
| 名前 | 韓の文侯 |
| 姓・諱 | 韓猷 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前377年 |
| 在位 | 紀元前388年ー紀元前377年 |
| 時代 | 戦国時代 |
| 一族 | 父:烈侯 子:哀侯 |
| コメント | 鄭や宋を破り勢力を拡大させた。 |
韓の烈侯が没すると、韓の君主として即位しました。
韓と言えば、戦国七雄の最弱国としてのイメージが強く、戦いでは連戦連敗のイメージがないでしょうか。
しかし、韓の文侯の時代は鄭の陽城を落し鄭の滅亡の一歩手前まで行っただけではなく、宋との戦いでは彭城まで進軍し宋の悼公を捕虜としました。
趙や魏と共に斉を討つなどもあり、韓の文侯の時代の韓は弱小国とは見えないはずです。
当然ながら韓は勢力拡大に成功しました。
韓の文侯の勢力拡大
紀元前387年に韓の烈侯が亡くなり、韓の文侯が即位しますが、同年に趙では趙の武侯が亡くなり、趙の敬侯が即位しました。
この時に、魏の武侯が公子朝を趙の後継者にしようとして失敗しています。
こうした事情から魏と趙は険悪な仲となり、紀元前386年には魏の武侯と趙の敬侯の間で戦闘まで起きました。
この隙を逃さなかったのが、韓の文侯であり、紀元前385年の鄭を攻撃し、陽城を取る事になります。
陽城が陥落した鄭は滅亡が見えてきたと言えるでしょう。
さらに、韓の文侯は鄭から宋に兵を進め、彭城まで行き韓世家では「宋の君を捕らえた」とあります。
韓の文侯は宋の悼公を捕虜にする大戦果を挙げたと言ってよいでしょう。
韓の文侯の戦略
韓の文侯の時代に陽城を陥落させ、鄭は風前の灯となり、韓としては鄭を滅ぼした後は、狙いを宋に絞ったという事なのでしょう。
韓が鄭や宋を制圧する事で、魏の南下を抑えつけようとしたとも考えられています。
韓の文侯の動きに魏の武侯も対処する必要に迫られ、竹書紀年によれば魏は洛陽、安邑、王垣に築城を行った記録があります。
王垣の南方には、黄河北岸の武遂があり、韓の重要拠点である宜陽から北上する場合の、要地でもあります。
趙と魏は戦いとなっていましたが、魏の武侯としては、韓が趙に味方する事をかなり警戒していた事でしょう。
韓の文侯としては、魏と趙が争ってくれたお陰で、漁夫の利を得る事が出来たとも言えそうです。
斉を討つ
魏と趙は戦いになりましたが、これを見た斉も同盟から離脱しました。
魏と趙は斉の離反により、講和する事になります。
しかし、後に衛を巡って魏と趙は対立しますが、斉を巡っての争いになると、再び魏と趙は接近する事になります。
史記の韓世家によれば、韓の文侯の7年に韓が斉を討ち桑丘にまで至ったとありますが、史記の他の部分の記述を見る限りだと魏の武侯も趙の敬侯も出兵しており、三晋で斉を攻撃し桑丘まで行った事になるのでしょう。
同年に鄭が晋から離反したとあります。
当時の晋の孝公は名前だけの君主であり、ここでいう晋は魏を指すのでしょう。
先に韓の文侯に陽城を取られ窮地に陥った鄭の康公が魏に接近し、この頃に楚が北上しており、魏から離脱し楚に味方した事を現わしていると考えられます。
紀元前380年の謎
韓の文侯の7年(紀元前380年)は田敬仲完世家では斉の桓公5年に当たると考えられ、秦と魏が韓を攻撃し、韓が斉に援軍を求めて来た記録があります。
ここで、斉では段干朋の意見を却下し、田臣思の謀を用いて、楚と趙が韓を助け、燕を攻めた話があります。
韓世家では韓は趙や魏と共に斉を攻めていますが、田敬仲完世家では韓が秦と魏に攻められた事になっているわけです。
史記では秦や中原から離れた東方の記録は、誤りが多い事もあり、田敬仲完世家の記述が間違っていると考えられています。
史記では韓の文侯の9年(紀元前378年)に斉を討ち霊丘に至った話がありますが、魏が斉を攻撃し韓と趙が助けた事にもなるのでしょう。
しかし、当時の趙と魏は争っており、斉の霊丘攻めに韓の文侯や趙の敬侯が、本当に援軍を出したのかは疑問視されている状態です。
韓の文侯の最後
史記の韓世家によると、韓の文侯はその10年で世を去ったとあります。
韓の文侯の最後は、紀元前377年になるのでしょう。
韓の文侯が没すると、韓の哀侯が立ちました。
韓の哀侯の時代に鄭を滅ぼし、韓は新鄭に遷都しますが、韓の文侯の働きが大きかったと言えるでしょう。
| 先代:烈侯 | 文侯 | 次代:哀侯 |