古代日本 古墳時代

宋書倭国伝の内容を分かりやすく解説

2024年5月31日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前宋書倭国伝
著者沈約
コメント倭の五王の話が掲載されている。

宋書倭国伝は中国の宋の歴史を書いた宋書の中にある倭国に関する記述を指します。

ただし、実際には宋書倭国伝という「伝」が立てられているわけではなく、宋書に列伝第五十七 夷蛮に倭国に関する事が、高句麗や百済、林邑、扶南などと共に記載されているだけです。

魏志倭人伝が正史三国志の魏書東夷伝倭人の条という名称が正しい様に、宋書倭国伝も「宋書・夷蛮伝倭人の条」というのが正式名称となります。

宋書倭国伝の注目すべきポイントは何と言っても、倭の五王の記述がある事でしょう。

中国から見た日本の記録は西暦266年に倭の女王(台与だと考えられている)が朝貢してから、150年ほど途切れており、空白の150年と呼ばれる時代に入っていました。

ここで再び倭国の事が登場するのが宋書倭国伝であり、倭の五王の事が書かれており、当時の日本を知る上での貴重な資料となっています。

宋書倭国伝には421年の倭王讃の朝貢から478年の倭王武の上表文までが記録されている状態です。

尚、宋書の著者である沈約は441年に生まれ513年に没するまでの間に宋、南斉、梁の時代を生き抜いており、本人も含めて宋の事をよく知る人物も存命していたはずであり、記述の正確さが評価されたりもしています。

倭王武の上表文に関しては、既に単独の記事にしてあり倭王武の上表文の記事を読むようにしてください。

ここでは倭王武の上表文以外の宋書倭国伝の内容を解説も含めて分かりやすく解説します。

宋書倭国伝のゆっくり解説動画も作成してあり記事の最下部から見る事が出来ます。

宋書倭国伝の内容

中華王朝と倭国の関係

宋書倭国伝の本文は、次の記述から始まります。

倭国は高句麗の東南の大海の中にあり、貢物を以って伺いにくる。

上記の記述から倭国は中華王朝の下位にあたる存在であり、貢物を以って中華王朝の宋に頭を下げている事が分かるはずです。

実際に師升や卑弥呼などは後漢王朝や三国志の魏に朝貢した記録が残っています。

朝貢と言うと、倭国が下手に出て中華王朝に対し貢物を贈っているだけの存在に思うかも知れません。

しかし、実際には朝貢貿易の言葉にもある様に、貢物を届けた以上の返礼品が中華王朝からあり、周辺国は朝貢を行うとメリットも大きかったわけです。

中国側も朝貢があれば蛮夷が皇帝の徳を慕ってやってきた事になり、皇帝の面子を保ち権威を高める上で有効な手段でした。

倭王讃の朝貢

421年に倭王讃が宋へ朝貢を行いますが、宋書倭国伝には次の様に書かれています。

高祖の永初二年、詔して曰く、

「倭讃は遠い万里の地より貢物を修めている。

遠い距離を厭わぬ誠意は高く評価している。

故に官爵を授ける」

ここで言う高祖は宋の初代皇帝である劉裕の事であり、宋は420年に建国さればかりで不安定さもあった事から、倭国の朝貢は歓迎された事でしょう。

倭国の朝貢は宋の求心力を増す結果となったはずです。

421年に倭王讃が朝貢を行った理由ですが、当時の倭国は広開土王碑や三国史記にある様に百済と手を結び高句麗や新羅と激闘を繰り返していました。

倭国は朝鮮半島での戦いで優勢に進める為に、宋の権威を利用しようとしたのでしょう。

さらに、倭国内も不安定であり、倭王讃は宋の後ろ盾を得て倭国を纏めようとした結果とも考えられています。

高句麗や百済も宋から官爵を貰っており、倭国もそれに倣ったとも言えます。

尚、宋書倭国伝には倭王讃の官爵が書かれていませんが、後の事を考えると安東将軍、倭国王に冊封されたのは確実でしょう。

司馬曹達

宋書倭国伝によると、425年に倭王讃が配下の司馬曹達を宋へ派遣した事が、次の様に記録されています。

太祖の元嘉二年に倭王讃は司馬曹達を派遣し、上表文を奉り倭国の特産物を献じた。

425年に倭王讃は配下の司馬曹達を宋へ派遣し朝貢を行った事が分かります。

司馬曹達の上表文に何が書いてあったのかは不明です。

ここで注目したいのは曹達が「司馬」だという事です。

司馬は軍事に関する役職であり、倭王讃が府官制により安東将軍府を開設し、配下の曹達を司馬に任命したのでしょう。

倭王讃の配下の者が宋の官職を望んだ場合に、倭王讃を通さなければならず、これらも倭王権の権威を高める結果になったと考えられています。

尚、曹達は謎の人物であり、中国語が巧みな朝鮮半島系の人物だったのではないか?ともされています。

因みに、司馬曹達が宋へ行った425年には、既に宋の初代皇帝劉裕は亡くなっており、宋の文帝の時代となっていました。

倭王讃は倭讃を名乗っており、曹達の名前を見ると分かる様に倭国は中国風の名前を名乗り、宋へ朝貢していた事が分かるはずです。

同様に百済や高句麗も中国風の名前を名乗り、朝貢を行っています。

倭王珍

宋書倭国伝には倭王讃が亡くなり、倭王珍が即位した事が、次の様に書かれています。

倭王讃が亡くなり弟の倭王珍が後継者となった。

倭王珍は使者を派遣し貢物を奉った。

上記の記述から倭王讃と倭王珍は兄弟だった事が分かります。

倭王珍も兄の倭王讃の政策を踏襲し、宋への朝貢を行った事が分かるはずです。

六国諸軍事

宋書倭国伝の倭王珍の注目すべき記述は次の通りとなります。

自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、除正する様に求めた。

倭王珍は「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を称し、位を正式に認める様に要請した事になります。

記録には残っていませんが、倭王珍は宋への忠誠心を語る上表文を提出したのでしょう。

倭王珍は倭国だけではなく、名目上ではありますが百済、新羅、任那、辰韓馬韓の軍権を宋に求めた事になります。

宋の文帝は、次の様な決断をしました。

安東将軍・倭国王に任命する詔を発行した。

倭王珍の要求は却下され、倭王珍は安東将軍・倭国王として認められただけでした。

当時の宋は宋の文帝による元嘉の治が行われ名将・檀道済が北魏を破るなどもあり、宋としては倭国の要求をのむだけのメリットが無かったのでしょう。

倭王権の実力者倭隋

倭王珍は自らが六国諸軍事になる事は失敗しましたが、配下の者達に正式に将軍号を与える様に要請した記述があります。

倭王珍は臣下の倭隋ら十三人に平西、征虜、冠軍、輔国などの将軍号を正式に授ける様に求めてきた。

文帝は詔を発行し全て許可した。

倭王珍が府官制を利用し合わせて配下の者達に将軍号を与える様に要請しました。

ここで注目すべきは平西将軍に任命された倭隋でしょう。

倭隋は平西将軍となりましたが、倭王珍の安東将軍と倭隋の平西将軍は共に三品将軍であり、それほど将軍位の格が違うわけではありません。

倭王珍としては自分と配下の者の将軍号は差があった方が都合が良かったはずですが、倭隋だけは特別な計らいを必要としたのでしょう。

倭隋に関しては諸説ありますが、倭の五王の時代は大阪平野の時代でもあり、古市古墳群と百舌鳥古墳群の勢力があり倭王権を構成していたとも考えられています。

古市古墳群と百舌鳥古墳群のどちらかの勢力が倭王珍であり、もう一つが倭隋の勢力だったとする説もあります。

倭王済の即位

宋書倭国伝の443年に次の記述が存在します。

元嘉二十年。倭国王の済は使者を派遣して貢物を奉った。

そこで、倭王済を安東将軍・倭国王に任じた。

ここで注目したいのが、先代である倭王珍倭王済の関係が書かれていない事です。

梁書だと倭王珍の子が倭王済となっていますが、この記述を信用する人は少ないと言えます。

一つの説として、倭王権が別の王朝へ移行したのではないかとする説があります。

当時の大和王権は王族たちの連合政権だったとも考えられており、別の王権へ移行したのではないかとする説があります。

尚、倭王珍の時代に倭隋なる実力者がいましたが、倭王済は倭隋の系統だったのではないかとも考えられています。

ただし、宋書倭国伝の記述自体が簡略であり、様々な説があっても想像の域を出ません。

それでも、倭王讃倭王珍倭王済倭王興倭王武は別系統だったのではないかとする説が根強くあります。

倭国の躍進

宋書倭国伝に倭王済の時代に倭国が躍進した話があります。

倭王済を使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事の官職を与え、安東将軍は元のままとした。

並びに上奏した二十三人を将軍や郡長官に任命した。

ここで注目したいのが、倭王済が「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事」に任命されている事でしょう。

倭王珍が望んだ役職とは若干違い百済の軍権は認められていませんが、朝鮮半島南部の新羅や馬韓辰韓、任那や加羅の軍権が認められている事です。

倭王済が六国諸軍事を認められた背景には、宋の情勢も関わっていた事でしょう。

宋は宋の文帝の元で国力を高めましたが、450年に北魏に大敗北を喫しました。

宋は北魏の脅威に晒されており、高句麗も北魏への接近を見せていた事から、宋にとっては非常に難しい情勢となっていました。

こうした情勢の中で倭国が北魏への牽制になってくれればと思ったのか、倭王済は六国諸軍事に任命したのでしょう。

尚、六国諸軍事の中で百済の名前がないのは、百済は既に宋へ朝貢を行い鎮東大将軍となっており、宋の中では倭国の要求を認めて百済の機嫌を損ないたくなかったと考えられます。

六国諸軍事に新羅の名前があるのは、新羅は宋へ朝貢するわけでもなく、宋書にも新羅の名前は皆無と言ってもよいわけです。

新羅は宋に朝貢して来るわけでもなく、地理的に朝貢が難しい事から、倭国が新羅の軍権を望み「欲しいならくれてやる」程度のものだったのでしょう。

さらに、倭国は高句麗や百済と同様に府官制を導入しており、倭国の二十三人に将軍号や郡長官の官爵を授けました。

尚、宋書倭国伝では安東将軍のままとしたとありますが、宋書本紀の文帝紀には「安東大将軍とした」とする記述があり、どちらが正しいのかは不明です。

倭王興の朝貢

倭王済の時代に倭国は朝鮮半島南部の軍権を手にしたわけですが、それ以外に宋書倭国伝には記述がなく、次の言葉が続きます。

倭王済死す。世子の興が使者を遣わして貢物を奉った。

ここで注目したいのは、倭王興が倭国王ではなく世子の立場で、朝貢を行ったという事です。

世子と言うのは、太子であり後継者を指す言葉ですが、倭王興が世子の立場で朝貢した理由はよく分かっていません。

倭国内で何かしらの混乱があり、倭王興は世子の立場で朝貢した可能性があります。

世子である興が朝貢したのが462年の事であり、次の記述が宋書倭国伝にあります。

大明6年。世祖孝武帝は詔を下して述べた。

「倭王の世子の興は、代々に渡り重ねてきた中国への忠節を大事にし、外海の藩屏となり中国の感化を受けて辺境を安んじ、恭しく貢物を持参し来朝した。

興は新たにその遠い地を治める事になったのだから、爵号を授け安東将軍倭国王とせよ」

尚、倭王興は安東将軍・倭国王であり六国諸軍事に任命されなかった理由は、イマイチ分かっていません。

ただし、倭王興が宋から倭国王として認められたのは、事実なのでしょう。

倭王武の登場

倭王興が安東将軍倭国王に冊封されましたが、宋書倭国伝は次の記述が続きます。

倭王興が亡くなり倭王武が倭王となった。

自ら持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称した。

上記の記述から倭王興が亡くなると、倭王武が即位し百済を足し七国諸軍事を求めている事が分かるはずです。

宋書倭国伝には478年の倭王武の上表文が掲載されていますが、倭王武に宋は次の爵号を与えました。

使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王

宋は最後まで倭国に百済の軍権を認めず、七国諸軍事は叶いませんでした。

ただし、倭国には百済の軍権を認めない代わりに、倭国王を「倭王」としています。

倭国王は軍事協力が期待出来ない場合を指し、倭王と言うのは軍事協力が期待できる場合を指します。

倭王としたのは、宋にとって倭国は重要なパートナーだと言う事を印象付けたとも言えるでしょう。

さらに、倭王武は安東大将軍に進むなど七国諸軍事は認められませんでしたが、厚遇されている様に見えます。

この頃には宋は山東半島を北魏に奪われており、多くの味方を望んだ結果だとも言えます。

倭王武の上表文

宋書倭国伝の最後ですが、倭王武の上表文で締められています。

倭王武の上表文の内容に関しては、最初にも述べた様に倭王武の上表文の記事に方で書きましたので、そちらを読むようにしてください。

倭王武の上表文を簡単に説明すると、宋に対して遜った文章で書かれており、倭国は毛人や衆夷を討ち朝鮮半島へも軍を派遣した事が書かれています。

倭国は宋の為に動いており、高句麗が暴虐だとする話も書かれています。

そして最後に開府儀同三司を望み宋に対して忠実だと書かれているわけです。

魏志倭人伝と宋書倭国伝

魏志倭人伝に比べると宋書倭国伝は明らかに注目度が低いと言えるでしょう。

宋書倭国伝と魏志倭人伝を比べると、内容の目新しさや濃さが全くの別物です。

魏志倭人伝には倭人の風習、邪馬台国狗奴国の戦争。邪馬台国の政治体制など多くの情報があり刺激的だと言えるでしょう。

それに対し、宋書倭国伝では倭の五王らが朝貢を行った事と、宋が爵位を与えた事位しか記述がなく、最後の倭王武の上表文に倭国の情報が少し掲載されている程度です。

それらを考慮すると、魏志倭人伝に比べると宋書倭国伝が注目されない原因でもあるのでしょう。

宋書倭国伝の動画

宋書倭国伝のゆっくり解説動画です。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細