劉偕は劉勲の従弟であり、正史三国志の注釈『江表伝』に名前が挙がる人物です。
劉勲は食料が不足した時に、劉偕に命じ豫章太守の華歆に食料の援助を求めさせています。
しかし、華歆の方でも食料が不足しており、思った様に劉偕に食糧援助が出来ませんでした。
食糧を調達できない劉偕は劉勲に、海昬や上繚を襲撃し略奪する様に進言しますが、この策が元で劉勲の勢力は本拠地を孫策に奪われています。
今回は劉勲の勢力が、消滅する原因を作った劉偕の解説を致します。
旧袁術軍と食糧問題
江表伝によれば孫策は、朝廷から詔勅を受け曹操、董承、劉璋らと袁術と劉表を討つ様に指示されました。
この時に袁術軍は弱体化しており、袁術は袁紹と合流しようとしますが病死しています。
袁術が亡くなると袁胤は娘婿の黄猗らと共に、旧袁術勢力を引き継ぎますが、袁胤は袁術の本拠地であった寿春を守り抜けないと判断し、皖城の劉勲を頼りました。
劉勲は劉曄の活躍もあり鄭宝の軍勢も吸収し、大きな勢力となりますが、食料が不足し過ぎてしまい、袁胤ら旧袁術勢力の十分な支援が出来なかったわけです。
食糧不足に悩まされる中で劉勲は、従弟の劉偕に命じ豫章太守の華歆に、食料の援助を求めさせています。
劉偕は食糧支援の依頼を華歆にする為に、豫章に向かいました。
華歆の策
劉偕が豫章に到着すると、華歆に食料の支援を求めました。
江表伝によれば「華歆に食料の買い入れを求めた」とあります。
しかし、華歆の方でも食料が不足しており、劉偕の願いを叶え劉勲に食料を支援するのは、難しい状態だったわけです。
食糧の手配が出来ない華歆は、劉偕に役人を付けて海昬・上繚に向かわせ、地方の宗帥(地方の独立勢力)らから三万石の食料を調達しようとしました。
華歆は海昬・上繚の宗帥から三万石を徴収し、劉偕に与えようとします。
しかし、海昬や上繚でも食料が不足していたのか、宗帥らが出し渋ったのか、劉偕は思った様に食料を集める事が出来ませんでした。
劉勲への進言
海昬や上繚に向かい1カ月を超えても、十分な成果をあげる事が出来ない劉偕は、次の様な連絡を劉勲に入れる事になります。
「軍を進めて、海昬・上繚を襲撃し食料を得るべきです」
この時に、劉偕は「現地の情勢を詳しく調べた」とする記述があり、海昬や上繚に関しては、詳しくリサーチした上で劉勲に略奪を進言したのでしょう。
劉勲は劉偕の手紙を受け取ると、軍を海昬の近くまで進めています。
しかし、宗師らは劉勲の動きを察知し、街を空にして逃げたので、劉勲は何一つ得る事が出来ずに失敗に終わりました。
宗師らは劉勲に奪われるくらいならと考え、焦土の様な形にして邑を去ったのかも知れません。
劉偕は詳細に調べて、劉勲に軍勢を進める様に依頼したにも関わらず、策が失敗してしまったわけです。
劉偕の作戦が何らかの形で、宗師らに気付かれてしまったのでしょう。
北方に逃亡
劉偕の策は失敗しますが、事はこれだけに終わりませんでした。
当時の孫策は、江夏の黄祖討伐に向かっていたわけです。
しかし、劉勲が軍勢を海昬に向けた事を知ると、孫策は軍を分け、孫賁と孫輔に劉勲を待ち伏せさせ、自らは劉勲の本拠地である皖城を周瑜と共に攻撃しています。
皖城は短期間で落城し、劉偕の策で劉勲が動き、本拠地を失う結果となります。
孫策はこの戦いで美貌と名高い喬玄の娘である大喬、小橋を得て、さらに孫権の夫人となる袁夫人や歩夫人も得る事になりました。
この後に劉勲や劉偕は西塞山に籠り、江夏太守の黄祖に援軍を要請すると、黄祖は黄射を派遣しています。
しかし、黄射の軍が到着する前に、西塞山の戦いは決着が着き、劉勲や劉偕は敗れ去りました。
劉勲と劉偕は、もはや戦力の維持は出来ないと判断し、曹操を頼り北方に逃れています。
尚、劉偕は劉勲と北方には向かいましたが、これ以降の劉偕の記録がなく、どの様になったのかは不明です。
因みに、劉勲を破った孫策は黄射を追撃する形で、夏口に向かい沙羨の戦いで黄祖と戦っています。