周の幽王と西周王朝の滅亡のお話となります。
キングダムの世界は、春秋戦国時代の乱世の時代です。
乱世の時代になるには、やっぱり、きっかけを作った人がいるわけです。
日本の戦国時代は、応仁の乱により群雄割拠になりましたが、中国の春秋戦国時代は、周の幽王のオオカミ少年的な行為がきっかけで西周王朝は滅び乱世の時代に突入します。
今回は、究極のオオカミ少年なのか、究極のアホなのか分かりませんが、周の幽王を紹介したいと思います。
尚、タイトルは「究極のオオカミ少年・周の幽王【西周王朝の滅亡】」になっていますが、実際のこの時の幽王の年齢は中年だったと思われます。
前の王である宣王の治世が長いので、場合によってはオオカミ爺さんの可能性もあるでしょう。
周の文王や武王が建国した周王朝(西周)がなぜ周の東遷を行わなければならなくなったのかを解説します。
運が悪い王様でもある
最初に言っておきますが、幽王は衰えた西周王朝の時代の王様なので、めぐり合わせの悪い王様とも言えます。
周は昭王の頃より勢いを無くし、厲王の時代には国人が暴動を起こし厲王が出奔し、大臣が政治を行う共和なる時代があったわけです。
幽王の前、宣王の前半では、周の威光を取り戻した感もありますが、治世の後半では失策が目立ちます。
そして、西周にとどめを刺したのが、幽王という事です。
多分ですが、幽王は全く頭が悪いとかそういう事ではなく、変なところで知恵は働く男だと思っています。
ただ、そういう男って逆に立ちが悪い様な気もしますが・・。
尚、周の幽王は虢石父を卿としますが、評判が悪かった話があります。
申公との対立
幽王の后は、諸侯である申公の娘でした。
申公の娘との間に出来た子が宜臼で太子にしていたわけです。
しかし、幽王は褒姒(ほうじ)という女性を手に入れると溺愛するようになります。
そして、褒姒との間に出来た子(伯服)を太子にして、宜臼を廃嫡してしまいます。
危険を感じた宜臼らは、申に逃亡しました。
この時に、伯陽という人物は「災いが完成されてしまった」といい西周王朝の滅亡を予言します。
宜臼の太子の位を廃嫡する行為は、申公の怒りを買うわけです。
ここにおいて、幽王と申公の対立は決定的となります。
幽王が先手を打ち諸侯を率いて、申に攻め込みました。
最初は、押されていた申公ですが、徐々に盛り返し、最後は周の幽王の軍隊を撃退しています。
これにより幽王は、鎬京に逃げ帰りました。
そして、申公の強さに怯えてしまいます。
諸侯は鎬京が攻められたら、狼煙をあげれば救援に来ることを約束して、それぞれの国に帰りました。
笑わない美女褒姒
幽王が溺愛した褒姒ですが、笑わない美女でした。
顔はいいのですが、笑う事はしません。
幽王は何とかして、笑わせようとするわけですが、毎回、失敗していたいわけです。
しかし、「笑わない女を笑わせてはいけない」と聞いた事がないでしょうか?
笑わない女を笑わせてしまった事で幽王に災難が降りかかるわけです。
間違って狼煙をが上がる
先にお話したように、狼煙が上がると諸侯は救援に鎬京に集まる事になっていました。
しかし、間違いで狼煙が上がってしまった事があり、諸侯は救援に来たのですが、外敵は誰もいません。
もちろん、諸侯の嫌な視線が幽王に集まるわけですが、幽王からして見れば「自分が悪いわけではない」と言った感じだったのでしょう。
しかし、この時に褒姒が大笑いを始めたわけです。
敵がいると思って集り、唖然とした諸侯を見て大笑いをします。
幽王としては、それが快感になってしまいます。
幽王の究極のオオカミ少年がはじまる
幽王は何を思ったのか、自分から家来に命令して狼煙を上げさせます。
すると、諸侯は幽王が敵に襲われたと思い鎬京に急いできます。
しかし、敵はいません。
そして、褒姒はまたもや大笑いをするのです。
これが幽王は快感になってしまい、何回も繰り返す事になります。
繰り返した事で、諸侯も段々と幽王のお戯れだと気が付き集りが悪くなってきます。
最後まで律儀に集合したのは、鄭の桓公くらいです。
申公と犬戎が西周を滅亡させる
幽王がオオカミ少年をしている事を察知した申公は犬戎を誘い西周王朝の首都である鎬京を突然攻めます。
幽王は、慌てて狼煙を上げるのですが、集まる諸侯は鄭の桓公くらいでした。
つまり、オオカミ少年と同じように、誰にも信じて貰えずに救援が来なかったわけです。
王都は、申公と犬戎の軍隊に囲まれるわけですが、何とか鄭の桓公が救出して王を逃がそうとします。
鄭の桓公は周の副都である洛陽に入れようと思ったようですが、驪山の麓で申公や犬戎の軍に追いつかれてしまい大敗します。
そして、幽王も殺されてしまいますし、褒姒は捕らえられたようです。
幽王が死に鎬京が申公と犬戎に荒らされた事で西周王朝は滅亡しました。
尚、鄭の桓公は周の幽王と共に死んだわけではないとする説もあります。
ただし、周の幽王だけは紀元前771年に亡くなった事に異を唱える者は殆どいません。
春秋戦国時代が始まる
この後なのですが、申にいた宜臼を申・晋・秦・鄭・衛・魯などの諸侯の連合軍が洛陽に入れて王朝を再開させました。
宜臼は周の平王となります。
史記によればこの時に活躍したのが、晋の文侯、鄭の武公、衛の武公、秦の襄公らです。
秦の襄公は、この時に諸侯に加えられています。
しかし、周は大きく国力を落としていました。
これにより天下を運営出来る人がいなくなってしまい、諸侯同士で利権を求めて戦う春秋戦国時代になります。
東周時代と呼ばれる事も多いです。
尚、東周時代の初期は、平王を王として認めない人たちもいました。
幽王の別の子である余臣を携王として即位させています。
これにより中国史上初の二王朝並立時代になります。
しかし、平王に与する晋の文侯が携王を倒し周王朝を統一しました。
携王を倒したのも諸侯の力ですし、諸侯の力なくして周王朝は立ち上がれない事を露見してしまいます。
その後は、覇者の時代となり鄭の壮公や斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、宋の襄公、晋の穆公などの強い諸侯が弱い諸侯をまとめる時代になっていきます。
春秋五覇の時代ですね。
春秋戦国時代の始まりは、キングダムの世界よりも500年ほど前の出来事です。
個人的には、秦の襄公が周から諸侯として認められた時が、秦の統一戦争の始まりだと考えています。
申公も褒姒を笑わせてしまう
幽王が死に、褒姒が捕らえられた時に、一説によると褒姒が笑っていたとする説もあります。
つまり、幽王だけではなく、申公も褒姒を笑わせてしまいました。
この後の、申公なのですが、どうなったのかはイマイチ分かっていません。
ただ、周の平王を擁立する事に成功し申公はキングメーカーになるはずなのですが、これ以降の申は振るわなくなります。
普通で考えれば絶大な権力を得て諸侯を命令する立場でも良さそうなのですが、そういう感じもありません。
さらに、春秋戦国時代の初期に楚により申は早々と滅亡して姿を消しています。
もしかし、申公も褒姒を笑わせてしまった事で不幸に見舞われてしまったのかも知れません。
ここは、結果論になってしまうので、何とも言えない部分もありますけどね。
周の幽王を見て思う事
周の幽王ですが、オオカミ少年みたいな行為はよくないでしょう。
あれって諸侯が来なくなるのは当たり前ですよね。
普通ではありえない事をやるのが、周の幽王だったのかも知れません。
尚、幽王と褒姒の話しは史記にも載っています。
笑わない美女を笑わせてはいけないという話なのでしょう。
ちなみに、幽王は褒姒の脇や足の裏をくすぐるという行動をしなかったのか?と疑問を持つ人もいるようです。
普通で考えれば、くすぐってでも笑わせればいいですよね。
あと、幽王と褒姒の話しは、余りにも常識からズレすぎていて信憑性を疑う人もいるようです。
普通に考えれば、幽王がオオカミ少年行為を行おうとしたら、止める大臣がいるかと思います。
他にも、諫言する大臣が一人くらいいてもいい気がするわけです。
それすらもいないと言う事は、当時の周王朝は人材不足だったのかも知れません。
それか幽王に媚びを売る人が多かったかも知れませんね。
褒姒は、殷の紂王の妲己、夏の傑王の末喜と並ぶ傾国の美女と言えそうです。
ちなみに、褒姒の最後はよく分かっていません。
トカゲに変身して消えたような伝説もあります。
西周王朝が滅亡した本当の理由
西周王朝が滅亡した理由は周の幽王が褒姒を笑わしてしまった事ではないとする説もあります。
当時は気候変動により、犬戎が西周王朝の地域に大移動を始める事になります。
さらに、周王朝が衰えていた事もあり、犬戎に上手く対処する事も出来ず、滅亡した説です。
実際に、気象学では西周の滅亡時に寒冷化が起こっていた事が挙げられます。
今の感覚だと寒冷化と言っても、少し寒くなった位では?と思うかも知れません。
しかし、中世までにおいて気候変動により世界が一変してしまう事はよくある事です。
古代オリエントでも気候変動によりインドヨーロッパ語族(アーリア系)がシリアなどに雪崩れ込み、結果としてアムル人の多くが難民となりシュメール人のウル第三王朝に訪れます。
難民を防ぐ為に、シュメール人のウル第三王朝は壁などを作り対処しますが、結局は飢饉もあり滅亡する事になります。
他にも、紀元前1200年のカタストロフと呼ばれる地球規模の寒冷化により、地中海東岸で海の民が暴れ回り、ヒッタイトが滅亡した話もあるのです。
日本でも西周王朝が滅亡した頃には、縄文人の食料が不足したのではないか?とか、食料不足に陥り稲作が始まったとする説もあります。
それらを考えると、周の幽王が褒姒を笑わせてしまったのは、あくまでも伝説であり、実態は気候変動に弱体化した事が原因の可能性もあります。