楚の幽王は戦国時代の楚の末期の君主です。
戦国時代でいえば、楚が滅亡する14年ほど前に楚の幽王は即位しました。
楚の幽王が楚王になれた理由ですが、母親の李環が楚の考烈王に気に入られた事で楚王になる事が出来たと言えます。
しかし、史記の春申君列伝によれば、楚の幽王の父親は楚の考烈王ではなく、宰相の春申君だと記録しています。
楚の幽王の出自に関しては、不明な部分が多いと言えるでしょう。
本当に楚の幽王の父親が春申君だったのかは不明であり、似たようなケースとして呂不韋、秦の荘襄王、始皇帝のパターンがあり、日本でも仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の関係にもみる事が出来ます。
親子関係に関してはよく言われる所ではありますが、真実は本人しか分からず不明としか言いようがありません。
尚、楚の幽王の時代は叔父の李園が実権を握っていた時代でもあったはずです。
楚の幽王の出自
楚の幽王を考える上で一つの重要なポイントは、楚の幽王の父親が誰なのかという話です。
史記の春申君列伝によると、楚の考烈王は子が出来ず、宰相の春申君が子を産めそうな女性を勧めていたとあります。
しかし、楚の考烈王には子が生ませんでした。
こうした中で趙の出身である李園は楚の考烈王に美人の妹を勧めようとしましたが、子が生まれなければ寵愛は薄れると考えました。
そこで、李園は妹の李環を春申君に勧め、春申君は李環を寵愛し、身籠らせています。
このタイミングで李園と李環は春申君に、李環を楚の考烈王に献上する様に勧めました。
春申君も自分の子が楚王になるのは悪くはないと思ったのか、自分の子を身籠った李環を楚の考烈王に献上したとあります。
楚の考烈王も李環を寵愛し、出産したのが熊悍であり、これが楚の幽王となります。
史記の春申君列伝を見ると、楚の幽王の父親は明確に春申君だという事になっているわけです。
後述しますが、楚の幽王が春申君の子だというのは、本当かどうかは疑問があります。
楚の幽王の即位
春申君は紀元前241年に龐煖と共に楚、趙、韓、魏、燕の合従軍を率いて秦を攻めますが、春申君は函谷関の戦いで敗れて撤退しました。
春申君は楚の考烈王の信任を失い宰相としての位は維持しましたが、封地である呉で宰相としての政務を執る事になります。
楚では寿春に遷都しており、この時に楚の考烈王の近くには春申君はおらず、熊悍(幽王)、李環、李園は寿春にいたのではないかとも考えられます。
李園、李環にとってみれば、熊悍が楚王となれば、外戚として権力を握る事が出来るわけであり、政敵になるであろう春申君が邪魔な存在であり、刺客を養う事になります。
李園や李環がよからぬ事を考えている情報を朱英がキャッチし、春申君に備える様に伝えますが、春申君は朱英の言葉を却下しました。
楚の考烈王が亡くなると、春申君は寿春に弔問のために訪れますが、李園は刺客を使って春申君を暗殺しました。
春申君が亡くなり、楚の幽王が即位しますが、実権は外戚である李園が握る事になります。
楚の幽王の即位に対しては、春申君が死亡するなど混乱が見られました。
楚の幽王の時代
楚の幽王は紀元前238年に即位しますが、この時代は秦が余りにも強大であり、楚としては厳しい状態でした。
楚の幽王の母親の李環は美貌を以って楚の考烈王に寵愛された事で、楚の幽王は楚王になる事が出来た存在であり、大臣達がどれ程の心服を置いていたのかは不明です。
史記の楚世家によると、楚の幽王の3年(紀元前235年)には、秦と魏に攻められたとあります。
楚世家には紀元前235年の戦いで、楚が勝ったとも負けたとも記録されていますが、結果をみれば楚軍が秦軍を退けたという事なのでしょう。
尚、楚世家には楚の幽王の3年に呂不韋が亡くなった事も書かれています。
楚の幽王の9年(紀元前230年)には、秦が韓を滅ぼしたとあり、この頃には秦の統一戦争の最終段階に入っていた事が分かるはずです。
こうした中で楚の幽王は紀元前228年に亡くなった事が記録されています。
楚の幽王の最後に関しては記録がなく分かっている事がありません。
楚の幽王が亡くなると、楚の哀王が即位しており、楚の哀王は幽王の同母弟だとあり、楚の幽王には弟がいた事が分かるはずです。
楚の哀王が即位しますが、僅か数カ月で庶兄の負芻により、命を落としました。
負芻が楚王となりますが、楚の幽王が亡くなった5年後には、秦の王翦と蒙武により楚は滅亡しています。
楚の幽王の父親は誰なのか
史記の春申君列伝では楚の幽王の父親は春申君という事になっていますが、本当に楚の幽王の父親が春申君だったのかと考えれば謎があります。
実際のところ、今となっては、楚の考烈王と幽王の遺伝子検査が出来るわけでもなく、正確な所は不明です。
しかし、信憑性がある部分で考えれば、次の部分が当たると考えられます。
・楚の考烈王が李環を寵愛し、熊悍(幽王)が生まれる。
・楚の考烈王が亡くなると、熊悍が楚王となった。
・楚の考烈王が亡くなった時に、春申君が暗殺された。
この辺りは事実だと考えられます。
楚の考烈王に李環を春申君が勧めたというのも事実に近いと感じています。
問題は楚の幽王が春申君の子なのかですが、この辺りは事実ではなく単なる説話や噂話だったのではないかとも考えられます。
春申君は楚の幽王が自分の子だと述べたとしたら、楚の幽王に楚王家の血筋が流れていない事になり、大問題になるはずです。
この時点で楚の幽王の正統性は消え失せる事になります。
そうなると、春申君が楚の幽王の父親だと国に出す事は基本的に存在せず、李園や李環であっても、楚の幽王が春申君の子だと述べる可能性は極めて少ないと言えます。
それらを考慮すると、楚の幽王が春申君の子だとするのは、説話に過ぎないとも考えられるわけです。
尚、春申君列伝では、楚の考烈王に子が無かったとありますが、負芻や秦に仕え最後の楚王ともなった昌平君がいた事も分かっており、考烈王に子が無かったという事はない様にも見受けられます。
楚の幽王が楚の考烈王の子であるかは不明ですが、弟で後に楚の哀王となる熊猶は、間違いなく楚の考烈王の子だと言えるでしょう。
先代:楚の考烈王 | 次代:楚の哀王 |