張曼成は後漢書や資治通鑑に登場する人物です。
張曼成は黄巾党の一人であり、南陽黄巾賊の首領格でもあります。
張曼成は南陽太守の褚貢を殺害すると、神上使を名乗りました。
しかし、後任の南陽太守である秦頡に攻撃されると、呆気なく斬られ最後を迎える事となります。
それでも、張曼成亡き後の南陽黄巾賊は趙弘、韓忠、孫夏らを頭目として、粘り強く官軍と戦いました。
今回は南陽黄巾賊の最初期の首領である張曼成を解説します。
尚、張曼成は神上使を名乗っており、三国志演義にも登場してよさそうな気もしますが、何故か張曼成の名は三国志演義にはありません。
神上使を名乗る
黄巾賊の頭目の一人である馬元義は洛陽で、黄巾党へ内応する者を集めていました。
しかし、馬元義は逮捕され処刑され、事が明るみとなります。
馬元義が活動した洛陽の南には張曼成が挙兵した南陽があり、張曼成は挙兵の為の準備をしていたはずです。
こうした中で、馬元義が斬られたとする情報は、いち早く張曼成の元に入って来たように思います。
張角が時期を早めた挙兵を行い、張曼成も兵を挙げたというのが実情なのでしょう。
後漢書の霊帝紀や資治通鑑によると、張曼成が南陽太守の褚貢を殺害したとあります。
張曼成が褚貢を斬った背景は描かれてはいませんが、黄巾賊が乱を起こす事が判明し、慌てて準備を始めた褚貢に対し、あらかじめ準備を進めていた張曼成が急襲し、勝利したという事なのかも知れません。
張曼成は神上使と号する事になります。
神上使の由来は分かりませんが、神上というのは張曼成が使用した元号ではないか?とする説もあります。
神上使に関しては後漢書にも資治通鑑にも言及がなく、どの様な目的で使ったのかは不明です。
ただし、「神」という言葉が使われており、単純に神の使いという意味なのかも知れません。
張曼成の最後
後漢書の霊帝紀や資治通鑑によると張曼成が宛に100日ほど駐屯した事が書かれています。
この間に霊帝は何進、皇甫嵩、朱儁、盧植などに命じ、黄巾討伐の軍を派遣する事となります。
しかし、張曼成は6月になると、後任の南陽太守となった秦頡に斬られました。
張曼成の最後に関しては、簡略な記述しかありませんが、張曼成は10万の大軍を持っていたはずであり、野戦で秦頡を打ち破ろうとしたら、反撃にあい討ち取られてしまったのかも知れません。
張曼成は亡くりますが、宛城に籠る黄巾賊は趙弘、韓忠、孫夏と頭目は変わりますが、しぶとく抵抗を続けています。
張曼成の部下達が意思を引き継いだとも言えるでしょう。
ただし、官軍の朱儁や皇甫嵩が曹操と共に、波才を長社の戦いで破り、朱儁が宛城を包囲すると、粘りはしましたが結局は敗れました。