赴いたとあります。
袁渙や張範などの名士も動乱を避け、揚州に向かった話もあり、名士の中では中原の混乱を避け揚州に行くのが、トレンドになっていたのかも知れません。
当時の揚州では寿春にいる袁術が強大な勢力を誇っていましたが、劉馥は袁術に仕える事は無かった様です。
逆に袁術の将軍である戚寄と秦翊を説得し、軍勢を引き連れ曹操に帰順しました。
曹操が喜んだ事は言うまでもないでしょう。
曹操は劉馥に、掾の役職を与え功績に報いました。
因みに、この話は建安の初期の頃だったとされており、196年頃の話なのでしょう。
この当時は袁術が皇帝になる野心を見せており、劉馥も嫌気が指したのかも知れません。
揚州刺史となる
孫策は劉勲の本拠地である皖城を攻め落すと、李術を廬江太守としました。
その廬江太守の李術が、揚州刺史の厳象を殺害してしまいます。
厳象が李術に殺されてしまうと、梅乾、雷緒、陳蘭らが周辺を荒しまわります。
廬江の近辺は、無法地帯になってしまったと言えるでしょう。
曹操は廬江を鎮撫したいと考えますが、袁紹と官渡の戦いを繰り広げていた時期でもあり、自身が廬江に赴く事は出来ませんでした。
こうした中で曹操は、劉馥を揚州刺史に任じ揚州に派遣したわけです。
曹操にしてみれば、劉馥は過去に揚州にいた人物であり、適任だと考えたのかも知れません。
さらに、劉馥は優れた人柄を持っており、現地でも評判が高かった可能性もあります。
尚、劉馥は単身で馬に乗り揚州に行った話があり、武芸に関しても一定の実力があったのではないか?とも考えられます。
善政を行う
劉馥は合肥の空城に向かい、ここを州庁としました。
揚州の役所を合肥に設置したと言う事です。
劉馥は合肥に本拠地を置くと雷緒らを手懐け、安定させたとあります。
劉馥の懐柔策は成功した様で、周辺で跋扈した勢力から献上品を奉られた話があります。
合肥の近辺では、劉馥人気があったのでしょう。
さらに、正史三国志には次の記述が存在します。
※正史三国志 劉馥伝の記述
数年で劉馥の恩徳と教化は十分に行き渡り、人々はその政治を喜んだ
河や山を越えて身を寄せた流民は五桁を数えた。
上記の記述を見るに、劉馥は善政を行い多くの人々が集まって来た事になります。
劉馥の政治手腕は見事であり、廬江は無法地帯から脱却する事が出来たのでしょう。
劉馥はさらに学校を作り屯田を開発行い芍陂・茄陂・七門・呉塘の諸堤防の整備をし、地域を発展させる事に貢献しました。
劉馥が治める地域は生産力が上がった事で、役所も民衆の蓄えを作る事が出来たわけです。
この頃には、廬江は無法地帯からは、完全に脱却したと考えるべきでしょう。
余談ですが、劉馥が手懐けた雷緒は、赤壁の戦い後に劉備に帰順した話があります。
合肥の城
劉馥伝によれば、劉馥は善政を行っただけではなく、合肥の城の整備をした記録があります。
正史三国志・劉馥伝には次の記述が存在します。
※正史三国志・劉馥伝の記述
劉馥は城壁や土塁を高く積み上げ、草むしろは数千万枚を編んだ。
さらに、魚の油数千石を貯蓄し戦争への備えとした。
上記の記述を見ると分かる様に、劉馥は戦いに備えて、合肥を強固な城に作り変えた話があります。
後に合肥の城が魏と呉の係争地となり、何度も戦果を交える事を考えると、劉馥には先見の明があったとも言えるはずです。
尚、正史三国志には堤防の利益は現在でも役立っていると述べており、三国志の世界が終わり、西晋の時代になっても重宝されていた事が分かります。
董安于以上の人物
劉馥伝に劉馥死後の事が書かれており、孫権が10万の兵を率いて合肥を攻めたとあります。
これがいつの事なのか書かれていませんが、赤壁の戦いの直後に起きた208年の合肥の戦いと考えるのが妥当だと感じました。
208年の合肥の戦いと考えれば、蔣済と張喜が協力して、孫権を撤退に追い込んだ戦いです。
劉馥伝によれば、孫権は合肥を百日以上も包囲しますが、合肥の城は連日の雨により、今にも落城しそうな状態となります。
ここで城内の兵士達は魚の油を燃やし城外を照らし、孫権軍の行動をよく監視し行動しました。
劉馥が準備していた魚の油数千石が役だったと言うべきでしょう。
後に流言などの策も効いた事で、孫権は撤退しました。
この時に、揚州の民衆は劉馥を追慕し、春秋戦国時代に晋陽を治めた董安于以上の人物だと噂した話があります。
董安于は趙鞅に仕えた人物であり、晋陽を見事に治め董安于や趙鞅の死後に、趙襄子と智伯、魏、韓の間で起きた晋陽の戦いで、趙が勝利する要因の一つを作り出しています。
董安于が使用した晋陽の城は特殊な構造をしており、多くの軍需物資を調達する事が出来たわけです。
劉馥の魚の油が役だった話と董安于の話が似ている事で、揚州の民衆は劉馥は董安于以上の人物だと讃えたのでしょう。
劉馥の最後
劉馥は建安13年(西暦208年)に亡くなった記述が、正史三国志にあります。
劉馥の死因は不明です。
奇しくも劉馥は、赤壁の戦いの年に世を去ったわけです。
劉馥の死後、過去に劉馥に帰順した陳蘭が梅成と共に、灊山に立て籠もり反旗を翻しました。
陳蘭が乱を起こした理由は書かれていませんが、劉馥は陳蘭に対し懐柔策を取っており、安定させてやった記述があり、劉馥が亡くなった事で、陳蘭らは不安になったとも考えられます。
さらに、曹操が赤壁の戦いで呉の周瑜に敗れた事で、地域が不安定になった可能性もある様に思いました。
劉馥の死後に陳蘭らが反旗を翻した事を考えると、劉馥の存在は大きかったと言えるでしょう。
劉馥が過去に面倒を見てやった陳蘭ですが、灊山の戦いでは魏の張遼、于禁、臧覇の前に敗れ命を落としました。
尚、劉馥の子である劉靖ですが、曹丕の時代に廬江太守になった話があります。
劉靖が廬江太守を務めた時に、曹丕は劉靖に詔勅を出しています。
曹丕「卿(劉靖)の父(劉馥)はよく州を治めた。卿もまたこの郡を治める事になった。
よく父親の事業を受け継いだと言える」
曹丕の代になっても、劉馥の威光は衰える事は無かったのでしょう。
劉靖もまた土地をよく治めた話がありますが、劉靖の政治の良さは劉馥の遺風だと述べられた話があります。
劉馥は知名度は低いかも知れませんが、地域を安定した政治家だと言えそうです。
三國志演義の劉馥
劉馥は三国志演義では赤壁の戦いの前に、突如として登場します。
曹操は赤壁の戦いの本戦の前に、宴を開き酒に酔い短歌行を歌いました。
曹操の短歌行を聞き、前にすすに出て「不吉」だと述べたのが劉馥です。
この後に三国志演義では劉馥の解説が入り、正史三国志同様に合肥で善政を布いた事が盛り込まれています。
劉馥は短歌行の不吉な部分を曹操に指摘すると、曹操は酒に酔っていた事もありカッとなり、劉馥を矛で一突きにして殺害してしまいました。
曹操は酒が冷めると、劉馥を殺害した事を多いに悔やむ事になります。
劉馥の子である劉熙が「郷里に劉馥を葬りたい」と願うと、曹操は三公の礼を以って劉馥を葬らせた事になっています。
ただし、これらの話は三国志演義の創作であり、史実と考えられる正史三国志には劉馥と短歌行に関係した話は一切ありません。
三國志演義の著者である羅貫中は赤壁の戦いの年に、たまたま劉馥が亡くなった事に目を付け、曹操の人間性を際立たせる為に登場させた様に感じました。
先ほども述べましたが、正史三国志では劉馥は亡くなった事だけが書かれており、死因などの記述はありません。
劉馥の能力値
三国志14 | 統率64 | 武力49 | 知力73 | 政治87 | 魅力84 |