
| 名前 | センナケリブ |
| 生没年 | 紀元前745年?ー紀元前681年 |
| 在位 | 紀元前705年ー紀元前681年 |
| 国 | アッシリア |
| 一族 | 父親:サルゴン2世 配偶者:タシュメトゥ・シャラト、ナキア |
| 子:アッシュル・ナディン・シュミ、アルダ・ムリッシ | |
| エサルハドンなど | |
| コメント | 精神不安定で悪名高いが実績がある。 |
センナケリブは新アッシリアの時代の人物です。
父親のサルゴン2世が戦死すると、後継者になりました。
センナケリブは父親の死により精神が不安定になったとされていますが、アッシリアの勢力拡大には成功しました。
ユダ王国やエラム王国、メロダク・バルアダン2世らとの戦いに勝利しています。
センナケリブは首都のニネヴェも大発展させるなど内政においても、成果を挙げていますが、後継者をアルダ・ムリッシからエサルハドンに代えた事で、王位継承問題が発生し最後を迎えました。
尚、センナケリブはバビロンを破壊するなどしており、悪名高き王ではありますが、軍事内政と実績がある人物です。
センナケリブの即位:サルゴン朝二代目としての実力と期待
アッシリアの全盛期(サルゴン朝)のタイムラインは、紀元前705年、前王サルゴン2世の戦死という衝撃的な政変から、次代の王「センナケリブ(Sennacherib)」の即位へと引き継がれます。
センナケリブが王位に就いたのは紀元前704年、彼が40歳前後の円熟期を迎えていた頃でした。
彼は長年にわたり父であるサルゴン2世を補佐し、行政や軍事のロジスティクスを前線で支え続けてきた豊富な実務経験を有しており、まさに帝国全土からその能力を大いに期待された、働き盛りの新君主としてのスタートでした。
なお、「センナケリブ」という名は旧約聖書(ヘブライ語)の記述に由来するものであり、彼のアッカド語本来の名は「シン・アッヘ・エリバ(Sîn-ahhē-erība)」、すなわち「月神シンは失われた兄弟たちの代わりを与えてくれた」という意味を持っています。
この名前の記述から、彼は上にいた兄たちの早すぎる死の後に、待望の男児(王位継承者)として生を受け、大切に育てられた人物であったと考えられています。
ドゥル・シャルキン放棄と「ニネヴェ遷都」の意図
即位直後、センナケリブは周囲を驚愕させる最初の大規模な政策を行います。
父サルゴン2世が心血を注いで建設し、完成したばかりであった新首都ドゥル・シャルキンを即座に放棄し、古くからの名都である「ニネヴェ(Nineveh)」へと首都を遷したのです。
この突然の遷都は、単なる王の精神的不安定さや感情的なショックによるものではなく、当時のメソポタミアにおける極めて厳格な宗教観に基づいた決定でした。
先王サルゴン2世は異国の地で戦死し、その遺体すら回収することができませんでした。
当時の世界観において、適切な埋葬が行われずに荒野に打ち捨てられた死者の霊は、恐ろしい呪いをもたらす「悪霊(ウトゥック)」と化して
王家や国家を破滅させると信じられていました。
そのため、センナケリブは「父が作った新首都はすでに悪霊によって呪われた、極めて危険な土地である」と判断し、国家と王室を破滅から防衛するため、都市そのものを永久に放棄するという決断を強行したのです。
この時遷都先として選ばれた「ニネヴェ」こそが、アッシリア帝国が最期を迎えるまでの、不滅にして最後の最高行政首都として機能していくことになります。
センナケリブの西征とラキシュ攻城戦
新アッシリア帝国の西方統治における最大の焦点となったのが、紀元前701年に勃発したユダ王国を中心とする反乱です。
この遠征は、アッシリアとエジプト、そしてパレスチナ諸国家が絡み合う、当時における巨大な覇権争いでした。
クシュ人の「エジプト第25王朝」による介入
ユダ王国のヒゼキヤ王が、アッシリアへの不服従を宣言して反旗を翻した背景には、南方の超大国である「エジプト第25王朝」からの強力な軍事援助の約束(後ろ盾)がありました。
この「エジプト第25王朝」は、現在のスーダン(ヌビア地方)を本拠地とする黒人系勢力「クシュ人(Kushites)」がナイル川流域を北上してエジプトを征服・統合し、建国した極めて強力な王朝です。
彼らはアッシリアの急速なパレスチナ南下を自国の安全を脅かす危機と捉え、ユダ王国などの諸侯を扇動し、アッシリアに対する「緩衝地帯」として利用するための外交介入を行っていたのです。
この包囲網を打破するため、センナケリブは自ら指揮を執り、アッシリア本国から地中海東岸沿いに大軍を南下させる親征に踏み切りました。
ラキシュ攻城戦と世界最古の高度な工兵技術
センナケリブ率いるアッシリア軍は、ユダ王国の頑強な要塞都市の攻略を開始します。
その最大のハイライトが、エルサレムの南西に位置する堅固な要塞都市「ラキシュ(Lachish)」の包囲・攻略戦です。
このラキシュにおける戦闘の詳細は、のちにニネヴェのセンナケリブ王宮から出土した巨大な浮彫(レリーフ)に驚くほど精緻に刻まれており、
当時の緊迫した戦術が客観的な事実として証明されています。
・守備隊の頑強な抵抗:ラキシュのユダ軍守備隊は、巨大な城壁の上から大量の松明、可燃性の油、煉瓦、石などを執拗に投げ下ろし、
迫り来るアッシリア軍の攻城兵器を焼却・破壊するための苛烈な防衛戦闘を展開しました。
・アッシリア軍の攻城工兵システム:しかし、アッシリア軍の有する攻城技術は古代オリエントにおいて群を抜いていました。
アッシリアの専門的な「工兵部隊」は、城壁の上からの激しい投擲物に対抗するため、土や木材を大量に積み上げて城壁と同じ高さに達する
巨大な「傾斜路(アサルトランプ)」を力技で構築しました。
・破城槌車と歩兵の連携突撃:完成した傾斜路の上を、木と水を含ませた獣皮で防護された大型の「破城槌車(攻城櫓)」が滑り上がり、
城壁の攻略地点にダイレクトに鉄槌を打ち込みます。
この背後から、高い防護盾を持った槍兵や、正確な射撃で城壁上の守備隊を制圧する弓兵が突撃し、ラキシュを制圧、陥落へと追い込んだとされています。
エルサレム包囲戦
ラキシュを完全に制圧したアッシリア軍は、さらにユダ王国の首都エルサレムを包囲しました。
最終的にセンナケリブはエルサレムを直接陥落(水没や物理的占領)させることはしませんでしたが、ヒゼキヤ王から「銀30タラント、金30タラント」におよぶ大量の貢納金と、その娘や后を貢ぎ物(実質的な服属誓約)として獲得することに成功しました。
この遠征は、アッシリアにとってパレスチナ地方における覇権を再確認し、南方のエジプト(クシュ人)の軍事的影響力を一歩後退させるという、
地政学上極めて絶大な戦果をもたらした出来事であったと言えるでしょう。
センナケリブのバビロニア対策とエラム親征
ユダ王国の西征を終えたセンナケリブが直面した最大の障壁は、南部バビロニアにおける宿敵「メロダク・バルアダン2世」の執拗な台頭と、
それを裏で支援する東方の大国エラム王国による介入でした。
バビロニアの統治をめぐり、アッシリアは「融和策の破綻」と「軍事力による直接介入」という過酷な試行錯誤を繰り返すことになります。
バビロン傀儡政権の瓦解
紀元前703年、宿敵メロダク・バルアダン2世は、アッシリア本国が王位継承の混乱に陥っている隙を突き、エラム王国の支援を得て二度目のバビロニア王へと返り咲きました。
センナケリブは即座に大軍を率いて南下し、クタおよびキシュの戦いにおいて連合軍を撃破。
メロダク・バルアダン2世をペルシア湾沿岸の湿地帯へと敗走させます。
この勝利の後、センナケリブはバビロニア市民の反発を和らげるため、直接統治ではなく、アッシリアの宮廷で育ったバビロニアの名門出身者
「ベル・イブニ(Bēl-ibni)」をバビロンの「傀儡王」として擁立するという融和政策を試みました。
しかし、この現地人による傀儡政権は機能しませんでした。
ベル・イブニは現地バビロニアの反アッシリア過激派や、背後に潜むカルデア人勢力からの圧力に抗しきれず、アッシリアに対する「反逆(寝返り)」に及びます。
事態を重く見たセンナケリブは紀元前700年に再び出兵し、裏切ったベル・イブニを即座に更迭・鎮圧しました。
そして、今度は融和策を放棄し、自らの愛息でありアッシリア王位の後継者(第一皇太子)と目されていた「アッシュル・ナディン・シュミ(Assur-nadin-shumi)」を直轄のバビロン王として据え置く、強硬な直接支配と移行しました。
ペルシア湾水陸併用作戦
センナケリブにとって、バビロニアの安定化を阻む最大の元凶は、ペルシア湾南端の湿地帯「海の国」に潜み、エラム王国と結託してゲリラ戦を仕掛け続けるメロダク・バルアダン2世の存在でした。
紀元前694年、センナケリブは宿敵の息の根を完全に止め、エラム王国の後方支援を遮断するため、古代オリエント史上例を見ない規模の「水陸併用作戦」を断行します。
造船・輸送システムの構築:センナケリブは、操船技術に極めて長けた地中海東岸の「フェニキア人(およびキプロス人)」の工兵・水夫を動員しました。
まず、アッシリア北部のチグリス川上流(ニネヴェ近郊)において大量の軍船を建造させ、これを川伝いにバビロニア中部まで南下。
さらにそこからユーフラテス川へと運河を通じて船を陸送・移送し、ペルシア湾の入り口に一大艦隊を集結させました。
このアッシリアの艦隊はペルシア湾を南下し、エラム王国の領土であるペルシア湾東岸(アンシャン近隣の湿地帯)へと直接「上陸作戦」を敢行します(ペルシア湾強襲上陸戦)。
陸路からエラム本土を攻めるアッシリアの陸軍本隊と同調し、東西・水陸の二方面からエラム国境を完全に包囲・蹂躙したのです。
センナケリブはメロダク・バルアダン2世を捕らえる事は出来ませんでしたが、メロダク・バルアダン2世はこの頃に世を去りました。
メロダク・バルアダン2世の死こそが、エラム遠征での最大の戦果とも考えられています。
バビロン包囲戦の危機と逆転勝利
紀元前690年頃、センナケリブは本国との中間地点であるバビロニアをエラム連合軍に一時的に遮断されるという、極めて「孤立無援の兵站危機」に直面していました。
しかし、センナケリブは逆境から即座に反撃へと転じ、バビロンを完全包囲。エラムの救援部隊を撃退しつつ、数年に及ぶ苛烈な包囲戦の末に、紀元前689年にバビロンを再征服(完全陥落)へと追い込みました。
歴史の抹殺:バビロンの「水攻め」と完全破壊
バビロンを制圧したセンナケリブは、愛息を殺害したバビロンを二度と再起させず、メソポタミア全土に絶対的な「恐怖」のメッセージを示すため、前代未聞の大破壊を執行します。
・都市構造の物理的破壊:センナケリブはバビロンの壮麗な宮廷、堅固な二重城壁、そして数多くの神殿インフラを1棟残さず
徹底的に解体・破壊し、その瓦礫を荒野に撒き散らしました。
・ユーフラテス川の逆流による「水没」:物理的な破壊に留まらず、センナケリブはバビロンを縦横に走っていた「アラク運河」の堤防を決壊させ、ユーフラテス川の激流を意図的に市街地へ引き込む「水攻め」を敢行しました。
これによって歴史ある聖都の土台そのものを完全に泥水の中に水没させ、街を文字通り「世界地図から消滅」させたのです。
・マルドゥク神像の捕囚と宗教的支配:さらに、バビロニアのみならずメソポタミア全土の全能の絶対神である「マルドゥク神(神像)」を
アッシリア本土(アッシュル市)へ拉致・捕囚。
これによって「バビロンの政治的・宗教的権威」を根底から剥ぎ取り、アッシリアの絶対神アッシュルがバビロンをも統治するという、決定的な覇権の再編をアピールしました。
「悪名高き王」としての構造的宿命
この苛烈極まるバビロン抹殺は、アッシリアの武力をオリエント全土に知らしめた一方で、あまりにも歴史的な宗教的タブーを破りすぎたため、センナケリブが後世において「悪名高き絶対的暴君」として刻まれる直接的な要因となりました。
さらに、この聖都破壊によるバビロニア市民との修復不可能な怨恨や、神仏を冒涜したとされる内政上の軋轢は、アッシリア国内の保守階級や
宗教指導者との間にも深刻な亀裂をもたらし、のちにアッシリア宮廷を崩壊へと追い込む、センナケリブ暗殺の引き金として静かに作動していくことになります。
尚、紀元前688年にセンナケリブはアッシリア王とバビロニア王を兼任する事になりました。
ただし、センナケリブは首都のニネヴェの開発など、内政面でも成果をあげています。
悪名は通っていますが、暴君という訳でもないのでしょう。
センナケリブの最後
皇太子交代の謎:王太后ナキアの政治的活動
紀元前694年、バビロン王を務めていた第一皇太子アッシュル・ナディン・シュミがエラム王国に拉致・殺害された後、センナケリブは新たな後継者として、軍事的能力と人望を兼ね備えた長男「アルダ・ムリッシ(Arda-Mulissu)」を皇太子に指名しました。
これにより帝国の次代は安泰と目されていましたが、数年後、センナケリブは突如としてアルダ・ムリッシを廃嫡し、最年少の末子である「エサルハドン(Esarhaddon)」を新たな皇太子へと変更するという、極めて異例かつ危険な決断を下します。
この強引な後継者交代の背景には、エサルハドンの実母であり、アッシリア宮廷において絶大な発言権を獲得していた王妃「ナキア(Naqi'a / アラム語名:ザクトゥ)」の卓越した動きがありました。
ナキアは西セム系(アラム人あるいはユダヤ系)の出身と考えられており、アッシリア生粋の貴族層からは異端視されていましたが、持ち前の高い知性と政治的センスによってセンナケリブの深い信頼を掌握していました。
彼女は宮廷内の官僚や占星術師たちのネットワークを精緻に動かし、「エサルハドンこそが神々に選ばれた正当な後継者である」とする神託プロパガンダを流布したと考えられています。
高齢となり猜疑心を強めていたセンナケリブを動かし、執拗な政治的交渉の末に、末子エサルハドンの皇太子擁立を強行させたのです。
センナケリブ暗殺とバビロン破壊の祟り
当然ながら、この不条理な格下げに納得しなかったのが、本来の後継者であったアルダ・ムリッシら兄たちでした。
宮廷内の緊張が極限に達する中、身の危険を察知した皇太子エサルハドンは、母ナキアや支持者たちの手引きによって新首都ニネヴェを密かに出奔し、西方の属州へと身を隠す(避難する)ことになります。
そして紀元前681年、皇太子擁立に不満を募らせ、過激化したアルダ・ムリッシらの兄弟は、新首都ニネヴェの神殿において、実の父親である国王センナケリブを背後から急襲し、凄惨な暗殺(父親殺し)を執行しました。
これによりセンナケリブは最後を迎える事になります。
この絶対君主の暗殺という未曾有の中枢決壊に対し、当時のオリエント全土の民衆や周辺諸国は、これを悲劇的な内紛として捉えただけでなく、
「先王センナケリブが数年前に敢行した『聖都バビロンの徹底的破壊とマルドゥク神像の略奪』に対する、神々の怒りと祟り(神罰)」であると強烈に認知しました。
国家の最高神聖を泥水に沈めた暴君に対し、神の裁きが実子たちの手を借りて下ったのだという宗教的プロパガンダは、瞬く間にアッシリア全土へと拡散し、反乱を起こした兄たちの政治的正当性を根底から揺るがすことになりました。
尚、センナケリブの後継者は内乱を制したエサルハドンに決まり、ナキアらが補佐する事になります。