
| 名前 | 高赫(こうかく) |
| 別名 | 高共 |
| 生没年 | 不明 |
| コメント | 危機的な状況にあっても礼を失わなかった。 |
高赫は史記の趙世家に登場する人物で、趙襄子に仕えました。
晋陽の戦いでは城内は困窮し、地獄絵図となりますが、高赫だけは礼を失わなかったとあります。
晋陽の戦いでは趙の宰相の張孟談が韓・魏を寝返らせて智伯に勝利しましたが、趙襄子は恩賞の首座を高赫としました。
高赫は晋陽の戦いでは「礼の精神を失わなかった」だけであり、功績はありませんでしたが、趙襄子は恩賞第一としたわけです。
高赫を恩賞の首座にするのは、当時の思想を現わしており、司馬遷も趙世家の晋陽の戦いでは、張孟談の活躍は省き、高赫を中心に描きました。
高赫と晋陽の戦い
礼を失わず
高赫は晋陽の戦いで、籠城軍の中にいました。
智伯は趙を滅ぼす為に、魏や韓と共に晋陽を攻撃し、趙襄子は水攻めにされ苦しい立場となります。
城内の民は我が子を交換して食料とする程の惨劇となり、群臣の心は趙襄子からも離れたと言います。
晋陽の城内では酷い有様だったわけですが、史記には次の様に記録されています。
※史記 趙世家より
群臣は離反の心を抱き趙襄子に対する礼も疎かになったが、高赫だけは礼の心を失わなかった。
晋陽の城内では、高赫だけが礼を失わなかったと記録されているわけです。
趙襄子は趙鞅に後継者に指名された時に、兄の趙伯魯は太子の座を剥奪されたわけですが、弟の趙襄子を可愛がりよく仕えた話があります。
高赫の如何なる時も礼を失わない姿を見て、趙襄子は伯魯の姿と重ね合わせたのかも知れません。
晋陽の戦いでの趙襄子は宰相の張孟談を派遣し、魏桓子と韓康子に寝返りを約束させ、智伯を総攻撃し戦いに勝利しました。
恩賞第一
晋陽の戦いでの論功行賞となりますが、史記によると趙襄子は恩賞の首座を高赫にしたとあります。
これに噛みついたのが張孟談であり「高赫には何の功績もない」と述べ、不満を告げています。
趙襄子は、次の様に述べました。
※史記 趙世家より
趙襄子「晋陽が危機的な状況になった時に、皆が礼を疎かにしたのに、高赫だけは人臣の礼を失わなかった。
それ故に、恩賞の首座にしたのである」
趙襄子は高赫が礼を失わなかった事を高く評価し、恩賞の第一としたわけです。
しかし、高赫は「礼」という思想は体現したのかも知れませんが、張孟段の言う様に「功績がない」というのも、また事実なのでしょう。
功績があった者よりも、礼を体現した者が評価される例は他にもあります。
晋と楚の城濮の戦いにおいては、晋の文公は先軫の策を採用し楚に勝利しましたが、論功行賞では恩賞の首座を狐偃としました。
晋の文公が狐偃を首座にしたのは「信義を失ってはならないと説いた」からだとしています。
礼や信義などを重視する論功行賞と言うのは、中華の徳の思想を体現していると言えるでしょう。
晋陽の戦いにおいても、趙襄子は礼の精神を重視し、高赫を恩賞の首座に置いたと言えます。
戦国策を見ると張孟談の活躍がかなり描かれていますが、史記では張孟談は魏や韓を寝返らせたという簡略な記述しか書かれておらず、高赫の礼を失わない精神の方が色濃く描かれている状態です。
張孟談よりも高赫の方を司馬遷は、明らかに強調しており、司馬遷は、高赫に対し強く思った部分も多かったのでしょう。
思想と実務
高赫と張孟談について、書いてみたいと思います。
晋陽の戦いを見ると、当時の思想を体現したのが高赫であり、実務を体現したのが張孟談だったとみる事も出来るはずです。
思想というのは人として大事な事ではあるかも知れませんが、現実とは即しておらず、礼の精神だけでは智伯に勝つ事は出来なかった事でしょう。
それを考えると、実務を行った張孟談が必ず必要になってきます。
「こうあるべき」という思想と、実務という現実は、常にせめぎ合う部分があり、趙襄子は思想の権化である高赫の功績を最上位にしたとみる事が出来ます。
魏の文侯の配下の魏成子と翟璜の話で、子夏などを魏の文侯に推薦した魏成子は思想の部分の代表的な人物であり、翟璜は李克や呉起など実務に最適な人物を推挙しました。
ここでも、魏の文侯は魏成子を宰相としており、思想を教える人々を優先させた事が分かるはずです。
魏成子と翟璜の関係も、高赫と張孟談の関係に似ていると見る事も出来ます。
現代社会においても思想と実務に関しては、常にせめぎ合っていると感じました。
理想と現実は人間が生きている限り、常に付きまとうのではないでしょうか。