芮良の字は文鸞であり、孫策の下で江東平定に活躍した人物です。
芮良の父親は芮祉であり、孫堅の配下として各地を転戦し九江太守に任命された事もあります。
こうした流れで芮良も、孫堅の子である孫策に仕えた様に感じました。
芮良の弟の芮玄は「丹陽」の人とする記述があり、それを考えると芮良の出身地も丹陽なのでしょう。
芮良は孫策の江東平定戦にも参加し、功績により会稽郡東部都尉に任じられています。
今回は孫策に仕えた芮良を解説します。
孫策の配下となる
正史三国志の潘濬伝の注釈に、次の記述が存在します。
「芮良の字は文鸞と言い、孫策の江東平定に従った」
この記述から芮良が孫策の江東平定戦に参加した事が分かります。
孫堅が劉表を攻めた襄陽の戦いで黄祖や呂公により、討ち取られてしまうと旧孫堅軍は袁術に吸収されてしまいました。
孫策の配下には呂範と孫河位しかいなくなり不遇の時代を過ごす事になります。
この時に芮祉、芮良や芮玄なども孫策と、離れ旧孫堅軍を率いた孫賁か袁術軍のどこかにいた様に思います。
孫策は袁術の下で功績を立てますが、袁術は約束を反故にするなど、孫策のフラストレーションは溜まっていたわけです。
それでも孫策は祖郎討伐に失敗した後に、袁術より千の兵士を与えられています。
孫策は江東の制圧に乗り出しますが、この時に断金の交わりを行った周瑜だけではなく、旧孫堅軍の人々も次々に集まって来た話があります。
孫策のカリスマ性を信じ旧孫堅軍の中で集まって来た者達の中に、芮良がいたのではないでしょうか。
旧孫堅軍の重臣であった程普、黄蓋、韓当、朱治も孫策の配下となり、芮良も心を躍らせて孫策軍に参加した様に思います。
会稽郡東部都尉
正史三国志には芮良が孫策の配下になった後に、次の記述があります。
「孫策は芮良を会稽郡東部都尉に任じた」
芮良は功績を立てた事で、孫策から認められ会稽郡東部都尉になった事が分かります。
孫策がやってくるまでの会稽太守は王朗でした。
王朗は虞翻から逃亡を勧められますが、丹陽太守の周昕と共に戦い結局は破れています。
これらの前後の戦いで芮良も功績を挙げた事で、会稽郡東部都尉に任命された様に思います。
尚、王朗を討伐した孫策は自ら会稽太守となっており、芮良の直属の上司は孫策となったのでしょう。
ただし、芮良が会稽郡東部都尉になってからの記録はなく、活躍は不明です。
芮良が死去すると、弟の芮玄が兵士を引き継ぎ奮武中郎将に任じられています。
芮良の最後がどの様なものだったのな?などは記録がなく分かっていません。
ただし、芮良が亡くなった時に、芮玄に兵が引き継がれている事を考えると、失敗して処刑などは考えにくい様な気がします。
不慮の事故か病気、戦死などで芮良は亡くなった様に思います。