春秋戦国時代

栗腹(りつふく)は燕の宰相となるも趙に大敗北を喫した

2022年3月5日

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名前栗腹(りつふく)
生没年生年不明ー紀元前251年
時代春秋戦国時代
主君燕王喜
年表紀元前251年 鄗の戦い
コメント趙を攻撃するも廉頗に大敗北を喫した

栗腹は燕の宰相であり、趙へは友好の使者として赴く事になります。

しかし、趙から帰った栗腹は、趙を攻撃する様に進言し、自らが将軍となりました。

栗腹は鄗の戦いで、廉頗に大敗北を喫し、最後を迎えた話しもあります。

栗腹に関しては分かっている事は少なく、趙への使者になった事と廉頗に大敗した事位しか分かっていません。

栗腹がどの様な経緯で、燕の宰相になったのかも不明です。

しかし、栗腹が出陣する時に、後軍として燕王喜も出陣するなど、燕王喜のお気に入りの臣だったのかも知れません。

燕王喜としては、栗腹に功績を立てさせるつもりだったが、栗腹は結果として廉頗に大敗した様にも感じました。

趙への使者となる

史記の燕召公世家に下記の記述があります。

「燕王は宰相の栗腹を派遣し、趙と親善を約束させ五百金を献じ、趙王との酒宴に供した」

この記述から、栗腹が趙への友好の使者として赴いた事が分かります。

栗腹が燕王喜の使者として、趙に行ったのは燕王喜の4年の事だと史記に記録があります。

さらに、栗腹が趙に行ったとする記述の前には、長く秦王を務めた秦の昭王が亡くなったと書かれていました。

燕王喜の4年である紀元前251年は、趙で3度宰相となった戦国四君の一人である平原君が亡くなった年でもあります。

東周列国志では、平原君の弔問を理由に燕王喜が偵察を含め、栗腹を派遣した事になっていますが、ありえない話ではないでしょう。

他にも燕としてみれば、秦の昭王が亡くなった事で、趙への侵攻が無くなり、趙が燕に攻めて来るのではないか?と不安になり、趙との友好の為に栗腹を派遣した可能性もあるはずです。

理由はともあれ、栗腹は趙に友好の使者として行きました。

趙を攻める様に進言

栗腹は燕に戻りますが、趙に戻ると栗腹は、次の様に燕王喜に報告しました。

栗腹「趙の民で壮年に達した者は、長平の戦いで戦死しています。

遺児たちも成人に達していません。

趙を討つなら今が好機です」

栗腹は名目上とはいえ、趙との友好の為に行ったわけですが、燕王に復命すると、あべこべに「趙を攻撃するべき」だと述べたわけです。

燕は燕の昭王の時代に楽毅が斉を壊滅状態にしており、この時が燕の全盛期でした。

しかし、楽毅が趙の恵文王の元に亡命し、騎劫が燕の将軍になると反撃してきた田単に大敗しています。

燕は斉から楽毅が奪った土地は、全て田単に奪われてしまい、これ以降は国自体が停滞していたわけです。

燕王喜としてみては、趙が弱いのであれば国威高揚の為の打開策になると、考えた可能性もある様に思います。

燕王喜は栗腹の進言を喜び、趙を攻めようと画策しました。

この時に楽毅の子で昌国君の楽間や、将渠は猛反対しますが、燕王喜は5倍の兵力で趙を討つと述べ、栗腹の意見を採用しました。

趙を討つのに反対したのは楽間と将渠の二人位であり、燕の大半の大臣が栗腹の意見に賛成した話もあります。

さらに、燕王喜が後軍となり、自ら出陣するなど、勝利への渇望を見せたわけです。

燕王喜は栗腹を信用し必勝の態勢で、趙を攻撃したとも言えます。

廉頗に大敗北

栗腹が趙を攻撃した時に、趙は孝成王の時代であり廉頗を将軍に任命しました。

廉頗は恵文王の時代に活躍した武将ですが、趙の孝成王の即位したての頃に、将軍職を更迭されていたわけです。

因みに、廉頗の後任となったのが、趙括であり白起長平の戦いで、40万の軍を失う大敗北を喫しています。

廉頗にしてみれば、将軍職を解任されて以来、刎頸の交わりを結んだ藺相如も死去し、不遇の時を過ごしていたわけですが、将軍職への復帰は願ってもない事だったはずです。

戦国策の記述では、栗腹が40万の軍勢を率いて廉頗と戦い、卿秦が20万の軍勢を率いて代を攻撃したとあります。

戦国策の記述だと栗腹を迎え撃った廉頗の兵力が、20万だったり8万だったりとはっきりとしません。

燕召公世家によれば、栗腹が将軍となり燕軍は宋子に達したとあり、次の様な記述があります。

「趙は廉頗を将軍とし、栗腹の軍を鄗で撃破し、卿秦と楽乗の軍を代で破った」

この記録から栗腹の軍が鄗の戦いで、廉頗に敗れた事が分かります。

栗腹が敗れた鄗に関して述べておくと、趙の孝成王が邯鄲籠城戦の後に、食邑として魏の信陵君に賜わった話があります。

それを考えると、鄗の戦いでは信陵君も参加していた可能性もある様に感じました。

さらに、卿秦と楽乗が代で趙軍に敗れていますが、李牧匈奴の備えとして代にいた可能性があり、李牧が卿秦と楽乗の軍勢を破った可能性もあるはずです。

廉頗、信陵君、李牧などは春秋戦国時代を代表する名将であり、将としての質で言えば、栗腹が叶う相手ではなかったのでしょう。

尚、戦国策の記述では代で燕の卿秦と戦ったのは、趙将楽乗だった話もあり史記と食い違いが出ている状態です。

さらに言えば、鄗の戦いの前に、趙側の記録で楽乗と慶舎が秦の信梁の軍を破った記録もあります。

それを考えると、楽乗は既に趙の将軍であり代で卿秦を破ったのは、楽乗だったのかも知れません。

栗腹の最後

栗腹率いる燕軍は、廉頗に大敗したわけですが、史記の趙側の記録である趙世家には、次の記述が存在します。

「廉頗は趙軍の将となり、燕軍を破り栗腹を殺害し、卿秦を捕虜にした」

趙世家の記録からは、栗腹が廉頗に敗れ亡くなった事になっています。

栗腹が趙軍の捕虜となり斬られたのか、戦いで戦死したのかは不明です。

栗腹は趙軍の総大将であり、代を責めた卿秦も捕らえられている事から、歴史的な大敗北を喫したのでしょう。

燕軍の兵数は60万の大軍だった話もありますが、栗腹は大敗北を喫したのは確実だと感じました。

廉頗と栗腹の戦いである鄗の戦いの内容の詳細は伝わっていませんが、栗腹は命を落とし最後を迎えたと言う事です。

因みに、栗腹が大敗すると、廉頗は趙の首都を囲みました。

燕王喜は廉頗に和睦を申し込むと、趙側は将渠を燕の宰相に任命し、和睦に当たらせる事を望みました。

燕王喜は本意ではなかったと思いますが、将渠を宰相に任命し、燕が5つの城を趙に割譲する事で和睦が成立しています。

栗腹の大敗北により、燕は窮地に陥り無駄に城や物資、兵を失い国力を大幅に下げてしまったと言えそうです。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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