趙弘は黄巾党の一人であり、張曼成の部下だった人物です。
趙弘の出身地は定かではありませんが、南陽黄巾賊の一人として戦う事となります。
趙弘は張曼成の死後には、頭目となり官軍の朱儁や秦頡らと戦いました。
趙弘は数カ月に渡って包囲を耐え抜きますが、最後は朱儁に急襲され命を落す事になります。
今回は南陽黄巾賊で頭目となった趙弘を解説します。
尚、三国志演義では張角、張梁、張宝亡き後に、趙弘は韓忠、孫仲らと朱儁、劉備、関羽、張飛らと戦った話があります。
ここで趙弘は孫堅に討ち取られた話がありますが、これは史実ではありません。
頭目となる
184年に洛陽で黄巾党の馬元義が捕まり処刑される事になります。
太平道の教祖である張角は慌てて、信徒たちに挙兵を促しました。
この時に張曼成の配下として、南陽黄巾賊に参加したのが、趙弘となります。
趙弘がいる南陽黄巾賊は、南陽太守の褚貢を討ち取る事に成功しました。
勢いに乗ったと思ったのか張曼成は、神上使を自称しています。
しかし、褚貢の後に南陽太守となった秦頡は南陽黄巾賊の首領・張曼成を討ち取りました。
総大将の張曼成は討たれましたが、黄巾賊は抵抗をやめず趙弘が頭目となり宛城に籠城する事となります。
趙弘は頭目に選ばれたのであり、人望もあったのでしょう。
ここより先は、南陽黄巾賊の指導者は趙弘となります。
趙弘の最後
宛に籠った趙弘ですが、朱儁は数カ月が経っても攻め落とす事が出来ませんでした。
趙弘に従う黄巾賊は十万を超えており、朱儁は1万8千の兵しかなく攻めあぐねたとする見方も出来ます。
趙弘の兵の質が良かったとは思えませんが、数だけは多かったのでしょう。
人海戦術での戦いだったのかも知れません。
首都の洛陽と南陽は距離が近く、朱儁が敗れた場合は、洛陽の危機であり、朝廷では朱儁更迭論も出たわけです。
しかし、張温が霊帝を説得した事で、朱儁は解任されずに済みます。
朱儁は朝廷が長期戦を許さないと悟ったのか、一気に黄巾賊を急襲し、趙弘を討ち取りました。
趙弘がどの様に討たれたのかは不明ですが、ここで趙弘は最後を迎えています。
趙弘は討たれましたが、南陽黄巾賊は韓忠が引き継ぎ、朱儁の軍と交戦する事となります。
官軍は韓忠も殺害しますが、孫夏が頭目となり反乱を継続しました。
しかし、孫夏は朱儁に討たれ、ここにおいて南陽黄巾賊は平定されたわけです。