名前 | 楊洪(ようこう) 字:季休 |
生没年 | 生年不明ー228年 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
主君 | 劉璋→劉備→劉禅 |
画像 | 三国志14(コーエーテクモゲームス) |
楊洪は正史三国志に登場する人物であり蜀書・霍王向張楊費伝に楊洪伝があり、陳寿がピックアップした人物の一人として扱われています。
楊洪は劉璋時代から益州の官吏として仕えており、劉備の入蜀後は李厳配下の功曹となった話があります。
劉備が永安で重体となった時に、黄元が反旗を翻しますが、楊洪の策が当たり鎮圧に成功しました。
楊洪は友人だった張裔に恨まれた話もありますが、人間性に関して言えば公正な人物だったと言えるでしょう。
尚、楊洪が収録されている正史三国志の蜀書・霍王向張楊費伝には、下記の人物の事が記載されています。
劉璋時代の楊洪
正史三国志の楊洪伝によれば、楊洪は益州の犍為郡武陽県の人であり、劉璋の時代に諸郡の官吏を歴任したとあります。
正史三国志には楊洪の人柄として、次の様に記載されています。
※正史三国志 楊洪伝の記述
楊洪は若い頃は学問が嫌いだった。
しかし、忠義・清潔・誠実・明晰な人柄であり公事を憂える事は、自分の家を憂える事と同じであった。
継母に仕えては、孝行の限りを尽くした。
上記の記述を見るに、学問は好まなくても真面目な役人と言った所だったのでしょう。
楊洪は劉璋の時代から益州にいた事が分かっており、劉璋の時代は法制が緩かった話もあり、楊洪にとっては憂えが大きかった様にも感じます。
功曹から蜀部従事となる
劉備は張魯討伐を名目とし、益州に入ると劉璋から益州を奪ってしまいました。
劉備の入蜀の時に、楊洪がどの様な行動を取ったのかは不明です。
劉備の入蜀後に、犍為太守となった李厳は、楊洪を功曹に任じた話があります。
犍為太守になった李厳は、郡の役所を移転しようと考えますが、これに猛反対したのが楊洪です。
楊洪が李厳の役所の移転に反対した理由は分かりませんが「諫めても譲らず」と記載があり、李厳に対してかなり反対したのでしょう。
しかし、李厳も自分の考えを曲げようとしなかった事で、楊洪は遂に「功曹を辞める」と言い出したわけです。
これには李厳も困ってしまったのか、楊洪を州に推薦しました。
李厳としては、楊洪に辞められても困るし、自分の意見も通したいと考え、州に推薦する事にしたのでしょう。
これにより、楊洪は蜀部従事に任命された話があります。
尚、上記の記述から楊洪がかなり、尊重されている様にも見え、益州の名士の家柄が強い力を持っていた豪族の可能性もある様に思いました。
後方を守る
劉備は蜀を手に入れた後に、北上し漢中で曹操配下の夏侯淵と決戦を挑みました。
これが定軍山の戦いです。
この時に、楊洪は後方の益州にいた事が記録されています。
劉備は夏侯淵と一大決戦があると考え「急いで徴兵する様に」と文章で伝えて来ました。
同じく後方にいた諸葛亮は、楊洪に意見を求めると、次の様に返答しています。
楊洪「漢中は益州の喉元です。
存亡の分かれ目となる土地でもあります。
仮に漢中を失えば蜀を存続させる事は出来ませんし、それこそ家門の禍となります。
今の状態を考えれば男子は戦い、女子は輸送の任務に就くべきです。
兵の徴兵にためらう事はありませぬ」
諸葛亮は楊洪の言葉を聞き、楊洪が有能な人物だと悟ったはずです。
漢中争奪戦では蜀郡太守の法正は劉備に同行して漢中に行っており、諸葛亮は楊洪を蜀郡太守の任を代行する様に上奏しました。
楊洪は蜀郡太守の代理となるや全ての業務を上手にこなした話があります。
劉備は楊洪の功績を認め、益州の治中従事としました。
漢中争奪戦は法正の智謀や黄忠の武力ばかりに目が行きがちですが、実際には諸葛亮や楊洪などの後方部隊も、見事に役目をこなしたというべきでしょう。
劉備は漢中を手に入れる事になります。
尚、楊洪の門下書佐に何祗がおり、楊洪は何祗を高く評価し推挙した話があります。
楊洪が推挙した何祗は数年で広漢太守にまでなりました。
張裔の恨みを買う
若かりし頃に楊洪と張裔は仲が良かった話があります。
張裔は正昂の後任として益州太守となりますが、雍闓に捕らえられ呉の孫権の元に送られてしまいました。
張裔が蜀にいない時に、張裔の子の張郁がささいな事で罪を犯し処罰されそうになります。
この時に、楊洪は張郁に対し特別な配慮をせず、そのまま罪を受けさせました。
楊洪としてみれば、友人の張裔の子である張郁であっても、法を曲げるのはよくないと考えたのでしょう。
後年に鄧芝が呉の孫権の元に行った時に、張裔を連れて蜀の地に帰ってきました。
張裔は自分の子である張郁に対し、楊洪が配慮してくれなかった事を知り、楊洪を恨んだ話があります。
楊洪としては法を曲げたりしないなど当然の事をしたのにも関わらず、張裔からは恨みを買ってしまったわけです。
張裔からの恨みは中々解けなかった様であり、この語も尾を引く事となります。
黄元の乱を鎮圧
蜀の丞相である諸葛亮と漢嘉太守の黄元の関係は上手くいっていませんでした。
劉備が夷陵の戦いで陸遜に敗れ、体調を崩すと諸葛亮を白帝城に呼び寄せています。
黄元は劉備が蜀の国を諸葛亮に任せると考え、不安に思い反旗を翻しました。
黄元が謀反を起こした情報を楊洪が手に入れると、急いで皇太子の劉禅に面会し、対処に動き出します。
劉備が夷陵の戦いに負けた後だった事もあり、黄元の乱に益州が動揺しました。
しかし、楊洪は「黄元に大した事は出来ない」と述べ、将軍の陳曶と鄭綽に討伐を命じています。
楊洪の予想通り黄元は戦いに敗れ乱は鎮圧されました。
黄元の乱の話は楊洪の洞察力の高さを示す逸話にもなっています。
私心のない人事
諸葛亮に意見を述べる
227年に諸葛亮は北伐を起こし漢中に向かおうとしますが、張裔を留府長史に任命しようと考えました。
張裔を任命するにあたり、諸葛亮は楊洪に意見を求めると、楊洪は次の様に答えています。
楊洪「張裔は優れた判断力を持ち、激務にも耐える事も出来ますし、才能も十分です。
しかしながら、張裔は公平性に欠ける面があり、張裔一人に任せるのはお勧め出来ません。
向朗も留守に残すべきです。
向朗は裏表がない性格であり、張裔をその下に置き目を配らせ、張裔の能力を発揮させれば一挙両得となります」
楊洪は張裔を責任者とせず、向朗の下に置くべきだと述べた事になります。
楊洪は諸葛亮に自分の意見を述べた後に、張裔に会いに行った話があります。
張裔に会いに行く
楊洪は張裔に恨まれていた事は知っていたと思いますが、あえて会いに行ったわけです。
楊洪は張裔に諸葛亮に語った内容を細かく話して説明しました。
話を聞いた張裔は楊洪に対し、次の様に述べています。
張裔「公(諸葛亮)は儂に留守を任せるであろう。
君が止めるわけにはいかないぞ」
張裔は楊洪に諸葛亮は向朗ではなく、自分に留守を任せると宣言した事になります。
諸葛亮は実際に北伐の時に、張裔に留守を任せ留府長史及び、射声校尉に任命しました。
諸葛亮は向朗を第一次北伐に同行させており、楊洪の進言は却下されたというべきでしょう。
尚、楊洪が向朗を推挙した後に、張裔に面会を求める姿は戦国時代に魏の文侯に仕え、魏成子を推挙した後に、翟璜に会いに行った李克の姿を彷彿させるものがあります。
楊洪も李克の故事を知っていたのでしょう。
話を戻しますが、楊洪が諸葛亮に張裔ではなく向朗を推挙した事で、様々な憶測を呼ぶ事になります。
本当は楊洪自身が長史になりたがっているのではないか?とする話や張裔との関係が悪化していた事で、張裔が責任者となるのを願わなかったのではないか?と人々は考えたわけです。
しかし、後にこれが誤解だと判明する事になります。
公正な人
諸葛亮は北伐に向かいますが、張裔と司塩校尉の岑述が不和になりました。
ここで諸葛亮は張裔に手紙を送り諭した話があります。
張裔と岑述の話の内容から、人々は「張裔は公平ではない」と述べました。
人々は楊洪が過去に「張裔は公平性に欠ける」と言った事を思い出し、楊洪が「私心から向朗を推薦したわけではない」と悟りました。
人々の楊洪に関する疑いが晴れた瞬間でもあったのでしょう。
楊洪の最期
楊洪は西暦228年に在任中に亡くなった話があります。
それを考えると、楊洪の最期は突然死だったのかも知れません。
西暦228年は街亭の戦いで馬謖が張郃に敗れ第一次北伐が失敗した年でもあります。
楊洪が北伐の失敗を見てから亡くなったのか、時を同じくして亡くなったのかは不明です。
楊洪は道理に明るい人でもあったので、その死は惜しまれた様にも感じました。
楊洪の能力値
三国志14 | 統率45 | 武力37 | 知力68 | 政治76 | 魅力68 |