紀霊は正史三国志には袁術の配下として、呂布の仲裁の逸話でしか名前が登場しない人物です。
明代に三国志演義が出来ると、紀霊が関羽と互角の一騎打ちをしたなどの話も加わり、目立つ存在となりました。
三國志演義の関羽と言えば華雄、顔良、文醜と董卓や袁紹配下の名だたる武将を討ち取った猛者であり、その関羽と互角の一騎打ちをした事で、紀霊は一躍有名となったわけです。
しかし、紀霊は正史三国志では一つの逸話でしか登場しない人物であり、目立たない存在でもあります。
今回は三国志演義で大幅に活躍が増えた紀霊を解説します。
尚、正史三国志と三国志演義の両方の紀霊の解説をしてあります。
因みに、紀霊は三国志演義では三尖刀なる武器を使用した事になっていますが、正史三国志を見ると三尖刀を使った記録は存在しません。
正史三国志の紀霊
小沛を攻める
紀霊は袁術の配下ですが、正史三国志の袁術伝に名前は登場せず、紀霊の名前が登場するのは呂布伝となります。
劉備は袁術を攻撃しますが、呂布が反旗を翻し徐州を奪ってしまったわけです。
徐州を奪った呂布は、劉備を小沛に配置しました。
これに対し袁術は劉備を邪魔だと思ったのか、紀霊に3万の兵を預け攻撃を命じています。
袁術軍の将軍と言えば、大将軍になった記録がある張勲と橋蕤ですが、それ以外の将軍は孫策の一派を除けば分からない状態です。
それを考えると、紀霊は袁術軍において、張勲、紀霊に次ぐ者であり、袁術軍のナンバー3と呼べる人材だったのかも知れません。
呂布の救援
紀霊は劉備と対峙しますが、劉備は呂布に救援を求めました。
呂布の配下は劉備を救援するのに反対しましたが、呂布は袁術に包囲網を作られる事を恐れ、劉備の救援に向かったわけです。
呂布が紀霊と対峙している劉備の救援に向かったのは、劉備の勢力が袁術との緩衝地帯になると考えたのでしょう。
ただし、この時の呂布は1200の兵士しか率いておらず、劉備の救援と言うよりも、紀霊と劉備の仲裁に乗り出したと言った方がよいはずです。
紀霊は呂布が到着すると、攻撃を控えたとあります。
紀霊としても呂布と正面から戦いたくは無かったのでしょう。
呂布の仲裁
呂布は紀霊に使者を派遣し、食事に招待すると、紀霊も承諾しました。
この時の紀霊は「自分も食事を共にしたい」と申した話があります。
呂布は紀霊に会うと、次の様に述べます。
呂布「劉玄徳は儂の弟であり。弟が諸君により苦しめられていると聞いておる。
儂は争いごとが嫌いであり、揉め事を仲裁するのを好んでいる」
呂布は紀霊に対し、自分は戦いを仲裁するつもりだと述べたわけです。
呂布は部下の役人に命じ、陣営の門の中に1本の戟を立て、次の様に紀霊や諸将に述べます。
呂布「儂が戟の小枝を射るから見ていて欲しい。
もしも一発で命中する事が出来たなら、其方らは戦闘を中止し、引き上げて貰いたい。
仮に命中しなかったら、好きな様に戦ってくれ」
呂布は紀霊や諸将の前で、弓を射ると見事に戟の小枝に当てる事に成功します。
呂布の弓の腕前を見た紀霊らは、次の様に述べた話があります。
「将軍(呂布)は天の御威光を具えておられる」
紀霊らは呂布の弓の腕前が見事だと讃えたわけです。
紀霊らは翌日も宴会を楽しみ、その後に兵を引き撤退した話があります。
紀霊は呂布との約束を守ったわけです。
その後の紀霊
正史三国志の紀霊の記述は、これだけであり、この後の紀霊がどうなったのかは記録がなく不明です。
紀霊は劉備を攻撃したわけですが、戦わずに引き上げてしまったわけであり、この行為を袁術がどの様に考えたのかは記述がありません。
袁術が「役立たず」だと思えば、紀霊は将軍職を解任され、二度と戦場に立つ事は無かった可能性もあるはずです。
紀霊が戦場に立たなくなり、記録が途絶えた事も考えられます。
別の説としては、袁術の死後に袁胤、黄猗か張勲、楊弘と行動を共にし、劉勲の元にいた可能性もある様に感じました。
孫策や周瑜が劉勲を破り大喬、小橋や袁夫人を手にした時に、紀霊も孫策の配下に移った可能性もあるでしょう。
呉の孫権に仕えた紀姓の人物で、紀亮と紀陟なる人物がいますが、紀霊と関係があるのではないか?とする説もあります。
紀亮と紀陟が紀霊の子であるとしたなら、紀霊は孫策に仕え、その後に孫権に仕えた事も考えられるはずです。
紀霊の最後は記録がなく、想像に任せるほかないとも言えます。
三國志演義の紀霊
関羽と互角一騎打ちを繰り広げる
劉備は陶謙から徐州を譲り受け、呂布を養う事となります。
曹操が劉備と呂布を危険視し、参謀の荀彧は二虎競食の計を出しますが、失敗に終わると駆虎呑狼の計を行いました。
曹操は献帝からの詔勅を出させ、劉備に袁術を攻撃させたわけです。
この時に袁術軍を率いていたのが紀霊であり、紀霊は三尖刀の使い手として登場しました。
紀霊はこの時に関羽と一騎打ちとなり、30合も打ち合いますが、勝負は付かなかったわけです。
三國志演義では関羽は最強クラスの武将であるにも関わらず、紀霊は互角の戦いを見せます。
この後に、紀霊は何を思ったのか部下の荀正を出し、関羽と一騎打ちをさせています。
しかし、荀正では関羽の相手にならず、荀正は直ぐに関羽により討ち取られました。
紀霊が荀正を出陣させ、関羽と戦わせた理由に関しては不明としか言いようがありません。
この後に、徐州にいた曹豹が呂布を徐州に招き入れた事で、徐州の主が劉備から呂布に代わり、劉備は小沛に駐屯する事となります。
劉備を攻撃
袁術は孫策から玉璽を質として手に入れますが、江東の大部分を制圧した孫策が玉璽の返還を求めて来たわけです。
袁術は孫策の玉璽の返還要請に対し楊大将、張勲、紀霊、橋蕤、雷薄、陳蘭らを集めて協議しました。
この時に袁術は孫策を無礼者とし攻撃しようとしますが、楊大将の言葉により、孫策ではなく劉備を攻撃する事にしました。
袁術は最初に韓胤に密書を持たせ、呂布の様子を伺い好反応を得たと手ごたえを感じます。
袁術は紀霊を総大将として雷薄、陳蘭と共に、劉備を討たせました。
紀霊は劉備を攻撃しますが、呂布が武芸を使って仲裁したのは、正史三国志とほぼ同じです。
紀霊は呂布の仲裁により兵を引く事になります。
紀霊の策
軍を撤退させた紀霊は袁術に、呂布の娘との縁談を提案しました。
この時の呂布の娘が、呂玲綺だとする話もあります。
正史三国志では呂布の娘との縁談は袁術が考案した事になっていますが、三国志演義では紀霊が考えており策士としての一面を見せる事になります。
ただし、紀霊が考案した呂布の娘との縁談の話は、陳珪や陳登により破談となりました。
後に袁術は皇帝と為り仲王朝の開祖となり、七つの軍(張勲、橋蕤、陳紀、雷薄、陳蘭、韓暹、楊奉)を徐州に派遣し、袁術自身も紀霊、李豊、梁剛、楽就らと徐州に向かう事となります。
しかし、袁術の遠征は失敗に終わり、袁術は坂道を転がるが如く転落していく事となります。
紀霊の最後
袁術は落ち目となりますが、紀霊は袁術を見捨てる事も無く付き従いました。
劉備が袁術を征伐すると、紀霊は張飛と一騎打ちをする事となります。
紀霊は過去に関羽と互角の一騎打ちをした事があり、期待されましたが、呆気なく張飛に討ち取られています。
三国志演義では袁術を最後まで見捨てなかった忠臣が紀霊だとも言えるはずです。
尚、三国志演義の袁術配下の武将の中で、最も活躍したのが紀霊だったとも言えるでしょう。
紀霊が討ち取られたのは、袁術軍の消滅を意味する様にも感じました。
紀霊の能力値
三国志14 | 統率78 | 武力83 | 知力51 | 政治48 | 魅力60 |