名前 | 劉先(りゅうせん) 字:始宗 |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
勢力 | 劉表→劉琮→曹操 |
年表 | 200年 曹操に味方する様に進言 |
208年 曹操に降伏する様に進言 | |
コメント | 劉表陣営の親曹操派 |
画像 | 三国志14(コーエーテクモゲームス)能力値は最下部 |
劉先は後漢末期に生まれた人物であり、劉表や曹操に仕えた人物です。
正史三国志の注釈である零陵先賢伝によれば、博学で記憶力がよかった話が記載されています。
零陵先賢伝には劉先が老荘の学問を好み、漢王朝の故事に関しても習熟したいたとあります。
劉先は名士で頭脳明晰なインテリだったのでしょう。
正史三国志に劉表や曹操に進言した話があり、それらを今回は解説します。
尚、劉先の甥が周不疑であり、周不疑の才能は曹沖に匹敵し、曹操が驚くほどの才能を持っていた話があります。
周不疑の賢さは、劉先譲りのものなのかも知れません。
許都で曹操と面会
劉先は劉表に仕え、別駕に任命された話があります。
劉先は劉表に仕えると、上奏文を持って曹操がいる許都に行くように命じられました。
劉表は劉先には弁舌の才能があると判断し、曹操の元に向かわせたのでしょう。
曹操は劉先と会見を行うと、次の様に述べています。
曹操「劉表殿はなぜ郊外で天を祀られたのか」
劉表は過去に天を祀るなどの皇帝の如く振る舞った事があり、それを使者の劉先に指摘したわけです。
普通で考えれば、かなり意地悪な質問ですが、劉先は次の様に答えました。
劉先「劉表様は皇族に連なる方であり、州牧の地位を任せられています。
しかし、未だに政治は安定せず、凶悪で悪辣な輩に道は遮断されているのです。
貢物や宝物があっても、朝見する事も出来ません。
そのため、劉表様は自ら天と地を祀り、真心を披露なさったのです」
曹操は劉先の言葉は、綺麗ごとを述べているだけだと感じたのか、次の様に述べています。
曹操「凶悪な者とは誰の事を指すのか」
曹操の言葉に対し、劉先は「目に映る全ての者です」と述べると、曹操は次の様に返しました。
曹操「儂には勇猛な兵士や歩兵、騎兵などの軍隊が10万もおる。
儂が天子の言葉を頂き罪人どもを征伐したら、服従しない者がいるであろうか」
曹操は劉先に対し、威圧的な態度を取ったのでしょう。
しかし、ここで劉先が負けじと、次の様に曹操に返しました。
劉先「漢王朝の政道は衰えており、民衆も困苦の中におります。
現在の状況を見るに、天子を推戴し天下に安寧をもたらし、道徳によって国を導く忠義の士はいません。
軍事力を頼りに残虐な行いをし、それでいて自分よりも上の者がいないと申しております。
それこそ、蚩尤や智伯がこの世に再び現れたようなものだと感じるのです」
蚩尤は黄帝と戦った伝説の化け物(民族)であり、智伯は春秋時代末期に強大な勢力を誇ったが、驕慢さが禍し晋陽の戦いで趙襄子に敗れ滅んでいます。
つまり、劉先は曹操を暴虐だと非難した事になるはずです。
曹操は劉先の言葉を聞くと、ムッとして黙り込みますが、劉先の才能を認め武陵太守に任命しました。
劉先は見事に任務を果たしたと言えるでしょう。
尚、劉先も曹操の度量の深さを認めたのか、曹操を高く評価し、劉表陣営の中では親曹操派閥として動く事になります。
後の事を考えれば、曹操もここで劉先と会見した事はメリットになったはずです。
因みに、劉先と曹操の話を元に作られたのが、三国志演義の曹操と張松の逸話だとも考えられています。
劉表を諫める
西暦200年に官渡の戦いが勃発しました。
官渡の戦いでは袁紹と曹操が争いますが、劉表は袁紹を助ける約束をしながら兵を出さす、曹操にも与しようとしなかったわけです。
劉表は曹操と袁紹の対決を傍観していました。
反曹操派の客将である劉備などは、曹操を攻撃する様に進言しますが、劉表は優柔不断な態度を示し動かなかったわけです。
この時に従事中郎の韓嵩と別駕の劉先が、次の様に進言した話があります。
韓嵩・劉先「豪傑同士が争い両雄(袁紹・曹操)が互いに争っております。
天下がどの様に傾くのかは、将軍(劉表)の態度に掛かっているのです。
将軍が天下を目指すのであれば、両雄の疲弊に付け込むのが良策となります。
しかし、その気持ちがないのであれば、どちらかを選択し服属すべきです。
現在の将軍は長江や漢江の一帯を支配し、十万の兵を動かせますが、事の成り行きを観望しておられます。
劉先と韓嵩は天下取りの気があるなら、曹操と袁紹の漁夫の利を得る様にと述べたわけです。
逆に天下取りの気がないから、どちらかに味方し静観するのは得策ではないと進言した事になるでしょう。
劉先と韓嵩は、さらに次の様に述べます。
劉先・韓嵩「天下の豪傑を見ながら応援の手を差し伸べず、相手が和を結ぼうとしているのに、それをなさらないなら、二つの恨みは将軍に向けられる事になります。
将軍は中立を決め込む態度を見せておりますが、今の状況での中立は不可能であり得策ではありません。
曹操を見るに英知に溢れており、天下の優れた人物の多くは、曹操に帰順しております。
形成を見るに曹操が袁紹を滅ぼす事になるでしょう。」
上記の言葉から劉先が曹操に対して、高い評価を与えている事が分かるはずです。
袁紹の元から荀彧や郭嘉などの有能な人物が離れ、曹操陣営に加わっていた事も、劉先が曹操陣営を高く評価していた事の理由なのでしょう。
劉先が官渡の戦いで、曹操の勝利を予言しているのは、先見の明があったとも言えます。
劉先は曹操と会見を行った事もあり、曹操の度量、能力などを高く評価した事の表れとなる様に感じました。
さらに、韓嵩と劉先は劉表に次の様に述べます。
劉先・韓嵩「曹操が袁紹を破った後で、将軍が治める荊州の地に攻め込んで来たら、将軍は防ぎきる事が出来ないはずです。
将軍の為を思えば、荊州を上げて曹操に従うのが最良の策となります。
ここで曹操に従えば、将軍は曹操に感謝され永遠に幸せを享受できる事でしょう。
将軍の事は後代まで伝えられ、万全の対策となるのです」
劉先と韓嵩は、劉表が曹操に降伏する様に述べた事になります。
しかし、劉表は即断即決が出来ず、韓嵩を都に派遣し、曹操の様子を探らせた程度に済ませました。
尚、韓嵩は都に行くと献帝から侍中と零陵太守に任命され、劉表は韓嵩が裏切ったと判断し牢に入れています。
韓嵩の代わりに、劉先が都に行っていたなら、劉先も劉表に捕らえられていた可能性もあるでしょう。
劉先、韓嵩の話を見るに、劉表の優柔不断さが目立つ内容となっています。
曹操に仕える
劉先が予想した通りに、官渡の戦いでは曹操が袁紹に勝利しています。
袁紹が西暦202年に亡くなると、長男の袁譚と三男の袁尚の間で後継者争いが起きます。
汝南袁氏の内紛に曹操がつけ込み袁譚、袁煕、袁尚と袁紹の3人の息子を滅ぼしました。
北方を平定した曹操は南下を始めますが、この時に劉表が亡くなり劉琮が後継者となります。
劉表の長子は劉琦でしたが、名士層の声も大きく劉琮が後継者となったのでしょう。
劉琮は曹操との決戦を行おうとした話もありますが劉先、蒯越、韓嵩、鄧義、蔡瑁らの進言もあり、劉琮は曹操に降伏しました。
三國志演義では降伏した劉琮は、于禁に殺害された事になっていますが、史実では劉琮は青州刺史となり厚遇されています。
さらに、劉先も後漢王朝の尚書令となり厚遇され蒯越は光禄勲、文聘は江夏太守、韓嵩は大鴻臚、鄧義は侍中と、旧劉表陣営の親曹操派は皆が厚遇されたわけです。
曹操は荊州を取った後のターゲットは呉に絞りますが、劉先ら荊州の人材を優遇する事で、呉の降伏派を盛んにさせる狙いがあったとされています。
しかし、曹操は残念ながら呉の周瑜や魯粛の活躍もあり、赤壁の戦いでは呉の孫権に敗れました。
劉巴に周不疑を頼む
劉先が甥の周不疑に学問を勉強させようとして、劉巴に依頼した話があります。
ここで劉巴は、楊朱や墨子の話を持ち出し丁寧に断った話があります。
劉巴は諸葛亮が認める程の才能を持った人物ではありますが、張飛が家に泊まったのに一言も話をしなかった人物でもあります。
劉巴は名士層とは交わりますが、それ以外の人間には差別的な精神を持っていた人物だとも言えるでしょう。
劉巴の様な名士としてのプライドが高い人物に、周不疑を預けるのはどうか?と感じた部分もあります。
劉先は先見の明はあった様に感じますが、劉巴に周不疑を預けるのは疑問に感じた次第です。
劉先の能力値
三国志14 | 統率37 | 武力18 | 知力66 | 政治75 | 魅力65 |