姚賈は史記や戦国策に名前が登場する人物で、韓非子の最後とも関りあいが深い人物です。
史記では姚賈は李斯と共に韓非子を讒言した記述がある位の記録しかありません。
姚賈に関しては戦国策の方が詳しく四国の合従の盟約を破壊し、秦に戻って来て上卿に任命された話があります。
しかし、姚賈は韓非子に讒言され、始皇帝(秦王政)に突っ込まれるや巧みに言い逃れし、逆に韓非子を誅させています。
漫画キングダムでは姚賈は李牧や郭開と繋がっているとか、何重にもスパイ活動をしている様な事になっていますが、史実の姚賈を見ると、その様な記録はありません。
今回は戦国策をベースにして、史実の姚賈を解説します。
尚、姚賈の記述は戦国策の秦策の最後を飾る記述となっています。
四国への使者
戦国策によると、四国が一つになって秦を攻撃しようとしたとあります。
戦国策を忠実に読むのであれば、これは紀元前236年の事になります。
史実では春申君と龐煖が主導した紀元前241年を最後に合従軍は編成されていませんが、戦国策の記述に従えば、再び合従軍が結成される動きがあった事になります。
秦王政は合従軍に危機感を抱き群臣や賓客60人を集めて議論をしようとしており、その中に姚賈もいました。
秦王政は郡臣らに次の様に述べます。
※戦国策 秦策より
秦王政「四国が一つになり秦に攻撃を掛けようとしている。
これでは国内では儂が屈服し、国外では軍が全滅するやも知れぬが、どの様に処理すればいいだろうか」
秦王政の問いに対し群臣らは応える事が出来ませんでしたが、姚賈だけは次の様に述べました。
姚賈「私が四国への使者となり、合従の謀を断ち出兵を食い止める様に致します」
秦王政は姚賈に任せる事にし、戦車百乗、金千斤を持たせ、自分の衣服と剣を身に着けさせました。
秦王政は「姚賈の言葉は自分の言葉だと思え」と言わんばかりに、使者として旅立たせた事になります。
姚賈は四国への使者となると、合従の同盟を破壊し、軍を出兵させないようにし交わりを結んだ上で秦に帰りました。
秦王政は姚賈の功績を評価し、千戸の邑に封じて上卿としています。
尚、姚賈は四国への使者となったとありますが、この四国のどの国を指すのかは書かれておらず不明です。
後の韓非子の言葉では姚賈は「荊と呉」「燕と代」の間に使者として行った様な事が書かれています。
しかし、荊は楚だとしても呉は呉王夫差の時代に既に滅んでおり、代は趙の一部となっています。
その為、姚賈が使者となった四国はイマイチ分からない部分が多いです。
韓非子の言葉
当時の秦には韓非子がおり、姚賈が四国の合従を分断させた話を聞くと、次の様に述べています。
韓非子「姚賈は珍宝を携えて3年で荊・呉の使者となり、北では燕・代の間に行きましたが、四国との関係は、まだ成就されていません。
さらに、国内では珍宝が底をついてしまった状態です。
つまり、姚賈は王権と国宝を利用し、国外で諸侯と私的な交わりを結んだ事になります。
この事はご明察なさってください。
姚賈は梁の門番の子であり、過去には梁で盗みを行い趙に仕えては追い払われたものです。
姚賈は門番の子で梁の大泥棒、趙の追放された臣下であり、これを重用しても群臣達を鼓舞させる事にはなりません」
韓非子は姚賈の家柄や過去の行いを見て、姚賈を用いる事が国家として誤っていると述べたわけです。
韓非子は韓の為を想って動いた部分もあり、姚賈を悪く言ったとも考える事が出来ます。
姚賈の弁明
自分は忠臣
秦王政は韓非子の言葉を聞くと姚賈を呼び出し「自分の宝物を使い諸侯と個人的な交わりを結んだのは本当なのか?」と問いました。
すると、姚賈は「本当の事」と答え、秦王政に突っ込まれると、次の様に答えています。
※戦国策 秦策より
姚賈「曽参が孝だと知るや天下の親は自分の子にしたいと考え、伍子胥が主君に忠実だと知るや天下の君主は、皆が自分の臣下にしたいと考えました。
貞女の針仕事が上手であれば、天下の王様は妃に迎えたいと考えるものです。
私は秦王様にとって忠実な者なのに王様はご存知ではありません。
私は四国を頼らずに、何処に頼っていけばいいのでしょうか。
私が主君に忠実でなければ、四国の王様方は、どうして私を登用する事ができましょうか。
夏の桀王や殷の紂王は讒言を聞き忠臣を殺害しましたが、その身は生き途絶え、国は亡びる事になりました。
ここで王様が忠臣を殺害すれば、忠臣はいなくなる事でしょう」
姚賈は世の中の摂理を説いた事になります。
姚賈の口から出た夏の桀王や殷の紂王が殺害した忠臣というのは、関龍逢と比干を指すのでしょう。
過去の事は気にしない
秦王政は姚賈の言い分は納得しましたが「貴方は門番風情の子で、梁の大泥棒、趙を追われた臣なのか」と、生まれた身分や今までの行動を問いました。
姚賈は次の様に答えています。
※戦国策 秦策より
姚賈「太公望は斉で妻に追い出され、朝歌では腐れ肉を売り、子良に追放された臣下でしかありません。
太公望は誰かに仕えようとしても登用されませんでしたが、周の文王は登用し周の武王は天下の主となりました。
管仲は商人でしかなく、魯の放免囚でしかなかったわけですが、斉の桓公は登用した事で覇者にまでなっています。
百里奚は虞の物乞いでしかなく、五匹の羊の毛皮で転売されましたが、秦の穆公は宰相にした事で西戎を入朝させる事になります。
晋の文公は中山の叛賊を用いて、城濮の戦いで楚の成王に勝利しました。
これらの四士は天下で恥辱にまみれて、誹られていましたが明君は登用しています。
明君は功を遂げる事を見抜いていたからでございます。
卞随、務光、申屠狄に倣ったのであれば、人君がその働きを被る事ができましょうか。」
姚賈は周の文王がうだつが上がらない太公望を用いた事で、周の武王が天下人になった事などを例に挙げたわけです。
春秋五覇に数えられる斉の桓公や晋の文公は、過去の行いを気にせず有能な人物を用いた事で大業を成せたと説いた事にもなります。
最後の卞随、務光、申屠狄の三名は殷の湯王の時代の人で優れた人物だと認められてはいましたが、殷の紂王が夏の桀王を誅した事が気に入らず、自分から命を絶った人物です。
名があっても功績なき者
さらに、姚賈は秦王政に説きました。
姚賈「明君は汚辱には見向きもせず、非行には耳を塞ぎ、その者が「自分にとって役立つ者か」のみを考えます。
その者が国家を保ち得る者であれば、讒言を受けても気にする事もなく、名前ばかりで功績がない者を重用しない事が重要なのです。
これを実践すれば、群臣は功なくして褒賞をお上に望もうとはしなくなるものです」
姚賈の言う「名前ばかりで功績がないもの」というのは、韓非子の事を指すのでしょう。
この説話は、この後に秦王が「なるほど」と答え、再び姚賈を重用し、韓非子を誅したで終わります。
韓非子の死は史記などでは李斯と姚賈が「韓非子は韓の公子だから、韓を優先させて秦を後回しにする」と述べ、毒薬を渡して自害させています。
しかし、戦国策では韓非子が姚賈を誹り、姚賈の反撃に遭い命を落とした事になっています。
尚、姚賈は再び任用されますが、これが最後の記述であり、これ以降に姚賈は歴史から姿を消す事になります。