
| 名前 | メロダク・バルアダン2世 |
| コメント | 2度バビロニア王に即位した |
メロダク・バルアダン2世は2度に渡りバビロニア王になった人物です。
カルデア人の部族「ビート・ヤキン」の反アッシリア運動の指導者となります。
バビロニア王になる前は、海の国の王だったとも伝わっています。
アッシリアのシャルマネセル5世が亡くなった隙に、アッシリア王になりますが、後にサルゴン2世に敗れました。
センナケリブの時代になると、再びバビロニア王に返り咲きますが、またもや敗れエラムに逃亡しています。
メロダク・バルアダン2世は命ある限りアッシリアと戦い続けた人物も言えそうです。
バビロニア王に即位
アッシリアのシャルマネセル5世が亡くなると、サルゴン2世が即位しますが、混乱が生じる事になります。
こうした中で反アッシリアの急先鋒でもあるメロダク・バルアダン2世(Merodach-Baladan II)がバビロニア王として即位しました。
メロダク・バルアダン2世はアッシリア王が兼任していた、バビロニア王の座を奪い取ったとも言えるでしょう。
メロダク・バルアダン2世がバビロニア王になれたのは、エラムの後ろ盾があったからだとされています。
バビロニアの経済的決壊とメロダク・バルアダンの敗走
かつてアッシリアを撃退してバビロニアの王位に就いていたカルデア人の首長メロダク・バルアダン2世でしたが、その統治は長続きしませんでした。
彼はエラム王国との軍事同盟を維持するための巨額の戦費調達を目的として、バビロニアの伝統的な大都市(バビロンやニップルなど)の
富裕層や神領に対し、過酷な「重税(財政的抑圧)」を課すという統治上のミスを犯していたのです。
この過度な搾取により、都市市民や宗教階級からの支持と評判を完全に失ったメロダク・バルアダン2世に対し、サルゴン2世は「都市の特権を保護する解放者」として大軍を率いて南下しました。
アッシリア軍の圧倒的な進撃の前に連合軍の統制は決壊し、メロダク・バルアダン2世はバビロンを放棄してペルシア湾沿岸の湿地帯に位置する本拠地「ドゥル・ヤキン(Dūr-Yakin)」の要塞へと敗走することになります。
紀元前709年、アッシリア軍はこのドゥル・ヤキン要塞を力技で完全に陥落させました。メロダク・バルアダン2世は降伏し、サルゴン2世から減刑の措置を受けて助命されました。
しかし、この反アッシリアの英雄を完全に処刑せず生存させたことは、後の時代に再び南部国境を脅かす火種として残る結果となります。
勝利を収めたサルゴン2世は、自らバビロニア王を兼任して3年間現地で直接民政を執行した後、自らの誇る新首都ドゥル・シャルキンへと堂々の帰還を果たしました。
周辺勢力の離反とメロダク・バルアダンの復活
アッシリアでは紀元前705年にサルゴン2世が戦死する事態となっています。
後継者のセンナケリブは首都のドゥル・シャルキンを放棄しニネヴェに遷都しています。
絶対君主の戦死と首都放棄という中央政府が崩壊する可能性もあり、メロダク・バルアダン2世に好機が訪れたわけです。
アッシリアの本拠地が呪縛と政権交代で混乱している隙を突き、北西のタバル地方をはじめとする全方位の属州で一斉に大規模な離反・反乱が勃発します。
こうした中で、「メロダク・バルアダン2世」の再台頭が起こる事になります。
彼はアッシリアの中央決壊に正確につけ込み、再び東方の大国エラム王国からの強力な軍事援助を引き出してバビロンへと電撃侵攻し、驚異的な執念で「バビロニア王」への返り咲きを果たしたのです。
メロダク・バルアダン2世は再びバビロニアの王となりました。
メロダク・バルアダン2世の最期
メロダク・バルアダン2世はバビロンの王として返り咲いたわけですが、アッシリアのセンナケリブは兵をバビロンに迎えました。
バビロンは持ちこたえず事が出来ず、メロダク・バルアダン2世は再びエラムの地に逃亡する事になります。
ここでセンナケリブはエラム討伐を決断し、フェニキア人の力も使い水陸両用でエラムを攻撃しました。
この史上空前の強襲作戦はエラム側に甚大な打撃を与え、アッシリア軍の圧倒的な勝利に終わりました。
センナケリブの最大の狙いであった「メロダク・バルアダン2世の直接捕縛」こそ、本人が作戦開始の前後にエラムの僻地へと逃亡したため叶いませんでしたが、
度重なる敗走と心労により、このカルデア人のカリスマ指導者・メロダク・バルアダン2世ははこの遠征の最中に病死(自然死)を遂げました。
長年にわたりアッシリアを脅かし、歴代の王たちを幾度も戦慄させてきたメロダク・バルアダン2世の退場は、アッシリアの南部国境地帯における政治的パワーバランスを激変させる、アッシリア帝国全史における極めて重大な終止符となりました。