三国志

霍峻(かくしゅん)は後方を守り抜いた名将

2021年10月26日

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宮下悠史

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名前霍峻(かくしゅん) 字は仲邈
生没年180年ー219年
時代後漢、三国志
勢力劉表→劉備
年表208年 劉備に仕える
 212年 劉備の入蜀
 217年 梓潼太守兼裨将軍に任命される
 219年 死去
コメント無名ではあるが劉備の入蜀で大活躍している

霍峻(かくしゅん)は正史三国志によれば、字は仲邈であり、荊州南郡枝江県の人だと伝わっています。

霍峻は最初は劉表に仕えますが、劉表死後に曹操が南下し、劉備が江陵を目指すと劉備に付き従う事になります。

霍峻は劉備の入蜀時には、劉備の背後を守り数百の兵で1万を超える敵を破った武功が伝わっています。

劉備が益州を制覇するにあたって、後方を守った霍峻の功績は非常に大きいと言えるでしょう。

霍峻は三国志の中では、知名度は低いですが、寡兵で大軍を撃破しており、名将といっても差し支えないのかも知れません。

今回は霍峻の解説をします。

因みに、霍峻は正史三国志の霍王向張楊費伝に王連向朗、張裔、楊洪、費詩らと共に収録されています。

霍峻伝の中には、霍峻の子である霍弋の記録も掲載されている状態です。

劉備に従う

霍峻には兄の霍篤がおり、霍篤は郷里において、私兵数百を集めた話があります。

しかし、霍篤は若くして亡くなってしまったのか、霍篤が没すると荊州を治めていた劉表は、霍篤の兵士を霍峻に預けました。

霍篤の死により霍峻は軍隊を指揮する立場になったのでしょう。

劉表が西暦208年に没すると、劉琮が後継者となりますが、曹操に降伏してしまいます。

劉表の客将であった劉備は曹操を嫌い、南下を始めました。

この時に霍峻は劉備に従い、劉備は霍峻を中郎将に任命しています。

劉備は人を惹きつける不思議な魅力があり、霍峻も魅了された一人なのでしょう。

霍峻は劉備に従って行動しますが、赤壁の戦いや劉備の南郡攻防戦などでの活躍は不明です。

しかし、霍峻は劉備の入蜀においては、重要な局面を任されており、劉備の配下として南郡攻略でも、何らかの功績はあった様に思います。

さらに言えば、霍峻は荊州の南郡出身でもあり、地形に詳しく記録が残っていないだけで、劉備の南郡制圧に大きく貢献した可能性もあるでしょう。

劉備の後方を死守

劉備の入蜀

呉の周瑜が亡くなると、呉の益州制圧は暗礁に乗り上げてしまいます。

代わりに劉備が益州を取る為に、動き出したわけです。

益州の法正、張松、孟達などは既に劉璋から、心を劉備に移しており、内応者がいる状態で劉備は龐統を連れ、益州を奪取する為に動く事になります。

劉備は名目上は張魯討伐の為に、益州に入ったわけですが、北上している最中に張松の策略が発覚し、劉備と劉璋は敵対しました。

霍峻も劉備の入蜀に同行しており、劉備と劉璋は一瞬即発の状態となったわけです。

張魯の誘い

劉備は葭萌関から軍を南に移しますが、この時に劉備は霍峻に葭萌関(葭萌城)の守備を任されています。

劉備は霍峻に後方を任せた事となり、霍峻が敗れれば劉備は背後を衝かれてしまうわけで、重要な局面を霍峻に任せた事になるでしょう。

霍峻が後方を任せられる辺りに、劉備の霍峻に対する信頼感の大きさが分かります。

しかし、霍峻は数百の兵士しかいなかった事で、劉璋軍に攻撃されれば、かなり厳しい状態だったわけです。

こうした中で、漢中を治める張魯が楊帛を派遣して、城を守るのを協力すると言ってきます。

霍峻は張魯を城内に入れるのは危険だと考え、使者の楊帛に対して、次の様に述べています。

霍峻「自分の首を手に入れる事は出来ても、城を手に入れる事は出来ない。」

霍峻は楊帛に対し、断りを入れて楊帛は退散しました。

これにより霍峻は寡兵で城を守る事になります。

寡兵で大軍を撃破

霍峻は城を守りますが、劉璋配下の扶禁、向存らが閬水を遡り、1万の兵で城を包囲してしまいます。

霍峻の兵は数百しかいなかった事もあり、圧倒的に不利な状況でした。

しかし、霍峻は孤軍であっても奮戦し、1年以上も持ちこたえる事に成功しています。

霍峻は扶禁、向存らの包囲が緩んでいるとみるや、精鋭を率いて敵軍を急襲しました。

霍峻は勢いは凄まじかったのか、敵将である向存を討ち取る大戦果を挙げる事に成功しています。

霍峻は敵を破り、見事に任務を達成したとも言えるでしょう。

劉備の方も龐統は失いましたが、馬超が劉備に帰順した事もあり、劉璋は成都を劉備に明け渡しています。

これにより、劉備の入蜀は完成したわけです。

劉備も背後から襲われていたとしたら、どうなったのかは分からず、霍峻の功績は大きいと言えます。

劉備は霍峻の功績に報い、広漢郡を分割し梓潼郡を設置し、霍峻を梓潼太守・裨将軍に任命しました。

霍峻の最後

霍峻は梓潼太守・裨将軍になりますが、正史三国志によれば3年後に没したとあります。

この時の霍峻の年齢は40歳だと記述されており、働き盛りで亡くなってしまったのでしょう。

尚、この記述から霍峻は西暦180年に生まれ、219年に没した事が分かります。

220年に関羽曹仁、満寵、徐晃らに破れ、呂蒙陸遜により孫権に捕らえられて、関羽は斬首されています。

それを考えると、霍峻は蜀漢の全盛期に亡くなった武将とも言えそうです。

霍峻の遺体は成都に持ち運ばれ、劉備は哀惜の意を示し、諸葛亮は次の様な詔勅を下しています。

「霍峻は立派な人物であり、国家に対しても功績があった。

酹(酒を地に注ぎ霊を祭る儀式)を行いたいと思う。」

劉備は自ら霍峻の葬儀に参列し、劉備は霍峻の墓の近くで宿泊した話があります。

劉備の態度を見て当時の人は「非常に名誉なことだ。」と讃えた話があり、劉備が如何に霍峻を重用していた事が分かります。

霍峻の評価

霍峻の活躍は、劉備の入蜀時に葭萌関で後方を守った位しか記録が残っていません。

しかし、実際には張飛趙雲黄忠ほどの活躍はなくても、様々な功績があった様にも思います。

それにしても、劉備の入蜀においては霍峻の活躍は見事だと言えるでしょう。

蜀の人間は正史三国志でも記録が少ないのが難点ですが、霍峻は知られざる名将と呼べるのではないかと感じています。

霍峻の子孫

霍峻の子には、霍弋がいます。

諸葛亮は兄で呉の諸葛瑾の次男である、諸葛喬を養子として貰った話があります。

諸葛亮は諸葛喬と霍弋に旅をさせた話があり、諸葛亮としても霍峻の子である霍弋だから任せられると考えた様にも思います。

霍弋は蜀が鄧艾に滅ぼされた時に、涙を流した話もあり、劉禅や国家に対しての忠誠心が高かった事も分かります。

それらを考慮すると、霍峻は霍弋に対しても、立派な人物になる様に上手く教育していた様に思いました。

霍弋は蜀が滅亡した後は、晋に仕えて羅憲と共に呉の侵攻を防いでいます。

三國志演義の霍峻

三國志演義の霍峻は孟達と共に、葭萌関の守備を任されています。

魏の張郃が攻めて来ると、葭萌関を守るなど正史三国志には無い様なシーンも追加されています。

葭萌関から出撃した孟達は張郃に破れ、諸葛亮は黄忠と厳顔を葭萌関の援軍に寄越しています。

霍峻と孟達は黄忠と厳顔が老人だと思い侮りますが、黄忠と厳顔は予想に反して大活躍し、魏軍を撃退しました。

個人的には霍峻は三国志演義よりも、正史三国志の方がカッコよく描かれていると言えるでしょう。

参考文献 ちくま学芸文庫 正史三国志蜀書5巻

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三国志14統率76武力65知力72政治63魅力70

全体的にバランスが取れている能力となっている。

劉備の入蜀時に大活躍したが、それ以外に特に名のある戦いがない為、この様な評価になったのでしょう。

それでも、全体的にバランスが良いのは魅力的だと感じる。

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