キングダムの趙軍に公孫龍という男が登場しています。
公孫龍は万能型の武将として李牧や趙荘からも高く評価れている武将です。
しかし、史実の公孫龍を見ると武人としての活躍は皆無です。
さらに、活躍した時代も趙の孝成王の時代に多く見られます。
もしかしてですが、キングダムの作者の原泰久先生は公孫龍の裏設定として、慈愛と非戦を説く遊説家→屁理屈野郎→武人と変化していった事にしているのかも知れません。
楚の汗明もそうですが、戦場に立ったような記録がない人を戦場に立たせたりもしています。
ただし、公孫龍は燕の昭王の時代や趙の恵文王(悼襄王の祖父)の時代に既に記録があるので、史記に記録された公孫龍とは同名別人の可能性もあります。
尚、年齢を考えると龐煖は史実では武霊王(悼襄王の曽祖父)の頃から記録がありますし、かなり高齢になります。
それを考えれば、キングダムの世界は年齢の概念が余りないのかも知れません。
非戦と慈愛を説く
キングダムの公孫龍は隻眼ですし、数々の修羅場をくぐった猛者に思うかも知れませんが、史実での公孫龍は非戦や慈愛を説いているのです。
燕の昭王が斉への復讐に燃え「隗より始めよ」の言葉に従い人材を集めていた時です。
この時に公孫龍が燕の昭王に非戦を説いています。
戦わない事の大事さを説いているわけです。
さらに、趙の平原君(戦国四君の一人)の食客となると、趙の恵文王に慈愛を説いています。
非戦と慈愛と言うのは、諸子百家で言えば墨子の教えになります。
後に白馬論などの屁理屈っぽい事や詭弁だと言われる人物には思えないかも知れませんが、公孫龍は墨子の教えを諸侯に説いているわけです。
墨子の教えとは
墨子の教えは非戦と慈愛にあるわけですが、考え方がちょっと変わっています。
戦わないために何をするかですが、「絶対に落とす事が出来ないと思えるような城を築城する」事に始まります。
敵が攻略を諦めてしまうぐらいの守りを固める事が非戦に繋がると墨子は主張しているわけです。
この考え方の事を墨守と呼ばれたりします。
墨子の考え方は現代にも通じるところがあります。
北朝鮮などは核武装をしますが、ある意味で墨子の考え方を実践しているのです。
核武装をすればアメリカが攻撃した時に反撃すればアメリカ軍もただでは済みません。
アメリカまで届く核ミサイルが完成すればアメリカに対しても戦争を抑制する効果があるわけです。
日本でも自衛隊がありますが、墨子の考え方で言えば自衛隊は必要です。
他国が日本を攻める事が出来ないと考えるだけの軍備の強さが必要だと言えます。
自衛隊などを簡単に反対する人もいますが、その辺りはもう少し考えた方が良いのでは?と個人的には思っています。
虞卿の申し出を平原君に断らせる
長平の戦いで廉頗が更迭されて趙活が将軍となり趙軍は40万人の兵士を生き埋めにされるという歴史的な大敗をしています。
この時に、魏の信陵君を援軍に来るように依頼したのは、平原君です。
さらに楚に外交交渉に行き毛遂の活躍もあり楚も春申君が援軍に来ることになりました。
平原君は全財産を投げうち李同を決死隊の将に任命した事で、秦軍を後退させて趙を滅亡の淵から救っています。
邯鄲の戦いの功を虞卿は高く評価したのか、趙王や群臣に平原君の所領を増やす様に働きかけています。
これを聞くと公孫龍は平原君の元を訪れて「平原君様が東武の城に封じられているのは功績があったわけではなく趙王の親類だったからです。今回、功がありと加増を受けてしまうのは今後不利になります。さらに、虞卿は平原君様に恩を売っておく魂胆ですので加増の件はご辞退するのが賢明です。」
この言葉を聞いて平原君は領地の加増を辞退したと言います。
平原君も公孫龍の事を重用したと記載があります。
この話は史記の平原君・虞卿列伝にもしっかりと書かれています。
公孫龍が屁理屈野郎になった?
非戦や慈愛を説いていた公孫龍ですが、なぜか屁理屈野郎になっていきます。
遊説家として、非戦や慈愛に限界を感じたのかも知れません。
そこで、公孫龍が採用したのが屁理屈系の論理的な思考です。
有名どころでいえば白馬論でしょう。
「白は色に関する概念である。馬は生き物に関する概念である。つまり、白馬というのは馬と言う概念とは異なる」というわけです。
他にも、白馬と言うのは毛の色を言っている事だ。しかし、馬の瞳は黒いため瞳の色で判断すれば毛が白くても白馬とは言わない。
このようなちょっと、頭が混乱しそうな概念を公孫龍は言うようになっていくわけです。
尚、法家の代表的な人物である韓非子に公孫龍についての記述があります。
公孫龍の弟子の兒説という人物が関所で白馬論を唱えたと言います。
馬だから通行税を払えと役人が言ったのを「白馬は馬ではない」と主張したわけです。
しかし、こんな主張が通るわけもなく結局はお金を払ったと言う話です。
この話から分かるように韓非子からは評価されていません。
趙に鄒衍が来ると公孫龍の考え方は「詭弁」だと主張します。
さらに、鄒衍は至道を平原君の説くと気に入れるようになり、公孫龍は退けられたと史記に記録があります。
これで史実の公孫龍は登場しなくなります。
尚、孔子の弟子にも同名の公孫龍という人物がいますが、キングダムよりも200年以上も前の人物であるため同一人物とは考えられません。
公子の弟子の公孫龍は史記の仲尼弟子列伝に35番目に登場し字は子石で孔子よりも53歳年少と書いてあるだけです。
公孫龍は将軍となった?
今までは史実の公孫龍を見てきましたが、戦場に出た事はないような感じです。
ただし、記録に残っていないだけで邯鄲が秦軍に包囲された時は、軍隊に入り戦ったのかも知れません。
ここから先は、キングダムの将軍設定と辻褄を合わせるための想像になりますがお話ししてみたいと思います。
公孫龍は平原君に退けられた後に、「屁理屈をこねるのはやめだ!俺は将軍になる」と考えて、将軍になったとする説です。
そして、理屈をこねずに戦場で暴れまくったわけです。
この時に片目を失ってしまい、再び気が変わります。
「何も考えずに戦場で暴れまくるだけではダメなんだ!」
そして再び理論を用いるようになり、理論と直感などを兼ね備えた万能型の武将である公孫龍が誕生したのではないでしょうか。
キングダムの公孫龍の武人設定を辻褄を合わせるには、こうする他にないような気がするわけです。
函谷関の戦いやぎょう攻めなどでも趙軍の主力として戦っている公孫龍ですが、墨子のような築城技術や白馬論を唱え始めるなどの活躍も期待したいところです。
李信に斬られそうになったら、屁理屈をこねて危機を脱出するなどの荒業もやって欲しいと思います。
しかし、信の前で変な理屈をこねたらすぐに斬られそうな気もしますけどね・・・。
尚、公孫龍は「公孫竜子」という書物を残していますが、キングダムでも最後の時が来るとしたら、公孫龍子の書物を託すのも面白いかもしれません。
案外、李斯に渡り焚書坑儒により全部焼かれてしまうかも知れませんが・・・。
個人的には公孫龍の白馬論などはギリシアで相対主義の技術を教えていたプロタゴラスの思考に近い様に思いました。
自分的には、プロタゴラスの相対主義よりも真理を追究するソクラテスの方が好感が持てる感じです。