桃園の誓いと言えば、三国志の名場面でもあると思います。
劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを結び、三国志の物語でも最初に盛り上がるシーンです。
国の為に立ち上がる3人の若者の始まりとも言えます。
しかし、桃園の誓いは三国志演義だけの話で、史実にはないという事実をご存知でしょうか?
ガッカリする人も多いと思いますが、桃園の誓いは三国志演義のみのオリジナル設定です。
それでも、桃園の誓いは名シーンだと思いますので、どの様なものだったのか?の紹介や、木登りを始めるちょっと変わった桃園の誓いも合わせて紹介します。
尚、史実では、劉備が関羽と張飛を金で雇ったとする事実も解説します。
上記の画像は、横山光輝さんの漫画三国志の、桃園の誓いの場面です。
桃園の誓いは三国志の始まりの感じがして、好きなシーンでもあります。
桃園の誓いとは
桃園の誓いで劉備・関羽・張飛が義兄弟になるまでに、どの様な経緯があったのか紹介します。
後漢末期に宗教団体であった太平道の張角が信者を率いて反乱を起こしたわけです。
これを黄巾の乱と呼びます。
朝廷は軍隊を派遣するだけではなく、義勇軍を募集していました。
義勇軍募集の高札を見ていたのが、劉備だったわけです。
この時に、劉備は思わずため息をついてしまいます。
それを見ていた張飛が「男一心、お国の為に立ち上がろうともせず、ため息をつくとは何事だ!」と叫んだわけです。
この張飛の言葉は、三国志の始まりの言葉の様にも感じます。
劉備は、国の為に尽くしたいが、何も出来ない自分に思わずため息をついてしまったと言います。
さらに、劉備は自分が「中山靖王劉勝」の末裔だと言う事も明かしています。
この時に、劉備と張飛は感じるものがあり、意気投合したわけです。
さらに、張飛が兄貴分の関羽を連れて来て、3人で義兄弟の契りを結ぶ事にしました。
年齢順で劉備が長兄、関羽が次兄、張飛が末弟となったわけです。
「我らは生まれた日は違えど、死ぬときは一緒」と誓ったわけです。
義兄弟の契りを結んだ場所が、桃園だった為に、桃園の誓いと呼ばれる事になります。
この時に、馬商人であった張世平と蘇双が通りかかり、資金を提供してくれて劉備・関羽・張飛の3人は黄巾賊の討伐に参加するわけです。
劉備は軍資金で雌雄一対の剣を作り、関羽は青龍偃月刀を作り、張飛は蛇矛を鍛冶屋に作らせています。
ちなみに、後の劉備では考えられませんが、黄巾賊相手に大活躍する事になります。
これが三国志演義の桃園の誓いの内容です
木登りをする桃園の誓いもある
三国志には、ちょっと変わった桃園の誓いもあります。
劉備・関羽・張飛は誰を長兄にするのか?で揉めてしまうわけです。
この時に、年齢順ではなく、桃の木に飛びついて一番高い場所に行けた者を、長兄にするという事になります。
関羽と張飛は桃の木に飛びつきますが、張飛の方が高く飛びついたわけです。
劉備は桃の木に飛びつこうともせずに、地面に座り始めました。
張飛は自分が長兄だと言うわけですが、劉備は自分が長兄だと言う事を主張します。
劉備の言い分としては、「枝や葉は根があってこそ育つもの」だといい根を選んだ自分が、長兄に相応しいと言います。
これを聞いた関羽は、自分はどうせ2番目と言う事で納得し、理論が苦手な張飛は反論する事が出来ずに、納得したわけです。
これがちょっと変わった桃園の誓いとなります。
この他にも、中国には様々な桃園の誓いのパターンがあるとされています。
桃園の誓いは史実にはなかった
桃園の誓いですが、正史三国志には、そのような記載がありません。
実際には、後漢の霊帝の時代に張世平と蘇双という馬商人の二人が、劉備に大金を貸し付けた事に始まります。
劉備は正史三国志によれば、競馬を好んだような事が書かれているので、競馬がきっかけで馬商人である張世平と蘇双の二人と知り合った可能性もあります。
劉備は盧植の弟子をしていましたし、さらに劉備が兄貴分と慕う公孫瓚は涿県の令を務めていました。
これを考えて、張世平と蘇双は先行投資と考えて、劉備に大金を貸し付けています。
張世平と蘇双の二人にとってみれば、春秋戦国時代に呂不韋が子楚を奇貨だと判断してバックアップしたのと、似たような感じだったのでしょう。
軍資金を得た劉備は、罪を犯して涿県にいた関羽を部下に加えています。
さらに、張飛も部下にする事に成功しました。
劉備は、後に天下の豪傑と言われる張飛と関羽を、張世平と蘇双の軍資金で部下に加える事が出来たと言うのが、実情なのでしょう。
劉備、関羽、張飛の間には、お金による主従関係があったわけです。
三国志演義の桃園の誓いの様に、出会った瞬間に意気投合して義兄弟の契りを結んだわけではありません。
尚、余談ではありますが、最近の研究では劉備よりも関羽の方が年上だとする説が有力なようです。
多くの専門家が張飛の年齢が一番下と言うのは一致していますが、劉備よりも関羽の方が1歳ほど年上だったとしています。
劉備・関羽・張飛はなぜ仲がよくなったのか?
お金で劉備は関羽と張飛を部下にしたのに、なぜ仲良くなったのか?ですが、一緒に行動しているうちに気が合ったと言うのが実情のようです。
劉備・張飛・関羽は、寝食を共にしているうちに、兄弟の様に仲良くなってしまったと言う事です。
正史の劉備は、漢の高祖劉邦の様に人を惹きつける魅力があったとされています。
そういう劉備の影響を大いに受けたのが、関羽と張飛だったのでしょう。
これにより3人は義兄弟の如く近い関係になりました。
それにしても、後の天下の豪傑二人と無名時代に知り合えた劉備は運がいいなと感じます。
尚、関羽と張飛は、曹操配下の郭嘉や程昱に「兵一万に匹敵する」という絶大な評価もされているほどです。
初対面で義兄弟の契りは結べるものなのか?
大人になると多くの人が経験すると思うのですが、人と仲が良くなるまでに時間が掛かります。
あったその日に、意気投合すると言うのは、まずないのではないでしょうか?
男女間であれば、出会ったその日に恋に落ちる事は、あるのかも知れません。
しかし、男同士であれば警戒心もありますし、直ぐに仲良くなるのは難しいと思いました。
実際に、三国志演義の劉備はむしろ売りにも関わらず、中山靖王劉勝の末裔を名乗る胡散臭い人でもあったはずです。
日本で言えばいきなり自己紹介で「皇族の末裔」を名乗ったのと似たような状態となります。
普通で考えれば、明らかに胡散臭く感じられると思いますし、とても義兄弟の契りを結ぶまでは行かないのではないでしょうか?
それを考えれば、桃園の誓いは物語の中の話だったんだなと言う風に感じました。
しかし、自分は桃園の誓いは嫌いじゃないんです。
三国志で最初に好きになったシーンが、桃園の誓いだったように思います。
尚、桃園の誓いで劉備、関羽、張飛は同じ日に死ぬことを願ったのですが、歴史はそうはいきませんでした。
関羽は孫権に裏切られて、魏と呉の挟み撃ちにされて呂蒙に捕らえられて処刑されています。
張飛は、関羽の仇討ちに行く最中に、部下にパワハラをした為に暗殺されているわけです。
さらに、劉備も夷陵の戦いで、呉の陸遜に敗れ去り、その後は永安に留まりますが、ショックが大きかったのか、亡くなっています。
歴史は3人が同じ日に死ぬことは許してくれなかったようです。
三国志演義の黄忠辺りは、夷陵の戦いで劉備の「年寄り」発言に切れてしまい敵陣に飛び込み深手を負います。
黄忠は張苞と関興に救出されますが、既に重症であり劉備に「陛下天下をお取りください」と述べ息が絶えています。
同じ様なシーンが関羽や張飛にあったとしたら、それもまた名シーンになっていた事でしょう。
架空名シーンですが関羽か張飛が「陛下天下をお取りください」と劉備の腕の中で死んだとしたら、かなり泣けると感じた次第です。