
| 名前 | 晋の恵公 |
| 姓・諱 | 姫夷吾 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前637年 |
| 在位 | 紀元前650年ー紀元前637年 |
| 時代 | 春秋戦国時代 |
| 一族 | 父:献公 母親:小戎子 兄弟:申生、文公、奚斉、卓子、穆姫 |
| 配偶者:梁伯の娘 子:懐公 | |
| コメント | 君主になってから不徳な行為が目立った |
晋の恵公は春秋時代の晋の君主です。
国外では秦の穆公や斉の桓公に推され、国内では里克や丕鄭に擁立され晋の君主となりました。
しかし、晋の恵公は即位してからは、不徳な行為が目立ち、約束を反故にするなどの話もあります。
韓原の戦いでは秦の穆公に敗れて捕虜となりました。
公子の時代は「有能な人物」として評価が高かったわけですが、晋の君主になってからは失政が多かったと言えるでしょう。
夷吾の訴え
晋の献公が晋の君主となりますが、太子の申生、重耳、夷吾の三人は名高い存在であり、大臣達も注目していました。
しかし、晋の献公は驪姫を寵愛し、三公子を遠ざけようと考え、曲沃、蒲、屈の三邑に配置する様にしました。
晋の献公は蒲と屈に築城する様に、士蔿に命じますが、士蔿は手抜き工事を行っています。
士蔿は晋の献公の意図を読み取っており、後で攻めるのであれば、手抜き工事の方が好都合だと考えたのでしょう。
夷吾は士蔿が手抜き工事を行っていると悟り、夷吾は晋の献公に訴え出ました。
晋の献公もこの時はまだ、三公子を殺害しようとは考えておらず、士蔿を責める事になります。
後に驪姫の謀略により、太子の申生が亡くなり、晋の献公は蒲の重耳と、屈の夷吾を攻める事になります。
この時に、重耳の蒲は呆気なく陥落し狄に亡命しますが、屈の夷吾は数年に渡り持ちこたえました。
夷吾が屈邑で粘る事が出来たのは、士蔿の手抜き工事に対し、しっかりと文句を言った部分も大きい様に感じています。
重耳に比べると、夷吾の方が鋭さがある様に見える話でもあります。
梁に亡命
紀元前654年に晋の献公は大夫の賈華を派遣して、屈を攻撃させました。
賈華の攻撃の前に、夷吾は守り切れず、屈の人々と盟約をしてから立ち去ったとあります。
夷吾が屈の人々とどの様な盟約を行ったのかは、記録がなく分かっていません。
屈を立ち去った夷吾は狄に亡命しようとしますが、兄の重耳が既に亡命しており、郤芮の進言により梁に亡命する事になります。
梁伯は娘を夷吾に嫁がせ、梁伯との間に生まれた子が、太子圉(晋の懐公)です。
晋の恵公の即位
紀元前651年に晋の献公が没し、奚斉が晋の君主となりました。
晋の大臣の里克は丕鄭と協力し、奚斉を殺害すると荀息は驪姫の妹の子の卓子を擁立しました。
しかし、里克は卓子を殺害し、新たなる晋公を擁立しようと考えたわけです。
最初の候補が重耳であり、屠岸夷を重耳の元に派遣しますが、重耳は殺害されるのを恐れ、辞退しました。
重耳に断られた事で、里克らは夷吾に打診を行っています。
夷吾は郤芮の進言もあり、秦に五つの城を割譲する事を条件に、支援を依頼する事になります。
秦の穆公は公孫枝に意見を聞くと、公孫枝は夷吾では国が安定しないと応えました。
公孫枝の意見を聞いた秦の穆公は、夷吾が失敗してくれれば好都合だと考え、夷吾が晋に入る手助けをする事を約束しました。
斉の桓公も晋の混乱を収める為に、諸侯の軍を率いて高梁まで行った話があります。
斉の隰朋は秦軍に合流し、夷吾を秦に送り込みました。
周公忌父と王子党も会合に参加し、夷吾が晋の君主になる事を認めました。
夷吾は無事に晋公となり、晋の恵公と呼ばれる事になります。
晋の恵公の不徳
里克を処刑
晋の恵公は即位すると、里克を処刑しようと考えました。
春秋左氏伝には「諸侯の申し開きとした」とあり、主君を二人も殺害した里克を成敗したと説明したのでしょう。
晋の恵公の使者が里克に言葉を伝えると、里克は自刃しました。
里克は晋の恵公即位の最大の功労者と言っても良いはずですが、晋の恵公は殺害してしまったわけです。
この頃から、晋の恵公の不徳さが目立つ様になります。
里克と共に行動し、功績があった丕鄭は使者として、秦に向かっていた事もあり、難を逃れています。
晋の恵公と申生の霊
春秋左氏伝によると、紀元前650年に共太子(申生)を改葬した話があります。
秋に狐突が曲沃に行くと、申生の亡霊に会ったと記録されています。
亡霊になった申生は「夷吾は無礼」とも述べており「天帝の許しを得て国ごと秦に与える」とも狐突に伝えました。
狐突が考えなおす様に伝えると、最終的に申生は晋の恵公が韓の地で大敗を喫すると伝える事になります。
この話が真実だとは思えませんが、晋の恵公の韓原の戦いでの大敗北を予言した話となっています。
里克・丕鄭の一味を処刑
丕鄭は秦に到着すると、晋が五つの城を割譲しないのは、郤芮・郤称・呂省が問題になっていると語り、三人を秦に誘き出し処刑する様に弁舌を振るいました。
秦の穆公は丕鄭を晋に送り込みますが、郤芮・郤称・呂省らは怪しみ丕鄭、祁挙をはじめ、共華、賈華、叔堅、 騅歂、纍虎、特宮、 山祁ら晋の七輿大夫を殺害しています。
これらの人物は、里克と丕鄭を支持する者達でもありました。
丕鄭の子の丕豹は秦に逃亡し、穆公に晋の恵公の不徳さを述べ、晋を討つ様に進言しますが、穆公は許しませんでした。
因みに、秦の穆公は晋から土地を割譲される事は無かったわけです。
尚、晋の恵公は魯に使者を派遣し、丕鄭の乱の通告を行っています。
周の襄王の使者
紀元前649年に周の襄王は召公武と内史過を派遣し、晋の恵公に策命を賜わった話があります。
ここで、晋の恵公は瑞玉の受け取り方がだらしがなかった話があります。
内史過は周の襄王に、晋の恵公には後継者がいないと語りました。
晋の恵公は敬がなく礼は実施されないとも述べています。
この話も晋の恵公の不徳さを現わす話となっています。
泛舟の役
紀元前647年に晋で飢饉があり、晋の恵公は秦に食糧支援を頼みました。
秦の穆公は百里渓の言葉に従い、晋に食料の援助を行っています。
これを泛舟の役と呼びます。
翌年になると、今度は秦に飢饉があり、晋に対し食糧援助を求めました。
晋の恵公が群臣に意見を求めると、慶鄭は「迷わず与えるべき」としましたが、虢射は「天帝が与えた好機であり秦を討つべき」としました。
晋の恵公は虢射の意見を採用し、秦の討つ決断を固める事になります。
秦は恵公の背信行為に激怒し、出兵して決戦を挑みました。
泛舟の役も晋も恵公の不徳さを示すものとなっています。
韓原の戦い
秦との間で、韓原の戦いが勃発しますが、戦いの前に晋の恵公が占うと、御者と車右の両方に慶鄭がよいと出ました。
しかし、晋の恵公は「慶鄭は不遜な奴」と述べ許さず、御者を歩陽とし車右を家僕徒としています。
韓原の戦いの前にして、韓簡は敗戦を悟った話があり、最初から負けが決まっているかの如く戦ったわけです。
それでも、梁由靡と虢射の奮戦はありましたが、晋の恵公は戦いに敗れただけではなく捕虜になってしまいました。
韓原の戦いで晋の恵公は、大敗北を喫してしまったと言えるでしょう。
晋の恵公と秦の穆公
秦の穆公は捕虜となった晋の恵公を、天帝への生贄としようとしました。
しかし、穆姫が涙を流し、弟の助命嘆願をした事で、秦の穆公は箕子が唐叔が晋に封じられた時に「強勢になる」と言った事を述べ、「晋を滅ぼす事は容易に出来ない」と告げ、晋の恵公の生贄計画は取りやめました。
この後に、呂省の言葉もあり、秦の穆公は晋の恵公を国許に返さず、引き留めています。
秦の穆公は七牢の珍味で晋の恵公を饗応しました。
後に秦の穆公は晋の恵公を国許に返しますが、晋の太子圉(晋の懐公)を人質として秦に入れています。
重耳の暗殺
晋の国内では重耳は人気があり、晋の恵公は重耳の存在を邪魔だと考える様になります。
重耳がいては、自分の子が後継者になれないと考えたのかも知れません。
晋の恵公は宦官の勃鞮を暗殺者として、重耳に差し向けました。
重耳は身の危険を感じ、趙衰らと相談し、狄を出て斉の桓公の元に向かう事になります。
晋の恵公の最後
紀元前638年に晋の恵公が病に倒れました。
晋の恵公の子が数人国内にいましたが、秦にいた太子圉は「即位出来ないのではないか」と不安になります。
数年前に秦は太子圉の母親の実家である梁を滅ぼしており、秦の協力も得られないと不安になった事でしょう。
ここで、太子圉は秦の穆公に断りを入れる事もなく、晋に帰国してしまいました。
翌年である紀元前637年に晋の恵公は世を去る事になります。
既に太子圉は帰国しており、晋公に即位しました。
これが晋の懐公です。
しかし、秦の穆公は晋の懐公を良くは思っておらず、楚にいた重耳を晋に入れようと画策しました。
最終的に重耳が君主となり、晋覇の時代に突入する事になります。