室町時代 鎌倉時代

後醍醐天皇は積極的に改革を行った凄い天皇なのか

2025年8月4日

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宮下悠史

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名前後醍醐天皇
生没年1288年ー1339年
時代鎌倉時代ー建武の新政ー南北朝時代
一族父:後宇多天皇 母:五辻忠子 兄弟:後二条天皇、性円法親王など
子:尊良世良護良宗良恒良成良、義良、懐良など
年表1324年 正中の変
1334年 建武の新政
1336年 吉野で南朝を開く
コメント評価が分かれる天皇

後醍醐天皇は強烈な意思の強さを見せ鎌倉幕府を倒してしまった天皇となります。

その後に建武の新政が始まりますが、僅か三年弱で終了しました。

後醍醐天皇は革新的な君主であり「朕の新義は未来の先例」とも言い放っています。

改革には積極的でしたが、当時の人々には受け入れられずに「物狂の沙汰」とまで評されました。

後醍醐天皇は足利尊氏と和睦した後に幽閉されますが、後に花山院を脱出し吉野で南朝を開いています。

これにより南北朝時代が始まっています。

後醍醐天皇は京都奪還する事なく崩御しました。

後醍醐天皇は改革者でもあり、後醍醐天皇の政治を建武の中興と持てはやす人もいれば、世の中を混乱させた天皇として、評価が分かれる所があります。

一部からは異常な程に人気がありますが、アンチも多い天皇だと言えるでしょう。

後醍醐天皇の出自

尊治(後醍醐天皇)は正応元年(1288年)に後宇多上皇の第二皇子として誕生しました。

母親は五辻忠継の娘の忠子となります。

後醍醐天皇といえば、天皇新政を志すなど名門出身に思うかも知れませんが、五辻家は中流公家でしかありません。

五辻忠子の子としては、姉の奨子と仏門に入った承覚と性円がいます。

この時点で尊治は天皇とは程遠い存在でした。

親王宣下

後醍醐天皇は亀山法王と共に暮らしており、亀山法王は五辻忠子を寵愛しました。

1301年に五辻忠子は准后宣下を受けています。

亀山法王の計らいにより、尊治は親王宣下を受けました。

これにより、天皇への道が僅かながらに開けた事になります。

兄の後二条天皇は僅か二歳で親王宣下を受けましたが、尊治の親王宣下は15歳とかなり遅く、如何に天皇と程遠い存在だったのかも分かるはずです。

尊治親王は祖父の亀山法王と良好な関係を築くだけではなく、父親の後宇多上皇とも良好な関係を築いていました。

尚、亀山法王は1305年に崩御しています。

一代の主

1308年に後二条天皇が24歳の若さで亡くなりました。

これにより後宇多法王の院政も終了し、持明院統の花園天皇が践祚しています。

両統迭立により花園天皇の皇太子は大覚寺統から選ばれる事になりますが、候補に挙がったのが亀山法王の晩年の子である恒明親王と後宇多法王の第二皇子である尊治親王です。

恒明親王は亀山法王の後盾で候補に挙がっていただけであり、後宇多法王は皇位を継がせる気はありませんでした。

こうした理由もあり、尊治親王が花園天皇の皇太子となったわけです。

因みに、尊治親王は花園天皇よりも10歳ほど年上であり、両統迭立の歪なのか年上の後醍醐天皇が皇太子になっています。

後宇多法王は尊治親王を一代主と考えていました。

後醍醐天皇は中継ぎの天皇であり、皇位は後二条天皇の子である邦良親王に継がせようと考えていたわけです。

ただし、別説として尊治親王の子孫が古代の聖帝である虞や舜、夏王朝の禹のような人物だったら、皇位継承を許したともされています。

後宇多法王は条件付きではありますが、尊治親王の子孫が皇位継承する道を残したと見る事が出来ます。

しかし、後醍醐天皇は野心家でもあり、自分の子孫に皇位継承させようと考えるようになります。

後醍醐天皇の践祚

1317年に文保の和談が成立し、文保二年(1318年)に後醍醐天皇の践祚が決まりました。

この時は圧倒的に大覚寺統が優勢であり、治天の君が後宇多法王、天皇が後醍醐天皇、皇太子が邦良親王と全て大覚寺統が独占しました。

ただし、次期親王は持明院統の量仁親王となっています。

践祚した後醍醐天皇は既に31歳になっており、当時としては高齢での践祚だったと言えるでしょう。

後醍醐親政の始まり

1321年に後宇多法王は院政を停止し、これにより後醍醐親政が始まりました。

後醍醐天皇が理想とする天皇新政が始まったわけです。

後醍醐天皇は経済政策を打ち出しました。

当時の京都は政治の中心になっていただけではなく、経済に中心地にもなっていました。

後醍醐天皇は「洛中酒ろ役賦課令」を出し商業活動を行ってきた洛中の酒屋を朝廷の傘下に入れています。

他にも、「神人公事停止令」「洛中地子停止令」「諸国新関停止令」を発行するなど、経済の活性化に力を入れました。

特に関所の停止は「旅人の煩い」として問題になっており、鎌倉幕府と協力して行っています。

後醍醐天皇の経済政策などは、太平記でも善政として評価されています。

後醍醐天皇の人材登用

大覚寺統の嫡流は後二条天皇と邦良親王のラインであり、後醍醐天皇は傍流に過ぎませんでした。

公家の多くも邦良親王を支持しています。

後醍醐天皇は自らの手足となってくれる人材を求め、北畠親房を抜擢し、検非違使別当に任命しました。

さらに、下級公家出身の日野資朝を登用し、同族の日野俊基を腹心としました。

家の事情で出世が遅れた四条隆資なども登用しています。

若い公家も積極的に登用するなど、優秀な人材を集めました。

正中の変

1324年に後宇多法王が崩御し、その三ヶ月後には正中の変が勃発しました。

太平記によると正中の変では後醍醐天皇が討幕を企て、西園寺禧子の懐妊を願い密教のお祈りをしますが、裏では関東調伏を願い鎌倉幕府を呪ったと言います。

無礼講と称し日野資朝と共に討幕の謀議を行なったとも言います。

しかし、近年の研究では正中の変での後醍醐天皇は無関係であり、後醍醐天皇を貶めようとした大覚寺統や持明院統の勢力が行った事だとも考えられる様になりました。

尚、正中の変は本当に後醍醐天皇は無関係であり、鎌倉幕府は後醍醐天皇に借りを作ってしまい譲位を促す事ができなかったともされています。

正中の変は日野資朝が流罪となる事で、幕引きとなり後醍醐天皇は無罪となった事だけは間違いありません。

邦良親王の死去

1326年に皇太子の邦良親王が亡くなりました。

邦良親王と後醍醐天皇の関係は冷え切っており、花園天皇の日記でも不仲だったと語られています。

後醍醐天皇は自らの子に皇位継承させたいと考えており、邦良親王が邪魔に感じたのでしょう。

邦良親王が死去した事で、新たなる皇太子を立てる必要が出てきました。

皇太子候補としては大覚寺統恒良親王や康仁親王、持明院統の量仁親王の名があがりますが、後醍醐天皇は嫡子の尊良親王を推しました。

誰を皇太子にするのか、鎌倉幕府に投げますが、鎌倉幕府は量仁親王を推薦し、既定路線として大覚寺統の康仁親王が時期皇太子にするつもりだったとされています。

鎌倉幕府の意向により量仁親王が皇太子に決定しました。

後醍醐天皇は天皇を降りてしまえば、自分の子孫が皇位継承出来なくなり、不満が残る決定となりました。

それと同時に、鎌倉幕府を倒さなければ、自分の子孫が皇位継承できず、この頃から討幕を考える様になったとも言われています。

後醍醐天皇は持明院統の楽器である琵琶も覚えて初めており、自分こそが両統迭立を廃止唯一の天皇になろうとしたと見ることも出来るはずです。

討幕を志す

1330年に後醍醐天皇の皇子である世良親王が亡くなりました。

世良親王の母親は西園寺実俊の娘であり、後醍醐天皇は世良親王を推す事で、自らの皇位継承が出来ると信じていた節もあります。

しかし、世良親王が死去した事で、皇位継承の望みが絶たれ討幕を本気で志すようになったとも考えられています。

後醍醐天皇は日野俊基、文観、円観らと討幕の謀議を繰り返したとされています。

吉田定房は後醍醐天皇の動きに対し、天皇制存続の危機と判断し、鎌倉幕府に密告しました。

鎌倉幕府では日野俊基、文観、円観らを捕え、正中の変で隠岐に配流した日野資朝を斬首しています。

ただし、鎌倉幕府は後醍醐天皇だけは罪を問わず決着としました。

笠置山城の戦い

吉田定房の密告に端を発した事件の、三ヶ月後に護良親王の進言もあり、後醍醐天皇は吉野を目指しました。

後醍醐天皇と吉野は深く結びついていたのでしょう。

これにより元弘の変が勃発しました。

しかし、吉野入りは断念し、笠置山城に立て籠る事になります。

笠置山城は三方向が断崖絶壁であり、木津川に守られるなど籠城に向いている場所でした。

六波羅探題の軍勢だけでは手に負えず、本拠地の鎌倉に援軍要請しました。

「主上御謀反」が鎌倉に伝わると、鎌倉幕府の動く事になります。

得宗の北条高時は大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏らを援軍として派遣しています。

後醍醐天皇に味方した楠木正成も赤坂城に立て籠もり抵抗する事になります。

隠岐に配流

鎌倉幕府では持明院統の後伏見上皇の院宣により、光厳天皇の践祚が決まりました。

笠置山城の戦いの方は幕府軍の猛攻により、陥落しています。

後醍醐天皇は捕虜となり、承久の乱の後鳥羽上皇の先例に倣い隠岐に配流されました。

阿野廉子や千種忠顕も隠岐に同行しています。

後醍醐天皇が隠岐に流された話を聞いた花園上皇は「一朝の恥辱」と述べ憤慨しています。

後醍醐天皇の子で成人していた尊良親王宗良親王らは流罪となり、護良親王ら行方を眩ませました。

楠木正成も赤坂城から撤退し逃亡に成功しています。

討幕活動の継続

逃亡した護良親王は令旨を乱発し、味方を集める事になります。

さらに、側近の赤松則祐を父親の赤松円心の元に派遣しました。

赤松円心も討幕に舵を切る事になります。

楠木正成も挙兵しました。

鎌倉幕府の首脳部は強い危機感を持ち「護良親王の殺害」及び「楠木正成を誅殺した者には丹後国船井荘を与える」としました。

護良親王も吉野を持ち堪える事が出来ず高野山に逃亡し、赤坂城も陥落しています。

楠木正成は千早城に籠り戦い抜きますが、ここで驚異的な粘りを見せました。

楠木正成の奮戦は凄まじく楠木合戦とまで呼ばれる事になります。

隠岐にいた後醍醐天皇の元にも楠木正成の奮戦が耳に入りました。

船上山の戦い

幕府軍は楠木正成を討伐する事が出来ず、赤松円心が京都に攻め込む一幕もあります。

こうした動きに対し後醍醐天皇が隠岐を脱出しました。

後醍醐天皇は伯耆の名和長年に迎え入れられ、船上山で幕府軍を迎えうつ事になります。

名和氏は海上交易で生計を立てる武士でもあり、隠岐にいる後醍醐天皇ともコンタクトを取っていたと考えられています。

幕府軍も船上山に攻撃を加えますが、名和長年の采配が冴え渡り幕府軍を寡兵で撃退しました。

船上山の戦いでの後醍醐勝利は各地の武士に衝撃を与え、後醍醐天皇に与するものが激増したわけです。

足利尊氏の寝返り

九州では菊池氏が鎮西探題を攻撃するなどしました。

鎌倉幕府の首脳部は強い危機感を持ち、名越高家と足利高氏を討伐軍の大将として近畿に派遣する事になります。

足利高氏は近畿を目指しますが、三河を超える頃には、討幕を視野に入れ後醍醐天皇に使者を派遣していました。

足利高氏自身が後醍醐天皇に対し、親愛の情があったとも考えられています。

足利一門の吉良貞義細川和氏、上杉重能らは討幕を考え、足利高氏に朝廷軍に寝返る様に進言しています。

幕府軍は後醍醐天皇が籠る船上山を目指し、名越高家は山陽道を進撃し、足利尊氏は山陰道から進撃しました。

しかし、名越高家は赤松円心により、射殺され幕府軍に動揺が走る事になります。

足利高氏は自らの所領の一つである丹波篠村で朝廷軍への寝返りを決断し、結城宗広や島津定兼らに密書を派遣し討幕を促しました。

後醍醐軍法

後醍醐天皇は船上山にいましたが、全国の武士たちを指導する立場にもいました。

後醍醐天皇は持明院統の皇族に対し、寛大な心で扱い丁重に接する様に定めています。

他にも、軍の規律に関する事や秩序の形成などを定めました。

合戦で捕虜にした敵は即時殺害する事や狼藉を犯した者の処分、兵糧米に関する決まりもあります。

これが後醍醐軍法を呼ばれるものであり、朝廷軍のルールを定めたものとなります。

さらに、恩賞の事や味方になる者を募り、兵糧米の提供を求めました。

京都は戦乱により放火や略奪が日常茶飯事に行われていましたが、これらを後醍醐天皇は「獣心人面」として批判し厳しく禁止しています。

六波羅探題が守っていた治安は崩壊し、代わりに後醍醐天皇は自らの軍法で治安を守ろうとしたと言えるでしょう。

後醍醐天皇にしてみても、鎌倉幕府を滅ぼした後の持明院統や治安は非常に重要であり、新政権の安定化を図ろうとしたと言えます。

ただし、後醍醐軍法を定めても狼藉は直ぐには収まらなかった話があります。

鎌倉幕府の滅亡

足利高氏は六波羅探題を攻撃すると、長官の北条仲時、北条時益らは光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らを六波羅館に移し交戦しています。

船上山の後醍醐天皇は足利高氏への援軍として、千種忠顕を派遣しました。

足利高氏の六波羅探題攻撃により、北条仲時らは近江に脱出しますが、番場で命を落としています。

足利高氏は関東にいた新田義貞に命じ、鎌倉を攻撃しました。

新田義貞は千寿王(足利義詮)を擁立し、北条泰家を分倍河原で破るなどし、鎌倉を包囲しています。

新田義貞は鎌倉の各地で激戦となりますが、最終的に北条高時、金沢貞顕、長崎円喜らを自害に追い込み鎌倉幕府は滅亡しています。

鎮西探題も少弐氏や大友氏らにより滅ぼされました。

これにより後醍醐天皇の新政権の樹立が確定したわけです。

討幕の原動力

鎌倉幕府は後醍醐天皇により短期間で滅んでしまったと言えるでしょう。

当時の鎌倉幕府は永仁の徳政令以降は寺社なども頼るようになっており、キャパオーバーを起こしていました。

御家人たちの不満が高まり鎌倉幕府の求心力が低下し、人々は後醍醐天皇を期待するようになります。

さらに、近畿では悪党の台頭があり、経済力のある武士が後醍醐天皇を支持し、霜月騒動や得宗専制で排除された武士も後醍醐天皇に大きな期待を寄せました。

幕府は正中の変で後醍醐天皇に借りを作ってしまった事で、危険人物である後醍醐天皇に譲位させる事も出来なかったわけです。

元弘の変での護良親王の令旨や後醍醐天皇の令旨は、社会に不満を持つ武士の心を大きく動かし、当時の武士は忠義よりも恩賞であり「勝ち馬に乗れ」とばかりに、続々と後醍醐に味方しました。

さらに、延暦寺などの大きな寺社勢力の協力を取り付けたのも大きかったはずです。

後醍醐天皇に社会的な追い風があり、鎌倉幕府を一気に滅ぼしてしまったと考える事ができます。

後醍醐天皇の帰京

後醍醐天皇は京都に戻ると、譲位してはいないとし、光厳天皇の即位を認めませんでした。

後醍醐天皇は元弘の変以前の状態に戻したと宣言しています。

後醍醐天皇は持明院統に対しては丁重に扱いますが、大覚寺統の嫡流である康仁親王は冷遇し、廃太子とし親王号も剥奪しています。

鎌倉幕府との戦いは終わりましたが、足利高氏と護良親王が対立しました。

足利高氏は各地に軍勢催促状を発し、六波羅探題支配下の武士の吸収を行うなど、京都の掌握を進めています。

ただし、別の見方をすれば、六波羅探題崩壊後の京都は治安を守る者もおらず、足利高氏は後醍醐軍法により治安を守っていたとも言えます。

足利高氏は上洛してくる武士も吸収するなど、大勢力となったわけです。

これに危機感を抱いたのが、護良親王であり、信貴山に立て篭もりました。

後醍醐天皇の第一の目的は京都の治安を回復させる事であり、護良親王を宥める必要がありました。

後醍醐天皇は護良親王に比叡山に戻る様に進めますが、護良親王は拒否し足利高氏の危険性を訴え、征夷大将軍のポストを要求しました。

この時に、一歩間違えれば新政権はいきなり崩壊しており、後醍醐天皇は護良親王を征夷大将軍に任じています。

綸旨と令旨

後醍醐天皇は「個別所領安堵法(旧領回復令)」を発布しました。

ここで注目したいのが、後醍醐天皇は自らの綸旨を持っていなければ意味はないとも宣言している所です。

護良親王は討幕において絶大な功績がありましたが、綸旨を大量発行し味方を増やした事が分かっています。

護良親王の綸旨には所領安堵や新恩給与などを約束してありましたが、無効にされてしまいました。

後述しますが護良令旨は不渡りを起こし、護良親王は多くの求心力を下げる結果となっています。

武士たちへの恩賞

地方から武士たちが恩賞を求め多くの者が上洛してきました。

中には7代前の先祖の所領を取り戻そうとして、上洛してきた者まで現れたわけです。

後醍醐天皇は所領安堵や新恩給与にも取り組まなければならなくなります。

後醍醐天皇は「諸国平均安堵法」を発布しました。

諸国平均安堵法では朝敵を北条氏一門とその与党と定めています。

そして、知行地の安堵は国衙が行うとしました。

後醍醐天皇は国衙に知行地の安堵を行わせる事で、地方武士の上洛を抑えようとしたのでしょう。

上洛してきた武士に対しては「当知行地安堵」を優先させ、現在所有している地行の安堵を優先させたわけです。

国衙に対しても「臨時の天皇の命令」は優先させるとしており、所領安堵の最終決定権は後醍醐天皇にあるとしました。

後醍醐天皇による建武の新政では武士たちへの恩賞権も後醍醐天皇が握っていた事になるでしょう。

尚、足利尊氏新田義貞楠木正成などの分かりやすい功績を挙げた者には、迅速に恩賞を与えていますが、本当なのか嘘なのか分からないような功績を挙げたものに対しては、恩賞給付が難航しました。

建武政権は中級・下級武士に対しての恩賞が遅れており、これが政権崩壊に繋がったとする見解もあります。

地方分権

後醍醐天皇は足利高氏を尊氏に改名させました。

さらに、尊氏と親しい関係の者たちを各地の守護に任命しています。

公家の北畠顕家を陸奥守とし、上流公卿や有力武士などを次々に国司に任命しました。

後醍醐天皇としては地方を素早く掌握させるためには、地方分権が必要だと考えたのでしょう。

鎌倉時代の守護などは現地に行かず、都に滞在し利益だけを享受する場合が多々ありました。

後醍醐天皇は、これを悪習だと考えていたのか、北畠顕家を奥州に下向させています。

北畠顕家は義良親王を奉じて、多賀国府に向かう事になります。

さらに、足利尊氏も関東に下向させる予定でしたが、相模守になった足利直義成良親王を奉じて鎌倉に入りました。

後醍醐天皇といえば、中央集権化を目指したと思われがちですが、実際には地方分権もしっかりと行っていたわけです。

中央の整備

鎌倉幕府が滅びた事により、建武政権に膨大な訴訟が持ち込まれました。

地方から多くの武士が京都を訪れ、裁決を求めたわけです。

後醍醐天皇は従来の記録所のみでは対処できないと判断し、雑訴決断所を開設しました。

ただし、頭人は上流公家であり、寄人は中流以下の公家、奉行人は武士が中心に構成されています。

主要な役職は公家が占めましたが、武士も奉行人として参加させた事は評価されるポイントではあるのでしょう。

窪所や武者所も設置されており、武者所の頭人には新田一族が務めました。

後醍醐天皇は摂政や関白は置かない方向で考えており、既に伯耆にいた頃から関白の鷹司冬数を解任する意向を伝えています。

護良親王の征夷大将軍を剥奪

後醍醐天皇は護良親王の征夷大将軍の位を三ヶ月ほどで剥奪しています。

征夷大将軍と密接に関わっているのが、御家人制度であり、御家人制度を嫌った後醍醐天皇が護良親王から征夷大将軍の位を剥奪したとも考えられています。

護良親王の征夷大将軍の位を剥奪するには、それなりの理由が必要であり、当時の護良親王は令旨の約束を守れず、部下は狼藉を働き評判は地に落ちていました。

後醍醐天皇は護良親王の征夷大将軍の位を剥奪しただけではなく、名和長年らに命令し捕え鎌倉に送りました。

足利尊氏や阿野廉子による讒言もあったのかも知れませんが、評判が悪い護良親王を後醍醐天皇は切り捨てた事にもなるでしょう。

護良親王がいては、世の中は定まらないと考えた可能性もあります。

恒良親王の立太子

後醍醐天皇には男女合わせて36人もの子がいたとされています。

後醍醐天皇が討幕を目指した理由は、自分の子孫に皇位を継がせる事であり、立太子は重要事項だったはずです。

後醍醐天皇は恒良親王を皇太子に選びました。

恒良親王の母親は阿野廉子であり、隠岐に流された時も生活を共にし、後醍醐天皇が最も寵愛する女性でした。

阿野廉子は元は西園寺禧子に仕える女官でしたが、天皇の母になるチャンスを掴んだ事になります。

成良親王や義良親王も阿野廉子の子です。

阿野廉子は後醍醐天皇に最も影響力を持つ女性とも言われています。

建武に改元

後醍醐天皇は新たなる時代の始まりとして、年号を建武としました。

建武の年号は中国でも使われており、王莽やその他の群雄を倒した光武帝が使った年号でもあります。

中国で使用した元号というだけではなく「武」という縁起が悪い文字が入っており、反対者も多く出た元号でもあります。

しかし、後醍醐天皇は建武の年号を強行しました。

後醍醐天皇は討幕が余りにも上手く入ってしまった事で、自分に酔いしれていたとも考えられてます。

尚、建武の年号を使った光武帝は「中国史上随一の名君」とも呼ばれており、あやかったのかも知れません。

後醍醐天皇は大内裏を再建しようとしますが、建設費を賄うために増税を行おうとしており、多くの人々の不信感を買い実行できなかった話があります。

貨幣鋳造

日本には過去には富本銭や和同開珎などのオリジナルの通貨がありました。

しかし、当時は東アジアの交易圏に日本も組み込まれており、海外の銅銭を使い取引を行っていたわけです。

古代の天皇は貨幣鋳造は天皇の大権だったとされており、権威向上の為に行ったともされています。

さらに、貨幣鋳造を行う事で、経済の統制を行い政権運営を安定させようとしたともされています。

後醍醐天皇は銅銭及び紙幣を発行しようとしたのかも知れませんが、実行に移したかは不明です。

後醍醐天皇は鎌倉幕府の失敗は経済政策の失敗だと考えていました。

徳政令により大量の悪党が誕生したとも考えられており、後醍醐天皇も悪党対策をする必要が出てきました。

後醍醐天皇も建武の徳政令を出した様ではありますが、永仁の徳政令とは違ったものだったとされています。

しかし、建武の徳政令が出されても、永仁の徳政令と同様の解釈をする者がおり、社会は混乱したとも考えられています。

朕の新儀は未来の先例

後醍醐天皇は延喜・天暦の時代を理想とした事はよく知られています。

しかし、後醍醐天皇は延喜や天暦の時代と現在は違うという事もよく理解していました。

後醍醐天皇自身は「朕の新義は未来の先例」とも述べており、天皇新政をベースにした新たなる政治形態を作り出そうとしていたとも考えられています。

後醍醐天皇は決して綸旨万能主義でもなかった事が近年の研究でも明らかになっています。

濫妨の停止命令

鎌倉幕府が崩壊した事で、治安が悪化しており、後醍醐天皇は各地で発生している濫妨を取り締まる必要がありました。

実際に後醍醐天皇は京都に帰還して間もなく「濫妨の停止命令」を出しています。

後醍醐天皇は「諸国・諸荘園の狼藉、国司・守護注進の事」とする法令を出し国司や守護の注進に基づき雑訴決断所を通じ、後醍醐天皇の命令により厳密に対処するとしました。

しかし、近年の研究では狼藉が収まる事はなかったとされています。

鎌倉幕府も治安を守る為に、同じことをしており、失敗した過去があります。

後醍醐天皇による建武の新政が始まっても、実際には鎌倉時代末期と状況は変わらなかった様です。

綸旨の撤回

建武の新政に入ってから後醍醐天皇は「建武以後の綸旨は、たやすく改めてはならない」とするものがあります。

先の文言の裏を見れば「建武以前の綸旨は改めても良い」と言った意味にもとれるはずです。

実際に大徳寺に安堵された所領が玉井・庄田という武士に恩賞として与えられた綸旨が存在し、後で玉井・庄田の綸旨は撤回されました。

後醍醐天皇の法令の中には何度も「朝要の仁(建武政権の重要人物)」に関しては例外とする文言があり、後醍醐天皇の意向で法令や政策が曲げられる事がしばしば起こっています。

こうした後醍醐天皇の曖昧な姿勢が、世の中の混乱に拍車をかけたとされています。

ただし、当時の文書による所領を管理するやり方では間違いがあって当然とする見方も存在します。

足利尊氏は気前の良い性格として有名でしたが、一つの所領を複数人に与える約束をしてしまい、足利義詮高師直が苦労した話が残っています。

雑訴決断所の強化

建武政権の要となっているのが、様々な訴訟を対処したり、所領安堵を行う雑訴決断所です。

雑訴決断所では刈田狼藉や罪科人の捕縛などの警察権も含まれています。

雑訴決断所では公家と武士の混成機関であり、発足当初は四番制でしたが、八番制に機構を拡充しました。

雑訴決断所の裁判長クラスは上級公家となっていますが、役人は旧鎌倉幕府の吏僚たちが就任しています。

後醍醐天皇の建武政権では、人材不足であり旧鎌倉幕府の官吏を採用しなければ、運営もままならなかったと考えられています。

1335年の定められた建武政権のルールとして「後醍醐天皇の綸旨を賜っても、雑訴決断所の牒がなければ、訴訟の沙汰をしてはならない」というものがあります。

雑訴決断所の牒が必要なルールは、後醍醐天皇が自らの綸旨に誤りがあった事を認めた結果として出来たと考えられています。

物狂の沙汰

従来の朝廷政治は太政官機構の下で行われており、天皇だけが国家の意思決定に参与していたわけではありません。

国家を運営する上で議政官会議が大きな役割を果たしていたわけです。

ただし、特定の家が世襲的に機関を占有する官司請負制になっていました。

機関を世襲する家はノウハウを継承され、他家では行えない様な仕組みにもなっていたわけです。

建武政権では関白が設置されなかった事は有名ですが、議政官会議が殆ど開催されませんでした。

後醍醐天皇は一つの官職を一つの家で独占する事を問題視しており、武士の政権内への登用も積極的に行われたと考えられています。

1334年の暮れ頃までには、後醍醐天皇は八省の卿(長官)を全員交代させ二条道平や鷹司冬教を卿に登用するなど異常事態となりました。

国家意思の決定に関わる議政官を行政官の長としています。

後醍醐天皇は自らの専制政治を強化しようとした結果として、議政官会議を解体し自らの下部組織にしようとしたわけです。

後醍醐天皇の専制政治は強まり、雑訴決断所の牒が必要とするルールも無くなりました。

後醍醐天皇の政策は革新的なものではありましたが、慣れてないせいか多くの人々から「物狂の沙汰」と呼ばれ批判されています。

守護と国司の在り方

後醍醐天皇は征夷大将軍や御家人制度を廃止しても、守護制度を廃止しようとはしませんでした。

濫妨狼藉に対処する為には、守護が必要だと考えていたわけです。

守護を設置すると同時に後醍醐天皇は国司も設置しました。

主に守護は犯罪・凶悪人の捜査や検挙、財産の没収などの警察権を持っており、国司は没収した所領や財産の処分を行うなど行政権に関与していました。

後醍醐天皇は守護や国司を信任厚い公家や武士を採用し、中央に直結させようとしました。

当時は国司の力が衰えており、後醍醐天皇は従来の国司権力の復興も画策しています。

守護や国司は現地に行かず、京都におり利益だけは頂く様な仕組みがありましたが、後醍醐天皇はこれを悪習と考えていたのでしょう。

後醍醐天皇は護良親王を紀伊国司とし、若狭国司には洞院公賢、長門国司に万里小路宣房、越前国司を中御門宗重にするなどしています。

北畠顕家は陸奥守としますが、北畠氏の家で考えれば陸奥守はかなり下の格であり、父親の北畠親房も難色を示しますが、後醍醐天皇は説得し納得させています。

北畠顕家は義良親王を奉じて奥州に下校し多賀城に入りました。

北畠顕家は陸奥将軍府を開設しますが、別名として「奥州小幕府」とも呼ばれています。

結城宗広南部師行南部政長らと協力し、奥州小幕府は軌道に乗りました。

後醍醐天皇は地方でも公家と武士を参画させる機構を構築し、公武統一を目指しています。

北畠顕家は後に近畿で足利尊氏の軍を破ったりもしていますが、陸奥将軍府の体制が上手く機能した結果だとも考えられています。

鎌倉将軍府

鎌倉幕府が滅びた後の鎌倉は混乱しており、穏やかではありませんでした。

新田義貞も上洛しており、幼少の足利義詮とその一派で関東八州を抑えるのは困難な状況だったわけです。

後醍醐天皇は足利尊氏を武蔵守に任命しており、当初の予定では足利尊氏を鎌倉に配置する様に考えていたとされています。

尊氏の弟の足利直義も相模守に任命しました。

後醍醐天皇は足利尊氏を高く評価し厚い恩賞も与えており、かなり信用していたと考えられています。

足利氏は東国にも強い影響力を持っており、東国の秩序を守る存在にしたかったのでしょう。

それと同時に六波羅探題が滅んでから、足利尊氏は京都の治安を守っており、西国の権力を削ぎ東国に配置したかった可能性もあります。

足利尊氏の鎌倉行きは何らかの理由で取りやめとなりますが、代わりに弟の足利直義が成良親王を奉じて鎌倉に下向しました。

幻の鎮西小幕府構想

建武政権の鎌倉将軍府や陸奥将軍府は有名ですが、西国にも何かしらの組織を後醍醐天皇は考えていたのではないかとされています。

建武元年(1334年)の九月に後醍醐天皇は島津貞久に対し、検断、海賊、追討、異国警護などを綸旨を通じて足利尊氏にやらせています。

この事から、足利尊氏は九州を警護する権限を持っていたと考えられています。

こうした事情から後醍醐天皇は自らの皇子をつけて、足利尊氏に九州に下向させ統治機構を構築しようと考えていたとみる事ができるはずです。

真相は不明ですが、後醍醐天皇は足利尊氏による鎮西小幕府構想があったのかもしれません。

後醍醐天皇の挑戦

日本の中世においては先例や慣習に従うのが「善」とされており、新たな取り組みに挑戦する事は悪でもありました。

有職故実が大いに持て囃されたのが、日本の中世だったわけです。

しかし、後醍醐天皇は梅松論で「朕の新儀は未来の先例たるべし」とも述べており、従来の慣習に囚われない新しい政治を目指しました。

従来の朝廷のスタイルとは違ったものを目指しており、公家たちからは「物狂の沙汰」とも呼ばれたわけです。

後醍醐天皇は一般的には延喜・天暦時代の時代を理想としていたとされていますが、実際には律令国家とは反対の政治を志したとも言えそうです。

官職の世襲制を改革した後醍醐天皇に公家が戸惑い「物狂の沙汰」と呼ばれたのは当然の事でもあったのでしょう。

三木一草

建武の新政が始まった事で、中院や西園寺氏らは窓際に追いやられますが、代わりに大出世を果たした者もいました。

これが三木一草と呼ばれる面々であり楠木正成名和長年結城親光千種忠顕らとなります。

三木一草の面々は鎌倉時代には無名であった者たちでしたが、後醍醐天皇に忠義を認められ大きく出世しました。

三木一草の面々は、その羽振りの良さから注目を集め、羨望の眼差しと顰蹙を浴びたとされています。

護良親王の失脚

後醍醐天皇が討幕を行うにあたり、最大の功労者は護良親王となります。

護良親王は征夷大将軍となり、意気揚々と入京したわけですが、待っていたのは後醍醐天皇との対立でした。

護良親王は鎌倉幕府との戦いにおいて、味方を多く増やすために、令旨をばら撒いています。

先に述べた様に、護良親王は約束を履行する事が出来ず、不渡りを起こしたわけです。

護良令旨に不満を抱く者が多く、彼がら狼藉を行い護良親王の評判は凋落していきました。

護良親王は足利尊氏を危険視しており後醍醐天皇に訴えていますが、足利尊氏は阿野廉子と共に逆に訴え出ています。

後醍醐天皇は権威が地に落ちた護良親王の征夷大将軍を短期間で解任し、参内した所を名和長年結城親光により捕らえさせています。

護良親王が自分の子を帝位に就けようとした事で、後醍醐天皇が激怒したなどの話もありますが、真相はよく分かっていません。

ただし、護良親王が捕縛され足利直義がいる鎌倉に送られた事は事実です。

赤松円心が冷遇

赤松円心赤松則祐の説得により、早い時期から後醍醐天皇を支持しました。

戦いには敗れますが、六波羅探題がいる京都に攻め込んだり、京都を兵糧攻めにするなど高い功績を持ち、建武政権では播磨守護となっています。

しかし、赤松円心の播磨守護は早い段階で解任されたと考えられています。

赤松円心は討幕において獅子奮迅の活躍を見せたのにも関わらず、播磨国佐用荘の地頭職を与えられたのみとなってしまいました。

赤松円心が冷遇された理由は、護良親王に近しい立場だったともされていますが、これも真相はよく分かっていません。

足利尊氏新田義貞、三木一草の様な破格の恩賞を得た者もいますが、護良令旨を履行しようとしない建武政権に対し、強い不満を持つ者も多くいたわけです。

特に悪党や非御家人勢力から大きな不満を醸成させる事になります。

公武一統

鎌倉時代では公家と武家は明確に区分されていました。

鎌倉時代は公家と武士で支配地、法律、裁判と全て区分されていたわけです。

後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒してしまった事により、公家と武士の両方を纏める立場にありました。

こういう事情もあり、後醍醐天皇は積極的に武士を政権内に取り込んでいます。

後醍醐天皇が帰京すると、京都市内は武士で溢れますが、従来の体制では武士たちを取り込むだけの余裕はありませんでした。

後醍醐天皇は新しい組織の構築する必要があり、武社所を設置し新田義貞を長官に任命しています。

窪所も武士たちのポストであり、警察機関だったと考えられています。

雑訴決断所も多くの武士を採用しています。

ただし、雑訴決断所は公家と武士の混成であり、言ってみれば水と油でした。

公家たちは家格の割に低い地位の執政官や吏僚にされてしまい不満を募らせ、武士たちは公家たちの下に置かれ、偉ぶっている公家たちに不満を募らせました。

無能で才能のない者もいたとされており、後醍醐天皇の公武一統の政策は成功したとは言えないでしょう。

朝令暮改

後醍醐天皇は記録所と決断所を設置しても、近臣の者が訴え出れば判決が覆される事も多くありました。

朝令暮改が多くなった理由に関しては、後醍醐天皇が専制政治を目指すと同様に、懇意的な政治を行なったからだとされています。

二条河原落書には「此の頃、都にはやる物、夜討ち強盗、偽の綸旨」とも書かれました。

これらは後醍醐天皇の朝令暮改を批判すると共に、当時の治安の悪さや政権運営が上手く機能していない事への不満でもあるのでしょう。

太平記にみる後醍醐天皇の評価

太平記を見ると鎌倉幕府滅亡までの後醍醐天皇は問題はあるとしながらも明君として描かれています。

反対に北条高時は暗愚な人物として描きました。

しかし、建武政権が成立すると、諸国の地頭、御家人は奴婢や雑人の様になってしまうとしたり、恩賞も平等ではなかった事や、政治に混乱があり勝手気ままな事をしたなど批判的になっていきます。

大内裏の造営や貨幣の鋳造なども避難しており「政道正しからず」と評価しました。

太平記の読者の中で後醍醐天皇の変貌に違和感を覚えた人もいるかと思いますが、当時を生きた人の評判をそのまま書き表したともされています。

大内裏の造営などは、実際に増税が行われており、人々からの反発がありました。

後醍醐政権への批判

北畠顕家が後醍醐天皇の奢侈などを批判した事は有名ですが、父親の北畠親房も神皇正統記の中で後醍醐天皇を厳しく批判しています。

北畠親房は後醍醐天皇が足利尊氏を重用した事も問題視しています。

武士の官位を上げた事も問題視しており、武家の世になってしまったなどとこぼしています。

北畠親房は後醍醐天皇の政治が適材適所や信賞必罰が出来ていない事を批判しました。

神皇正統記に書かれた批難的な部分は、北畠親房が指摘した点を後醍醐天皇が出来て出来ていなかったからでしょう。

尚、神皇正統記の中で武士の源頼朝や北条泰時などは称賛されていたりもします。

後年に北畠親房は常陸合戦に臨み結城親朝に多くの手紙を送った事で知られています。

結城親朝は白川付近から動こうとはしませんでしたが、北畠親房に官位を求めています。

北畠親房は後醍醐天皇の例を上げて、武士に官位を与える事の問題点を指摘しています。

北畠親房からしてみれば、後醍醐天皇が武士の官位を上げてしまった事が悪習になったと考えてもいたのでしょう。

因みに、常陸合戦で北畠親房は苦戦しており、結城親朝を動かすために、吉野朝廷に官位の推挙を行なっています。

建武政権では上から下まで問題が噴出しており、建武政権が3年弱で崩壊したのは当然だとする見解も存在しています。

後醍醐天皇暗殺計画

西園寺公宗が北条泰家と結託し後醍醐天皇の暗殺を狙ったとする事件です。

北条泰家は北条高時の弟であり、彼を京都の大将として、東国では信濃の諏訪氏に匿われている北条時行が蜂起するというものです。

しかし、西園寺公宗の後醍醐天皇暗殺計画は弟の西園寺公重の通報により未然に防がれています。

西園寺公宗は楠木正成高師直により捕えられ、名和長年の勘違いで処刑されたとする記録があります。

西園寺家は関東申次の家系であり、鎌倉幕府が崩壊した事で勢力を後退させており、西園寺家復興の為に北条泰家と結託し、行なったとも考えられています。

ただし、黒幕説も有力視されており「上皇の命令を奉じて、謀った」とする記録もある事から、持明院統の後伏見上皇が背後にいたともされています。

近年では、量仁親王(光厳天皇)が黒幕とする説も有力視されてきました。

光厳天皇は後醍醐天皇を嫌悪しており、花園天皇や足利直義の様な真面目な人間と気が合った様であり、個人的にもありえない事ではないと考えています。

中先代の乱

建武政権が始まってから各地で北条氏による反乱が起きていましたが、1335年になると信濃で諏訪頼重に擁立された北条時行が乱を起こしました。

これが中先代の乱の始まりでもあります。

北条時行の軍は利根川を渡り、進撃してくると、鎌倉将軍府の足利直義は武蔵国井出沢に出陣しますが、戦いに敗れました。

足利直義は怒涛の進撃の前に鎌倉を保つ事が出来ないと判断し、護良親王を殺害した上で三河に向かいました。

三河は足利氏の領国でもあり、反撃を企てたのでしょう。

建武政権では中先代の乱に対処するために話し合いが行われ、足利尊氏が討伐に向かうとする案が出されました。

足利尊氏は征夷大将軍の位と関東八カ国の支配権、武士に恩賞を与える権利を要求したとされています。

後醍醐天皇は足利尊氏に関東八カ国の支配権(管領)は認めましたが、征夷大将軍はやんわりと断っています。

梅松論では後醍醐天皇は足利尊氏の出陣を許可しませんでしたが、足利尊氏は天下の為と称して勝手に出陣した事になっています。

神皇正統記では足利尊氏が征夷大将軍と惣追捕使を要求しましたが、後醍醐天皇に却下され征東将軍に任じられ東国に向かったと書かれました。

記録によって違いはありますが、足利尊氏の征夷大将軍を要求し断られ、関東八カ国の支配権などの権利を与えられ出陣した事は間違いなさそうです。

足利尊氏は足利直義と合流し中先代の乱を鎮圧しました。

北条時行は逃亡し、諏訪頼重は自害しています。

足利尊氏は鎌倉に入りました。

後醍醐天皇と足利尊氏の対立

後醍醐天皇は足利尊氏に恩賞として従二位に昇進させようとしました。

足利尊氏が後醍醐天皇の要請に応じて京都に帰ろうとしますが、足利直義が京都に戻る危険さを述べ思い止まらせています。

足利尊氏や直義は鎌倉において論功行賞を行なったとされています。

しかし、後醍醐天皇の考えでは論功行賞は朝廷が行うものであり、逆鱗に触れる事になります。

さらに、足利尊氏が鎌倉の旧将軍邸跡に邸宅を造り始めました。

後醍醐天皇からみれば、足利尊氏が鎌倉に幕府を開こうとしている様に見えたのでしょう。

足利尊氏は新田義貞を討伐したいとの要求も出しています。

足利尊氏が新田義貞討伐を申し出たのは、太平記では新田義貞が自分を後醍醐天皇に讒言したからだとしました。

ここまで来ると、後醍醐天皇と足利尊氏の対立は決定的となり、後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵認定しています。

新田義貞が尊良親王を奉じて討伐軍の大将となり、鎌倉を目指しました。

後醍醐天皇と足利尊氏の戦い

足利尊氏は後醍醐天皇により朝敵認定された事でショックを受け、浄光明寺に引き篭もっています。

浄光明寺にいる足利尊氏は、後醍醐天皇に反旗を翻すか迷い悩んでいたとされています。

足利直義新田義貞と戦いますが、大敗しました。

足利尊氏はここにおいて出陣を決断し、箱根竹ノ下の戦いで新田義貞や脇屋義助を破っています。

新田義貞軍は東海道を敗走し、足利尊氏は京都に入りました。

後醍醐天皇は東坂本に逃れています。

後醍醐天皇は奥州の北畠顕家を呼び寄せており、奥州軍は各地で足利軍を破りました。

足利尊氏は京都を追われ再び反撃に移ろうとしますが、赤松円心は足利尊氏に与し九州に落ち延びる様に進言しています。

さらに、持明院統への接近を進言しました。

後醍醐天皇が冷遇した赤松円心は足利尊氏に味方し、室町幕府を誕生させる為の策を進言したとも言えるでしょう。

朝廷軍の敗北

足利尊氏は九州では少弐頼尚に迎え入れられ、多々良浜の戦い菊池武敏を破り勢力を復活させました。

足利尊氏は大軍で上洛し、後醍醐天皇は新田義貞を出陣させますが、朝廷軍の劣勢は明らかだったわけです。

楠木正成は京都を明け渡し、足利軍を包囲殲滅しようと進言しますが、坊門清忠に反対され、後醍醐天皇の面子に拘った事で却下されました。

後醍醐天皇は楠木正成に新田義貞の援軍に向かうように命令しますが、楠木正成は死を悟っており、嫡子の楠木正行との桜井の別れもありました。

新田義貞・楠木正成と足利尊氏の間で湊川の戦いが勃発しますが、朝廷軍は大敗しています。

足利軍は京都を占拠し、後醍醐天皇は比叡山に避難しました。

後醍醐天皇は比叡山の僧兵を頼りとしますが、一連の戦いの中で千種忠顕名和長年が戦死しました。

既に楠木正成や結城親光は世を去っており、後醍醐天皇が頼りとする三木一草は全滅した事になるでしょう。

足利尊氏は持明院統の光明天皇に即位させ、治天の君を光厳上皇としました。

これにより、足利尊氏は朝敵認定を免れる事にも成功しています。

足利尊氏は建武式目を制定し室町幕府を開きました。

室町幕府は持明院統の軍隊とする位置付けとなっています。

後醍醐天皇と足利尊氏の和睦

比叡山に籠城する後醍醐天皇ですが、形勢は足利軍が有利となっていきました。

足利尊氏両統迭立を条件に和睦を望む事になります。

後醍醐天皇は新田義貞に内緒で、足利尊氏との間で和議を締結させています。

この後に、後醍醐天皇は新田義貞に尊良親王恒良親王を預け北陸に下向させました。

後醍醐天皇は室町幕府に裏切られた事を考え、恒良親王に譲位した上で新田義貞を越前に向かわせたともされています。

ただし、別節では和議の内容が新田義貞に知らされておらず、後醍醐天皇は新田義貞の怒りを解くために、恒良親王に譲位し北陸に向かわせたともされている状態です。

南北朝時代の始まり

後醍醐天皇は足利尊氏との和議により、京都に入りました。

しかし、花山院に幽閉されてしまいます。

ただし、室町幕府では光明天皇の皇太子に後醍醐天皇の皇子である成良親王としており、後醍醐天皇にかなり配慮した様子も窺われます。

成良親王が践祚すれば、治天の君は後醍醐天皇になったわけです。

しかし、後醍醐天皇は不満であり、京都を向け出し吉野に向かいました。

これにより日本に朝廷が二つ出来た事になり、南北朝時代が始まる事になります。

南北朝時代と言えば持明院統が北朝、大覚寺党が南朝と思われがちですが、実際には大覚寺党の嫡流を支持する者の多くは京都に残りました。

南朝は大覚寺党の一部が立ち上げた王朝だと言えるでしょう。

吉野朝廷

後醍醐天皇は吉野で南朝を開きましたが、勢力挽回の見込みがあったのでしょう。

当時は奥州には北畠顕家がいましたし、北陸には新田義貞、伊勢の北畠氏、河内の楠木氏と挽回の余地があったわけです。

さらに、後醍醐天皇は五条頼元に懷良親王を預け九州に下向させています。

北畠顕家の戦死

北畠顕家は一度は足利尊氏を破り奥州に凱旋しますが、奥州は荒れ果てており本拠地も多賀城から伊達霊山城に移しました。

北畠顕家は奥州を鎮めるのに苦労しますが、後醍醐天皇は上洛要請しました。

一度は足利尊氏を破った奥州軍に後醍醐天皇も期待したのでしょう。

北畠顕家は奥州戦線で苦戦するも、何とか上洛軍を率いて吉野に向かいました。

この時の奥州軍に新田義興北条時行が合流する事になります。

北条時行は後醍醐天皇に赦免を願い後醍醐天皇は赦しました。

北条時行は育ての親である諏訪頼重を討った足利尊氏を敵と定めており、後醍醐天皇も共通ての敵の前に手を組んだ事になるのでしょう。

北畠顕家は青野原の戦いで幕府軍を破ると、吉野に到着しました。

北畠顕家は般若坂の戦いで幕府軍と戦いますが、桃井直常らに敗れています。

後醍醐天皇には北畠顕家上奏文を提出しており、後醍醐天皇の政治姿勢を批判しました。

北畠顕家は北上し、石津の戦いに挑みますが、幕府軍の高師直に石津の戦いで敗れ南部師行と共に自害しています。

新田義貞の戦死

北陸に移った新田義貞ですが、圧倒的に不利な状況の中で金ヶ崎城の戦いに臨みました。

この戦いで尊良親王新田義顕が最後を迎えています。

恒良親王は捕虜となりました。

しかし、新田義貞は後に逆襲に転じ、幕府方の斯波高経を越前で追い詰めています。

この時に石清水八幡宮では北畠顕信が籠城しており、高師直に攻められ苦戦していました。

後醍醐天皇は新田義貞に石清水八幡宮への救援を命じたわけです。

新田義貞は後醍醐天皇の要請に対し、脇屋義助を将とし援軍に向かわせました。

新田義貞が自ら救援に行かなかった事で、後醍醐天皇と新田義貞の関係にヒビが入っていたのではないかともされています。

しかし、後醍醐天皇の願いも虚しく脇屋義助が到着する前に、石清水八幡宮は陥落しました。

この後に、新田義貞は藤島の戦いで寡兵でいる所で、遭遇戦となり丸腰状態であった事から命を落としています。

新田義貞の死により、三木一草に続き後醍醐帝三傑も全滅しました。

後醍醐天皇の崩御

結城宗広の策で地方からの挽回を目指し、南朝の重臣や後醍醐天皇の皇子らが各地に船で向かいました。

伊勢の大湊から船が出ますが、嵐により義良親王らは吉野に戻る事になります。

何とか宗良親王が遠江で活動を始め、北畠親房伊達行朝が常陸に辿り着きました。

北畠親房は春日顕国らと常陸合戦に臨みますが、後醍醐天皇のショックは大きかったはずです。

延元四年(1339年)の八月になると、後醍醐天皇は病を発し死を悟りました。

後醍醐天皇は崩御する前日に義良親王を呼び、譲位しました。

義良親王が後村上天皇となります。

太平記では死が迫った後醍醐天皇の思いは次のようなものだとされています。

※後醍醐天皇と建武政権(吉川弘文館)より

朝敵をことごとく亡して、四海を太平ならしめんと思ふばかりなり、・・・玉骨(後醍醐天皇の遺骨)はたとい南山(吉野)の苔にうずもるとも魂魄は常に北闕(京都)の天を望まんと思ふ。

もし命を背き義を軽んぜば、君も継体の君にあらず、臣も忠烈の臣にあらじ、と委細に綸言を残されて、左の御手に法華経の五巻を持たせ給、右の御手には御剣を(てへんに安)手、八月十六日のこく(調べて)に吸いに崩御なりけり。

こうして後醍醐天皇は崩御しました。

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宮下悠史

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