
| 名前 | 秦の武王 |
| 姓・諱 | 嬴蕩 |
| 別名 | 悼武王、武烈王、元武王 |
| 生没年 | 紀元前329年ー紀元前307年 |
| 在位 | 紀元前310年ー紀元前307年 |
| 一族 | 父:恵文王 母:恵文后 配偶者:武王后 兄弟:昭王 |
| コメント | 鼎を持ち上げようとして脛骨を折り亡くなった。 |
力自慢の君主でもあり、任鄙、烏獲、孟賁が取り立てられました。
秦の武王は樗里疾と甘茂を左右の丞相としています。
秦の武王の最大の功績は、韓の宜陽を陥落させた事でしょう。
甘茂が宜陽を陥落させると、秦の武王は東周王朝に行きアトラクションなのか鼎を持ち上げるパフォーマンスを行っています。
しかし、怪力であった秦の武王ですが、脛骨が折れて亡くなりました。
この時に23歳だったと伝わっています。
秦の武王の在位は、僅か4年ほどしかありません。
秦の武王の即位
秦の武王は父親の恵文王が亡くなると即位しました。
秦の武王の元年は紀元前310年です。
この時に、韓、魏、斉、楚、越の諸国がみな秦に服従したとあります。
既に恵文王の時代から秦の軍事力は三晋が束になっても敵わない程であり、諸侯は秦の武王の元を訪れたのでしょう。
史記によると、秦の武王の元年に魏の恵王と臨晋で会見を行った記録があります。
しかし、既に魏の恵王は世を去っており、魏の襄王の間違いではないでしょうか。
秦は韓の宜陽を陥落させ、東周王朝と境を接しようと考えており、魏との講和を継続したいと考えたのでしょう。
尚、秦の武王は怪力の持ち主だともされており、魏の襄王は武王の圧に驚いた可能性もあると感じています。
蜀の混乱
秦の武王の元年に蜀の宰相の荘(陳荘)を誅したとする記述があります。
恵文王の末年に、陳荘が蜀侯を殺害し来降した記録がありますが、秦の混乱の様子が伺えます。
蜀の混乱に関する記述は、史記の樗里子甘茂列伝の方が詳しく書かれており、甘茂が蜀を平定したとあります。
張儀・魏章の出奔
秦の武王の時代になると、張儀と魏章が魏に行ったとあります。
張儀は楚の懐王を欺き、恫喝外交を行ったりもした事で、諸侯に恨まれていました。
特に斉の宣王の張儀に対する憎しみが強かったわけです。
秦の武王は張儀を毛嫌いしていた話が残っています。
武王が張儀を嫌った理由は明らかではありませんが、体格がよく剛腕の持ち主である秦の武王からしてみれば、張儀のやり方は「男ではない」と映ったのかも知れません。
張儀の方でも秦の武王から毛嫌いされている事を知っており、策だと称して自ら魏に赴きました。
尚、張儀は秦の武王の元から、出奔した翌年である紀元前309年に魏で世を去っています。
筋肉枠
張儀や魏章は魏に出奔してしまいましたが、秦の武王が登用した人材として任鄙、烏獲、孟賁などが大官になったとあります。
秦の武王は大力の持ち主であり、力試しを好みました。
史上最強の猛将と言われた項羽も怪力であり鼎を持ち上げた話がありましたが、秦の武王も負けないくらいの怪力でもあったのでしょう。
秦の武王が怪力だった事で、同じく大力の持ち主である任鄙、烏獲、孟賁が重用される事になります。
これらを考慮すれば、秦の武王の朝廷では筋肉枠があったという事なのでしょう。
ただし、秦の武王は自らの力を過信したのか、悲劇的な最後を迎える事になります。
異民族討伐
秦の武王の元年に、義渠、丹、犂などを討ったとあります。
これらの国々は恵文王の時代に服属していましたが、武王が即位すると反旗を翻したという事なのでしょう。
さらに、南公揭が亡くなったとあります。
南公揭はどの様な人物なのか不明ですが、当時としては注目度が高い人物であり、武王の時代に亡くなった事を史記は書き示しました。
左右の丞相を設置
秦の武王の3年(紀元前308年)に、秦は初めて丞相を設置したとあります。
樗里疾と甘茂が左右の丞相になったとあります。
右丞相になった樗里疾は恵文王の時代に大活躍した功臣であり、秦の武王は引き続き重用したのでしょう。
甘茂は魏章の補佐をしていましたが、魏章の出奔後に蜀の平定などの功績がありました。
甘茂は蜀から戻ると、秦の武王から左丞相に任命されています。
宜陽攻略戦
息壌の誓い
紀元前308年は秦の武王が韓の襄王と臨晋で会合を行った年でもあります。
この後に、樗里疾が韓の宰相になったとあります。
樗里疾は母親が韓の人間であり、秦の朝廷の中では親韓派になるのでしょう。
しかし、秦の武王は甘茂には「儂は兵車を三川(伊水、洛水、河水がある地方)に入れ、そこを通過し周の王室を脅かし、天下に号令出来るなら、秦でも恨みはない」と述べました。
秦の武王は韓の襄王と会見を行い、親韓派の樗里疾を韓に入れたかと思えば、韓の宜陽を攻撃しようとしたわけです。
見方を変えれば、秦の武王は新韓派の樗里疾を理由を付けて、韓に追い払ったとみる事も出来ます。
甘茂は魏と協力して韓を討ちたいからと述べ、甘茂は向寿と共に魏に向かう事になります。
秦の武王は甘茂と息壌で会い、宜陽攻撃の決断をしました。
この時に、甘茂はたとえ話を出し、秦の武王に戦いが長引いても、親韓派の樗里疾や公孫奭の言葉に耳を貸さない様にと告げました。
秦の武王も甘茂と約束し、その地名から息壌の誓いと呼ばれる様になります。
宜陽を陥落させる
秦の武王は甘茂と庶長の封に韓の宜陽を攻撃させました。
この時点で、樗里疾は韓の宰相の座から外されたのかも知れません。
宜陽は過去に韓武子が鄭を取るために、本拠地にした場所であり、韓も宜陽の重要さを理解しており懸命に守る事になります。
しかし、五カ月が経過しても、宜陽を落す事が出来ず、甘茂が予想した様に樗里疾や公孫奭が非難を始めました。
樗里疾は韓の宰相にもなっており、戦いには大反対だったのでしょう。
秦の武王の心は揺らぎますが、甘茂からは息壌の誓いの事を言われ、武王はさらに兵を増強し、甘茂を助けました。
秦の武王の援軍もあり、甘茂は宜陽を陥落させ、斬首6万という大戦果を挙げています。
宜陽を陥落させた事で、秦の武王は東周王朝と国境を接するまでになったわけです。
死んでも悔いはないと述べた、秦の武王の願いは成就された事になるでしょう。
韓の襄王は恐れをなしたのか、宰相の公仲侈を秦に派遣して和睦したと言います。
さらに、魏の襄王は太子を秦に入れました。
秦の武王の最後
史記の樗里子甘茂列伝によると、秦の武王は甘茂が宜陽を抜くと、東周王朝に赴いた話があります。
ここで、秦の武王は自慢の怪力を見せつけようとしたのか、孟賁と鼎を持ち上げた話があります。
春秋時代の楚の荘王と王孫満の間で、鼎の軽重を問うの話がありますが、秦の武王はパフォーマンスなのか鼎を持ち上げようとしたわけです。
しかし、次の瞬間に秦の武王の脛骨が折れ、亡くなりました。
多くの人が秦の武王が鼎を持ち上げる瞬間を見ていたと考えられ、唖然としてしまったのではないでしょうか。
秦の武王が亡くなった責任を取らされたのが、孟賁であり一族皆殺しとなっています。
秦の武王には子が無く、弟の秦の昭王が秦王として即位しますが、武王は突然死だったのであり、朝廷は混乱しました。
武王の死により宣太后や魏冄が実権を握る時代が訪れる事になります。
尚、秦の武王の死は天下の物笑いとなったとも伝わっています。
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