その他 三国志

黄射(こうえき)は章陵太守となるも戦いに勝利した記録がない

2022年3月27日

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宮下悠史

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名前黄射(こうえき)
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力黄祖
年表199年 劉勲の援軍に失敗
画像三国志14(能力値は最下部)

黄射は江夏太守として有名な黄祖の子です。

正史三国志に「太子黄射」とする記述があり、黄祖の後継者として目されていた人物だったのでしょう。

黄射は章陵太守になった話もあり、劉表の配下の中で黄祖と同様に重用されていたと感じます。

ただし、黄射は劉勲の救援に間に合わずに撤退したり、寡兵の徐盛に敗れるなど「戦下手」な部分も目立ちます。

黄射の最後は記録がなく、208年に起きた黄祖と孫家の最終決戦まで、生きていたのかも分からない状態です。

尚、黄射は禰衡の才能を高く評価し、禰衡の死に涙を流した話があります。

それを考えると、黄射は友人想いの人物だったのかも知れません。

今回は黄祖の後継者として太子に立てられていた黄射を解説します。

禰衡を推挙

正史三国志の注釈である『典略』によれば、禰衡と黄射が親しかったとあります。

禰衡は才能豊かな人物ではありましたが、口が悪く曹操は劉表の元へ追いやった人物でもあります。

曹操が禰衡を殺害せずに、劉表の元に送ったのは、世間の目を気にしたからでしょう。

才能はあっても性格に問題があった禰衡と、黄射は親しくなったわけです。

禰衡は孔融とも親しかった話があり、黄射は孔融に近い雰囲気があったのかも知れません。

後漢書禰衡伝の記述では、禰衡と黄射が旅行に出かけ、禰衡の賦の出来の良さから黄射が絶賛した話があります。

禰衡は父親である黄祖に、禰衡を推挙しました。

黄祖も禰衡の実力を認め最初は重用しましたが、禰衡が黄祖への批判を展開した事で、黄祖は禰衡を処刑してしまいました。

後漢書禰衡伝によれば、禰衡が処刑される事を知った黄射は、裸足のままで禰衡を救おうと駆け付け、黄祖に次の様に述べた話があります。

黄射「禰衡は常人とは異なった才能の持ち主であり、曹操や劉表でも処刑しなかったのに、父上(黄祖)が命を奪ってしまうとは」

黄射は禰衡の能力を高く評価し、その死を悼んだわけです。

禰衡の事を最も評価したのは、黄射だった様にも思います。

章陵太守

後漢書禰衡伝に黄射が章陵太守になった話があります。

黄射は最初は劉表がいる襄陽におり、禰衡が黄祖の元に行く時に、章陵太守に任命されたとも考えられています。

劉表配下の謀臣である蒯越も、章陵太守になった話がありますが、黄射は蒯越の後任として章陵太守になったのでしょう。

劉表としても、蒯越の様な智謀に溢れる臣下は手元においておきたくなり、章陵太守を黄射に変更したと感じました。

黄射が章陵太守になった時には、父親である黄祖は江夏太守を務めており、黄祖と黄射の親子二代で荊州二郡の長官を務めていた事になります。

この時期が最も黄祖、黄射親子の輝いていた次期だとも言えます。

荊州の劉表政権において、黄家は高い権勢を誇ったのでしょう。

劉勲への救援

仲王朝を開き皇帝を名乗った袁術が、199年に袁紹と合流しようと企てますが病死しました。

旧袁術軍を劉勲が吸収したわけです。

この時に、孫策が動き劉勲に策略を用いて、劉勲の本拠地である廬江を陥落させています。

劉勲は諦めず黄祖に援軍要請しました。

黄祖は劉勲の援軍要請を受け、黄射を援軍の将として派遣しています。

『江表伝』には下記の記述が存在します。

「太子の黄射と五千の水軍を派遣し、劉勲を救援した」

上記の言葉から、既にこの時には黄祖の後継者として黄射が立てられている事が分かります。

しかし、孫策は周瑜らと共に、黄射の援軍が到着する前に、劉勲の軍を打ち破りました。

劉勲は孫策がいる南方では、何も出来ないと判断したのか、従弟の劉偕と共に北方に赴き曹操を頼っています。

黄射は劉勲や劉偕が敗れ去った事を知ると「慌てて逃亡した」とする記述が残っています。

この時の黄射は孫策軍に勢いがあり、劉勲を倒した孫策軍が攻めて来たら、五千の兵では一たまりもないと判断したのでしょう。

他にも、劉勲の軍があっという間に、孫策軍に倒されてしまい驚いたと言うのもある様に思いました。

黄射が退いた後に、孫策は黄祖の軍と沙羨で戦った記録があります。

沙羨の戦いでは孫策は周瑜だけではなく程普黄蓋韓当などの宿将も参陣させ、黄祖軍を大いに破りました。

沙羨の戦いでは、孫策は黄祖の子や妻ら7人らを捕えた話があります。

しかし、呉では孫権の時代になっても黄射の姿を見る事ができ、捕らえられた「黄祖の一族7人」の中に、黄射は入っていないと考えられています。

徐盛に敗れる

200年に孫策が亡くなると、呉では孫権が後継者となりました。

孫権は配下の徐盛に、兵士五百を与え柴桑県の長に任命しています。

徐盛伝によれば、黄射は数千の兵を率いて長江を下り、柴桑を攻撃しました。

黄射の軍は数千もいるのに対し、徐盛の軍は軍吏と兵士を合わせても二百の兵しかいなかったとあります。

徐盛伝の記述が本当であれば、黄射は徐盛の十倍の兵力で攻めた事になるでしょう。

しかし、徐盛は勇猛な人物であり、黄射の攻撃に対し一歩も退かずに戦いました。

黄射は兵力で圧倒しながらも、徐盛に苦戦する事になります。

黄射の兵は徐盛の軍に押され千余人が負傷し、徐盛が城門を開いて撃って出るや黄射の軍は大敗しました。

徐盛伝によれば「黄射の軍を徹底的に打ち破った」とあり、黄射はかなりの損害を出し敗れたのでしょう。

徐盛に敗れて以降の黄射は、鳴りを潜め二度と侵攻して来る事が無かったとあります。

西暦206年に黄祖配下の鄧龍が柴桑を攻めた話があります。

本来なら黄射が指揮を執る所ですが、黄射は戦争恐怖症になり、代わりに黄祖は鄧龍を派遣したのかも知れません。

ただし、鄧龍は周瑜に敗れ捕虜となり護送されてしまいました。

これが最後の黄射の記述であり、これ以降はどの様になったのかは不明です。

黄射の能力値

三国志14統率54武力47知力55政治44魅力50

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