趙の佞臣である郭開を紹介したいと思います。
以前の記事では、秦を内部崩壊させて滅亡に追い込んだ趙高を紹介しました。
秦を腐敗させて滅ぼしたのが趙高であるならば、趙を内部崩壊させて滅亡させたのが郭開だと言えます。
代王嘉を除けば趙の最後の王である趙の幽穆王と、その父親である趙の悼襄王には信任されていたようです。
ただし、国というのは、信任する人を間違えてしまうと滅んでしまうわけです。
斉の桓公は、管仲を信任して国を富ませていますし、三国志の劉備も諸葛亮を信任する事で蜀の国を建国する事が出来ました。
漢の劉邦も張良・蕭何・韓信の意見を採用して項羽を破り天下を手中に収めています。
しかし、劉禅は黄皓を信任して国を滅ぼしていますし、胡亥は趙高を信任して秦は滅亡しました。
このように信任する人を間違えてしまうと国は滅びてしまうわけです。
趙は郭開を信任する事で国を滅ぼしてしまいました。
上記の画像はキングダムの作者である原泰久先生が描いた郭開です。
尚、史実では呂不韋に郭開が通じていた記録はありませんし、もちろん耳飾りを貰って記述もありません。
郭開が廉頗の復帰を妨害した
郭開が史書に初登場するのは、魏に亡命した廉頗を趙が呼び戻そうとした時です。
趙の孝成王が亡くなり、悼襄王が即位すると、戦場で戦っていた廉頗は更迭されてしまいます。
長平の戦いの時に廉頗は更迭されているわけですが、2度目の更迭となってしまったわけです。
楽乗が代わりの将軍に任命されますが、廉頗は交代に来た楽乗に攻撃を掛けて敗走させています。
余程、腹の虫が収まらなかったのでしょう。
その後、廉頗は魏に亡命するわけですが、魏は廉頗を信用せずにいました。
趙は秦の攻撃に悩まされていたので、名将である廉頗に戻ってきてもらい将軍に任命しようと考えていたわけです。
趙の悼襄王は、使者を派遣して廉頗がまだ使えるのかどうか様子を調べる事にします。
この時に、廉頗の復帰を阻止しようとしたのが、郭開でした。
郭開は廉頗の事を趙にいた時から嫌っていたようで、廉頗の復帰を阻止しようとします。
一説によると廉頗と郭開は犬猿の仲だったとされています。
尚、長平の戦いの合戦中に藺相如が死亡した可能性があり、平原君や虞卿が宰相となっていますが、その後に趙の実権を握ったのが郭開だったのかも知れません。
使者を買収する
趙の悼襄王は、廉頗の様子を調べさせるための使者を派遣するわけですが、使者を郭開が買収したとされています。
廉頗は趙の使者が来ると大変喜び、馬に乗り駆け巡り、さらに大量のご飯を食べたとされています。
廉頗としては、何とか趙に戻って再び、戦場で采配を振るいたかったのでしょう。
健在ぶりを使者に対して大いにアピールしたわけです。
しかし、郭開に買収された使者は悼襄王の元に戻ると「廉頗は食事は大そう進むようでしたが、厠(トイレ)に3回行った」と報告したとされています。
厠に3回行ったというのは、トイレが近かったという意味もあるようですが、3回も失禁したと報告した説もあるわけです。
どちらにしろ、この報告を受けた悼襄王は廉頗の事を「耄碌した年寄り」と判断して、復帰は諦めてしまいます。
別の説では、郭開が使者を買収しようとしたが、使者は拒んだ話もあります。
使者自体も廉頗ファンで復帰を待ち望んでいたわけですが、郭開が圧力を掛けて悪意の報告をさせようとした話です。
悼襄王の前に行くと使者は心の中では「廉頗は覇気があり健在でした」と報告したかったが、郭開が一緒にいた為、本当の事を言えず、厠が近かったと報告した説もあります。
ただし、どの説も廉頗の復帰を郭開が阻止しようとした内容は同じになっています。
これにより廉頗は趙に復帰する事が出来ずに、楚に移っています。
しかし、楚で一度は将軍となりましたが、趙のように兵を自在に扱う事が出来なかったのか、功は立てなかったとあります。
さらに、晩年は「趙兵を用いたい」と言い淋しく楚の首都である寿春で没したそうです。
廉頗は郭開によって、最後の一花を咲かせる事が出来ずに、無念さを秘めながら没してしまったのでしょう。
尚、趙は郭開が宮廷に現れた頃から、おかしくなり始めたのではないでしょうか?
宮廷には、藺相如のような人がいて仕切っているのが理想だと感じています。
藺相如が宮廷にいれば、廉頗も安心して力を発揮できる事でしょう。
藺相如がいれば、戦いには最後に勝てばよく更迭される心配もないわけですからね。
李牧を誅殺する
廉頗を更迭した後に、郭開は暫くは史書には登場しません。
次に、登場するのが趙の滅亡が近づいた頃です。
戦国策では、韓倉という人物が登場しますが、郭開と同一人物ではないかと言われています。
戦国策では、司空馬が仮の宰相になっていて、幽穆王との問答が記載されています。
司空馬の策は用いられずに、結局は趙を去るわけですが、そこで幽穆王は韓倉(郭開)を信任して国を亡ぼす事を予言しているわけです。
実際に郭開の方は、李牧と司馬尚が反乱を企んでいるといい、李牧と司馬尚を更迭させようとしています。
さらに、李牧には自害を命じています。
目の前に秦の王翦、楊端和、羌瘣の三将がいるのに、郭開は李牧と司馬尚の更迭する様に仕向ける事になります。
これは正気の沙汰とは思えません。
李牧は幽穆王の刺客により殺された説もありますが、郭開が李牧の事を幽穆王に讒言して殺した事は間違いないようです。
李牧は、桓騎を破るなど、秦軍を何度も破った名将です。
王翦に匹敵するほどの将軍である、李牧がいなくなり代わりに、趙葱と顔聚が将軍となりますが、趙は5カ月で首都である邯鄲が陥落して滅亡しています。
司馬尚は、官位を剥奪されて庶民に落とされてしまいました。
尚、秦の李斯は始皇帝に各国の大臣に賄賂を贈りこちらに応じる者は、内通させるように進言しています。
李斯のいう内通する者が、趙の郭開だったのでしょう。
趙は廉頗と李牧という、白起にも匹敵する武将を失った事で滅亡したとも言えます。
趙の幽穆王は信任する人物を誤ったとしか言いようがありません。
郭開の最後は?
趙の滅亡した後に郭開がどのような最後を迎えたのかは定かではありません。
しかし、小説や歴史上の話しなどを見ると、いくつかのパターンがある事が分かります。
ここでは、様々な説を参考にしてまとめてみました。
秦の大臣になった?
趙が滅亡した後に、郭開は秦の大臣になったとする説があります。
最初から郭開は、秦と内通していて趙が滅んだ後は、大臣になる約束が出来ていたという話です。
もちろん、趙が滅亡した後は秦の大臣となります。
これを見て趙の幽穆王は、李牧が忠臣であり郭開が佞臣だと悟りますが、時すでに遅しという状態で、憤死したというお話です。
そして、郭開はその後どうなったのかは分かりませんが、歴史の表舞台に登場しないだけで大臣を続けたのかも知れません。
ただし、秦の始皇帝は郭開には趙の滅亡で助けてもらったが、佞臣だと分かっている為に信任しなかったのではないかと思います。
それか、郭開自体は賄賂を貰って利益を上げる事になれてしまったのか、他国に再び寝返ろうとして見つかって命を落としたのかも知れません。
秦の過酷な法治主義の網に引っ掛かり罪に問われた可能性もあります。
しかし、結局のところはどうなったのかは分かりません。
趙の滅亡の混乱で殺された
趙が滅亡した時に、盗賊が邯鄲に侵入してきて、盗賊に殺されてしまった説です。
この説は、非常に間抜けのような話ですが、邯鄲が陥落した時点で郭開も死んだとする説です。
城が陥落する時は、確かに混乱していますので、盗賊が侵入してきて郭開をターゲットにしてもおかしくはないでしょう。
元の太子嘉(代王嘉)は、混乱した邯鄲から脱出したが、郭開は捕まり殺されてしまったというのも、ありえない話ではないと思います。
この説だと郭開は、かなり刹那的な人物に思うわけです。
先の事を何も考えていないわけですし、自分を富ます事だけを考えて、趙が滅んだ後にどうするのか全く考えてないように感じるからです。
李牧を殺しても、趙が滅亡しないとでも思ったのでしょうか?
それか秦に逃げる手はずを整えていたが、逃げ遅れた可能性もあるかも知れません。
しかし、廉頗や李牧を殺害した郭開には、お似合いの最後のような気もします。
秦に賄賂だけもらって国を亡ぼす気が無いのであれば、やり過ぎは良くないかなと思った次第です・・・。
余談ですが、列女伝には趙の幽穆王の母親である悼倡后も秦から賄賂を貰い、李牧を讒言しますが、最後は邯鄲の落城と共に、趙の大臣らにより誅殺された記述があります。
それを考えると、秦から賄賂を貰っていたのは、郭開だけではなく、悼倡后などの妃なども秦から賄賂を貰ったいたのでしょう。
郭開は始皇帝に殺された?
私の自説なのですが、郭開は始皇帝に殺されたのではないでしょうか?
昔、越王句践は范蠡や文種の策により、呉を破ったわけですが、その時に呉の宰相である伯嚭(はくひ)を買収しているわけです。
しかし、呉王夫差を自殺させて呉を滅ぼしてしまうと、伯嚭を不忠の者として処刑してしまいました。
同じように、始皇帝が趙を滅ぼし郭開と面会した時に「主君を平気で裏切るお前(郭開)のような奴が私は大嫌いだ」と言い処刑した可能性もあるのではないかと感じています。
郭開の方が多大なる恩賞を貰えると思っていただけに、突然の処刑宣告に青くなってしまった説です。
ただし、これをやってしまい他の諸侯に知れ渡ってしまうと、他国の佞臣たちが秦に裏切ろうとしても、不忠者扱いされて首を斬られると感じたら、賄賂を送っても秦の為に働いてはくれないでしょう。
それを考えると、「現実的ではないかな・・」とは思いますが、始皇帝が郭開を処刑しても不思議ではないようが気がします。
主君にとってみれば、自分の利益の為に主君を裏切る奴は嫌って当たり前ですからね・・・。
キングダムでは、個人的には郭開は秦王政に処刑してもらいたいと願っております。
李信が真っ二つに郭開を斬るのも悪くはないかも知れません。
郭開はなぜ信任されるのか?
李牧などは、秦軍を何度も破りました。
その時は、趙の幽穆王は李牧を「我が白起」と絶賛して武安君に封じています。
しかし、秦の王翦、羌瘣が攻めて来た時は、既に疑いの目を向けているわけです。
そして、郭開の言葉を信用して李牧を殺害しています。
ここで気になるのが幽穆王はなぜ郭開の言葉を信じてしまうのか?と言う事です。
波長があった事は間違いないと思いますが、なぜ悪臣のはずの郭開を信任してしまうのか考えてみました。
李牧の事を恐れていた
李牧の事を幽穆王が恐れていたという説です。
李牧は、超絶戦が上手い男で能力で言えば、幽穆王を圧倒していた事でしょう。
余りにも能力が高すぎてしまい、幽穆王は李牧に国を奪われてしまうと警戒していた話です。
魏の安釐王も信陵君の事を恐れて政治から外してしまった事があります。
同じように幽穆王は李牧を恐れていて、不安になっている中で郭開が讒言した為に、信じてしまった説です。
尚、燕の昭王だと、楽毅を讒言した人物を処刑するなどもしています。
趙の幽穆王が燕の昭王になれなかったのが、趙の滅亡に繋がったのかも知れません。
幽穆王が甘言を信じやすい性格だった
幽穆王が甘言を信じやすい性格だったのかも知れません。
私の想像に過ぎないのですが、郭開というのは、巧みに幽穆王を絶賛してくれるわけです。
これにより幽穆王は気分が良くなってしまいます。
幽穆王の母親は素行の悪い遊女でありましたが、悼襄王の寵愛を受けた為に幽穆王は趙王に即位する事が出来た経緯があります。
そのため大臣の中では、太子嘉に心を寄せる者が多かったのかも知れません。
その中で郭開だけは、幽穆王を讃えてくれるため気に入ってしまい、いざと言う時は郭開を頼りにした可能性もあるでしょう。
それと、趙の幽穆王自身が、諫言を嫌っていた可能性もあります。
西周王朝末期と春秋戦国時代初期に活躍した、衛の武公などは諫言を好み、毎日のように宮廷では「我を諫めよ!」と言っていた話があります。
衛の武公も兄を殺して即位した経緯があり後ろめたさもありますが、諫言を好む性格は立派です。
幽穆王は、衛の武公にもなる事が出来ずに、諫言を避けて来た結果が、郭開を信用して趙を滅亡させてしまったのかも知れません。
しかし、郭開の方も信任されると言う事は、弁が立ち説明する能力は高かったのかも知れません。
そういう能力が外交官としてではなく、悪い方向に突き進んでしまったのは残念に感じました。
ただし、趙と秦では国力の差があり過ぎますので、李牧が生きていたとしても滅亡した可能性は十分にあるでしょう。
郭開の存在は、趙の滅亡を早めただけなのかも知れません。
趙の幽穆王がバカだったと言うよりも、郭開が巧み過ぎた可能性もあります。