その他 三国志

劉闡(りゅうせん)は呉の益州刺史になった人物

2022年1月30日

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名前劉闡(りゅうせん)、別名として劉緯
生没年不明
勢力劉焉→劉璋→劉備→孫権
血縁関係祖父:劉焉 父親:劉璋 兄:劉循
年表西暦214年 劉璋と共に劉備に降伏
コメント気前が良く親分肌の性格だったと伝わっている

劉闡は益州刺史劉璋の次男であり、兄には劉循がいた事が分かっています。

劉闡に関する記述は、蜀書劉二牧伝第一劉璋伝に僅かな記録があるだけです。

しかし、裴松之が残した注釈の呉書の記録によれば、劉闡は親分肌の人物で、人間的はかなりまともな人物だった様に感じています。

劉璋が劉備に降伏した後に、劉闡は劉璋と共に益州の公安に移ったと考えられています。

関羽が呉に敗れて荊州南部が孫権の手に落ちると、劉璋は益州牧となり、劉璋が亡くなると劉闡が益州刺史になった記録があります。

今回は劉璋の次男である劉闡の解説を行います。

尚、劉闡の読み方は「りゅうせん」であり、三国志には劉禅の長子である劉璿や、劉表配下で親曹操派の劉先もいます。

劉璿や劉先も読み方が「りゅうせん」となっており、注意が必要です。

龐羲に救われる

劉闡は張角が引き起こした黄巾の乱の頃には、後漢王朝の都である洛陽にいたと思われます。

西暦188年頃に馬相の乱が起き、劉焉が益州刺史に任命されます。

ただし、劉焉は自分の三男である劉瑁だけを連れて益州に入ったわけです。

劉焉は益州に入るや張魯に漢中を支配させるなど、独立の動きを見せ長安を急襲する計画を馬騰らと立てて行動を起こしました。

しかし、董卓亡き後に朝廷を牛耳る李傕に察知されてしまいます。

この時に、朝廷にいた劉璋の兄である劉範、劉誕らは、李傕により命と落としています。

本来であれば劉焉の一族は皆殺しにされるはずでしたが、龐羲が機転を利かせた事で、劉焉の孫たちを連れて益州に入りました。

名前の記述はありませんが、この時に龐羲によって救われた劉焉の孫の中に、劉循、劉闡の兄弟もいた様に思います。

確実なのは、劉焉の長安襲撃策が失敗に終わった時に、劉闡は処刑されなかったと言う事です。

荊州の公安に移る

赤壁の戦い後に、孫権から借用という形で劉備は荊州を領有しました。

劉備は荊州を関羽に任せて、張魯討伐の名目で益州に入ると劉璋から益州を奪ってしまいます。

この時に、劉闡の兄である劉循は張任らと雒城を固く守り、龐統を討ち取った話もありますが、劉闡が何をしていたのかは記録がなく分かっていません。

多分ですが、父親である劉璋と共に成都にいた様に思います。

しかし、劉循が守る雒城が陥落し、馬超が劉備陣営に加わると劉璋は戦意を失くし、簡雍に降伏の意を伝えました。

これにより益州の主が劉璋から劉備に変わったわけです。

劉備は劉璋を益州に留めておくのは反乱分子の大義名分になると考えたのか、荊州の公安に移しました。

劉闡も後の事を考えると、父親である劉璋に従い公安に移ったと考えるべきでしょう。

ただし、龐羲の娘が劉循の妻だった事から、龐羲が劉備に進言した事もあり、兄の劉循は益州に残りました。

これにより、劉璋、劉闡と劉循は離れて住む事になったわけです。

呉の益州刺史となる

劉備は定軍山の戦いで、法正、黄忠の活躍もあり魏の夏侯淵を撃破し漢中を奪いました。

この時に、荊州を守備する関羽が北上し、曹仁が籠る樊城を包囲します。

しかし、関羽は孫権に裏切られて、呂蒙らの策により命を落としています。

これにより蜀は荊州の領地を全て失い、孫権が荊州の南部を領有する事になったわけです。

孫権が荊州を領有すると、劉璋は孫権の配下となり益州の牧に任命されています。

劉璋が亡くなると、劉闡が呉から益州刺史に任命されました。

しかし、多くの方が分かっている様に、益州は蜀の領土であり、劉闡は名前だけの益州刺史だったわけです。

建前として、呉が中心の世界では、孫権が中華の全てを統治する者である事から、益州刺史を設置しておく必要がありました。

劉闡の父親である劉璋は益州刺史だった事から、呉の孫権としても劉闡は益州刺史に任命しやすかったのでしょう。

劉闡を益州刺史に任命するのは、劉璋から劉備が強引に益州を奪ったとする大義名分にもなります。

劉闡は形式上とはいえ、益州刺史になったわけです。

ただし、政治的にどの程度の影響力があったのかは不明です。

劉闡の性格と最後

劉闡に関しては、分かっている事が非常に少ないです。

しかし、呉書に僅かな記録が残っており、劉闡は慎み深い人物だったと記載があります。

さらに、財を軽んじ義を愛し親分肌の人間だったとの記載もあり、人間的にはかなりまともな人だった様に思います。

劉闡の最後は、「後に病気となり家で亡くなった」と呉書に記載があります。

それを考えれば、劉闡は天寿を全うしたと言えそうです。

劉闡は人間的にまともな人物だと考えられ、最後は惜しまれて亡くなった様にも思いました。

劉闡の評価

劉闡ですが、記録が貧し過ぎてしまい評価が難しい様に感じます。

正史三国志の注釈を合わせても、数行の記述しかない状態です。

それでも、呉書の記述を頼りにすれば、今では無名ですが、優れた人物だと言えるようにも思います。

あと、劉闡の父親である劉璋を見ていると、王累や黄権、張任の様な忠義の人物がおり、さらに子には劉循と劉闡がいた事になります。

劉璋は張松、李厳、法正などには裏切られていますが、王累、黄権、劉循、劉闡などが周りにいた事を考えると、幸せ者だった様にも感じました。

尚、劉闡は病死した記録はありますが、何年の事なのかは不明です。

参考文献:ちくま学芸文庫 正史三国志5巻蜀書

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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