古代オリエント

ラルサ王朝はメソポタミア南部に覇を唱えた

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宮下悠史

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名前ラルサ王朝
時代イシン・ラルサ時代
建国から滅亡不明ー紀元前1763年
コメントイシン第一王朝のライバル国

ラルサ王朝はグングヌムイシン第一王朝の傘下から独立した事で誕生しました。

メソポタミア文明ではイシン・ラルサ時代がありますが、イシン第一王朝と並ぶ主要国の一つだと言えます。

ラルサの位置は分かっており、シュメールの代表的な都市であるウルクから東に20キロほど移動した地点です。

ラルサ王朝はイシン第一王朝を滅ぼし、メソポタミア南部の覇者となりますが、最終的にはハンムラビのバビロン第一王朝に滅ぼされています。

ラルサの初代と二代目

ラルサの初代はナプラヌムであり、ウル第三王朝に仕えた役人ともされています。

二代目のヤムスムは一つの説として、イシン第一王朝イシュビエッラに協力するアムル人だったとも考えられています。

ラルサ王名表では初代がナプラヌムで、二代目がヤムスムとなっていますが、ラルサ王を名乗っていなかったのは確実視されており、不明な点も多いです。

一つの説として、確実視される最初の五代目ラルサ王がグングヌムであり、ライバルのイシン第一王朝よりも歴史ある国という権威を主張する為に、初代と二代目が追加された説もあります。

ただし、イシン第一王朝はイシュビエッラの時代に既に王となっており、これを考えると三代目のサミウムと四代目のザバヤもかさ増しした事になるのでしょう。

実質的にはグングヌムが最初のラルサ王であり、グングヌムが初代と言ってもよいのではないでしょうか。

ラルサの勢力拡大

イシン第一王朝の覇権が広がる中、南部のライバル都市ラルサでは3代目サミウム、そしてその実子である4代目ザバヤの時代にかけて、驚異的な地方勢力の興隆(拡大)が進んでいました。

当時の行政記録によれば、父のサミウムは、シュメールの伝統的な大都市である「ギルス」において、実質的な支配権を行使していたことが確認されています。

これは、ラルサの指導者がイシン第一王朝の国家システム内部において、中央政権を揺るがしかねないほどの巨大な有力者(大諸侯)へと成長していたことを意味します。

しかし興味深いことに、実子であるザバヤの代に至っても、彼らは自身の碑文の中で「ラルサ王」という高位の君主号をあえて名乗っていません。

残された碑文には、「強き者、マルトゥアム人の頭領、サミウムの子」と刻まれているのみです。

現代人の感覚で見れば、これは単に「イシンの支配下にあったから、王を名乗れず我慢するしかなかった」というネガティブな従属関係として解釈されがちです。

しかし当時の国際秩序において、「王」の称号は、聖地ニップルを領有する中央のイシン王朝にのみ許された絶対的な宗教的・政治的権威でした。

ラルサのザバヤらは、都市神ウトゥのためにエバッバル神殿を建立して国内の支配基盤を確立しつつ、後代の写し(碑文)にある通り、ギルスだけでなく「ラガシュ」をも事実上の支配下に組み込むほどの実力を蓄えていました。

つまり彼らは、中央のイシンを刺激して衝突を招くリスクを避け、形式上は「部族の頭領」という肩書きを維持しながら、水面下でメソポタミア南部の経済・軍事権益を確実に掌握するという生存戦略を展開していたのです。

グングヌムの時代にラルサはイシン第一王朝を凌ぐ程の実力を身に着け独立しました。

ラルサのシュメール化

ライバル・イシン第一王朝からウルの交易権を奪い取り、劇的な領土拡大を成し遂げたラルサのグングヌム王の崩御後、跡を継いだのがアビサレです。

アビサレ王は即位直後、自身の権威を誇示するために「自らはアムル人の支配者(マルトゥの覇者)である」という独自の称号を掲げました。

現代人の感覚では、「このアピールが国内の民衆に不評だったため、のちにワラドシンが父親を『アムル人の国の父』と呼んだ例外を除き、ラルサ王朝はアムル人アピールをやめてしまったのだろう」という、単なる好き嫌いの世論問題として片付けられてしまいがちです。

しかし、実態はより冷徹な「メソポタミアによる統治の問題」でした。

どれほど軍事的に優位に立ち、周辺のアムル人部族を統率できたとしても、都市の経済や高度な行政システムを動かしているのは、何百年もの伝統を持つシュメール人アッカド人の定住民(官僚・神官)です。

彼らを納得させて巨大な国家を安泰に統治するためには、異民族としての部族色(アムル人)を前面に出すよりも、「我々こそがシュメールの偉大な文明と伝統の正当な後継者である」という立場を取る方がメリットが大きかったのです。

そのためラルサ王朝は、一時的にイシンを一気に滅ぼす軍事的タイミングを逃し、戦乱が一進一退の長期的な攻防へともつれ込む中で、自らの支配を盤石にするための現実的な選択として、アムル人色を排した「シュメール化(伝統の継承)」へと舵を切らざるを得なかったと言えます。

クドゥルマブクとラルサ政変

ラルサ王朝の第九代のシンイディナムはチグリス川西方のマシュカン・シャビルを支配下に置き「ヤムトバルの父」と称した話もあります。

イシン第一王朝が財政難にあえぐ一方で、シンイディナムの時代になっても、ラルサは勢力を拡大していたとする見解もある状態です。

イシン・ラルサ時代とは言いますが、ラルサが独立した時には、ラルサが圧倒的に優勢だったと言えるでしょう。

ただし、圧倒的に有利な立場にあったライバルのラルサ王朝もまた、決して一筋縄ではいかない国際的な内部変革(危機)を迎えていました。

その象徴が、ラルサの第13代ワラドシン王の父親であり、実質的な最高権力者として君臨した「クドゥルマブク」という人物の台頭です。

彼の正体をめぐっては、「エラム人説」と「アムル人説」が対立しています。

彼の「クドゥルマブク」という名前自体は、純粋なエラム語で「神の保護」を意味するため、彼が東方の強国エラムの王族、あるいは有力な軍事貴族の系譜(エラム人)であったとする指摘は極めて強力です。

しかし同時に、彼は粘土板の記録の中で、マルトゥ(アムル人)の有力な部族国家である「ヤムトバル」の首領としても記録されています。

クドゥルマブクという強力な軍事首領の台頭により、南部のラルサ王朝の内部では、決定的な政変(クーデター)が発生しました。

クドゥルマブクは、先代のラルサ王であったツィリアダドを事実上追放し、自らの実子である「ワラドシン」を新たなラルサ王の座へと就けたのです。

これはラルサの支配権が、伝統的なメソポタミアの都市貴族から、エラムの後ろ盾を持つ「ヤムトバル(アムル・エラム系部族集団)」という、新しい強力な軍事利権勢力へと完全にシフトしたことを意味しています。

新王ワラドシンは、ニップルの北方に位置する戦略的要衝「マシュカン・シャビル」を制圧するなど、卓越した軍事力によってその勢力を劇的に拡大させていきました。

ハンムラビによるラルサ滅亡

紀元前1794年にイシン第一王朝を滅ぼして南部の絶対王政を確立したリムシンの時代に、バビロン第一王朝ではハンムラビが即位しました。

当時、オリエント世界では、バビロン、マリ王国、ヤムハド王国などが巨大な国際連合を組み、東方から侵攻する共通の外敵エラムと激しい戦争を繰り広げていました。

しかし、この大戦にラルサのリムシン王が参戦することは一切ありませんでした。

この時のラルサ王朝がエラム系であれば、エラムに味方してもよさそうなものですが、ラルサ王朝は動かなかったわけです。

この時代、ラルサは長すぎるイシンとの戦争によって、表面上の統一を達成したものの、国内のインフラと軍事リソースはすでに限界まで疲弊しきっていました。

紀元前1763年、北方の覇者であるバビロン第一王朝のハンムラビ王は、巧みな外交工作によって西方の強国・マリ王国との強力な軍事連合を結成し、満を持してラルサへの大侵攻を開始します。

当時、リムシン王の在位は60年を超えており、かつての老獪な軍事指揮能力は衰え、国内も長年の過密な戦争によって疲弊しきっていました。

バビロンの圧倒的な包囲網の前に、ラルサの首都はついに陥落(滅亡)し、メソポタミア南部を200年近く牽引したイシン・ラルサ時代は事実上の終わりを迎えることになります。

後にラルサ関係者であったとも思われるリムシン2世が挙兵しますが、結局はバビロン第一王朝のサムスイルナにより平定されました。

ラルサの歴代王

ナプラヌム

ヤムスム

・サミウム

・ザバヤ

グングヌム

・アビサレ

・スムエル

・ヌル・アダド

・シン・イディナム

・シン・エリバム

・シン・イキシャム

・シリ・アダド

・ワラド・シン

リム・シン1世

・リムシン2世(ラルサ滅亡後)

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