春秋戦国時代

楽間(がくかん)は父親同様に趙に亡命するも返書は書かず

2022年3月5日

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名前楽間(がくかん)
生没年不明
一族父親:楽毅 一族:楽乗 子孫:楽叔、楽瑕公、楽臣公 先祖:楽羊
時代春秋戦国時代
燕→趙
主君燕の恵王→武成王→孝王→燕王喜→趙の孝成王
年表紀元前251年 栗腹の趙への攻撃に反対。趙へ亡命。
コメント楽毅と似ている部分が多い

楽間は楽毅の子であり、楽毅が趙に亡命すると燕の恵王により、昌国君に任命されました。

楽間が楽毅の子であるなら、楽間の先祖は魏の文侯の時代に活躍した楽羊になるはずです。

父親の楽毅は燕の昭王が亡くなると趙に亡命し、趙の恵文王に仕えますが、楽間は昌国君として燕に残りました。

楽間は燕の恵王、武成王、孝王、燕王喜と仕える事になります。

燕王喜の時代に宰相の栗腹が、趙を攻める様に進言しますが、楽間は反対した記録が史記や戦国策にあります。

燕王喜が楽間が賛成しなかった事で怒りだし、楽間は燕王喜を恨み趙に亡命しました。

楽毅ほどの知名度はありませんが、趙攻めの失敗を予言するなどは、楽間は見識が高く有能な人だったとも感じます。

今回は楽毅の子である楽間を解説しました。

昌国君となる

楽間は父親の楽毅が斉を攻撃し、斉を壊滅状態にした頃には、燕の都にいたのでしょう。

楽毅としては燕の昭王に忠誠を見せる意味で、妻子や楽氏の後継者である楽間を、燕の昭王の手元に置いたと思われます。

燕の昭王は楽毅を重用し、破格の扱いをしており、楽間もかなりの好待遇を得ていたはずです。

しかし、燕の昭王は紀元前279年に死去してしまいます。

燕の恵王が即位した事から、楽間の立場は一転して微妙になったように思います。

理由としては、燕の恵王と楽毅の仲が冷え込んでいた為です。

燕の恵王は楽毅を更迭し、騎劫を将軍に任命しました。

楽毅は燕の都である薊に戻れば、燕の恵王により誅殺されると思ったのか、趙の恵文王の元に亡命しています。

父親の楽毅の亡命により、楽間は身の危険を感じた可能性もありますし、場合によっては燕の恵王により捕えられた可能性もあるでしょう。

楽毅の代わりに将軍となった騎劫は斉の田単に瞬く間に敗れ、楽毅が奪った城は全て斉に取り返されてしまいました。

燕の恵王は楽毅に責めや詫びの書状を送ると、楽毅は燕の恵王に手紙を書いたわけです。

楽毅の手紙からは燕の昭王への忠義が溢れており、燕の恵王は自分の愚かさに気付きます。

燕の恵王は楽毅の忠義の心に打たれ、楽毅の子である楽間を楽毅の後継者として認め昌国君に任命しました。

楽毅は趙の配下となりますが、燕と趙の国境におり望諸君と号した話があります。

趙で賄い望諸君となった楽毅と、昌国君を継いだ楽間が、それ以降に出会ったかは不明です。

しかし、燕の恵王や趙の恵文王が気を利かせて、楽毅と楽間を面会させた可能性はあるのでしょう。

因みに、燕の恵王は紀元前271年に公孫操により暗殺され、燕では太子の武成王が即位し、武成王が亡くなると孝王が即位し、孝王が亡くなると燕王喜が即位しています。

楽間は燕王喜の時代まで記録があり、4代の燕王に仕えた事になるのでしょう。

趙への攻撃に反対

紀元前251年に燕の宰相である栗腹は、友好の使者として趙に行きました。

しかし、栗腹が趙から帰国すると、趙を攻撃する様に進言したわけです。

燕の多くの臣下は、栗腹の「趙が長平の戦い白起に敗れた事で弱体化している」との考えに賛同しています。

それに対し、楽間は次の様に述べました。

楽間「趙は四方を敵に囲まれた国であり、何度も戦争が起きています。

趙の民は戦争に慣れていますし、戦ってはなりませぬ」

楽間は趙と戦ってはならないと進言しました。

これに対し、燕王喜と楽間の間で、次のやり取りが戦国策に記録されています。

燕王喜「ならば、儂は趙の倍の兵力を用意しようと思うが、どうであろうか」

楽間「なりませぬ」

燕王喜「ならば、趙の三倍の兵力があれば、どうであろうか」

楽間「なりませぬ」

楽間は燕王喜が三倍の兵力で趙を討つと言っても、諫止したわけです。

因みに、史記では燕王喜が楽間に五倍の兵力を集めると述べても、楽間はよい返事をしなかった話があります。

これにより燕王喜は激怒し、他の大臣達が戦争に賛成だった事もあり、栗腹の策に従い出陣を決めました。

さらに、燕王喜は将渠が止めるのも聞かず、自らの出陣も決めたわけです。

燕王喜が自ら出陣する辺りは、趙への攻撃を絶対に成功させ、楽間にギャフンと言わせたかったのかも知れません。

楽間が趙に亡命

燕王喜は楽間の意見を聞かず、怒りだしたわけですが、この時の燕王喜の怒り方はかなり酷かったのでしょう。

燕王喜が何と言ったのかは不明ですが、楽間のプライドを傷つけてしまったのか、楽間は趙へ亡命しました。

この時に趙では孝成王の時代でしたが、孝成王は楽間の亡命を受け入れています。

これにより楽間は父親の楽毅と同様に、趙に移る事になったわけです。

歴史は繰り返すとは、この事を言うのでしょう。

燕王喜の手紙

燕の方では、宰相の栗腹が将軍となり、卿秦と共に出陣しますが、鄗の戦いで廉頗を相手に大敗北を喫しています。

兵数では圧倒的に燕軍が多かった様ですが、楽間の言う様に趙軍の戦の巧みさが上回り、燕軍は大敗してしまったのでしょう。

燕王喜は趙側の要請もあり、将渠を宰相に任命し、趙との和議が成立しました。

燕王喜は楽間の意見を聞いておけばよかったと反省したのか、楽間の趙への亡命を責めながらも詫びるという手紙を出した話があります。

燕王喜は手紙の中で、殷の紂王に仕えた商容や箕子の話を出したりして、楽間の燕への復帰を求めました。

しかし、戦国策には次の記述があります。

「楽間と楽乗は、自分達の考えが用いられなかった事を恨み、二人とも趙に留まり返書は書かなかった」

楽間は父親の楽毅と違い、返信の書はしたためなかったわけです。

楽毅には燕の昭王の様な最高ともいえる君主がいましたが、楽間には、楽毅における燕の昭王程の君主はいなかったのでしょう。

その為、燕王喜に返信をしなかったと思われます。

尚、戦国策の上記の記述を見ると楽間だけではなく、楽乗も趙への攻撃を反対した様な書き方をされています。

しかし、楽乗は卿秦と共に出陣した話もありますし、趙の将軍として卿秦と戦ったかの様な記述もあり、立ち位置がイマイチはっきりとしない存在です。

趙に行った楽間ですが、楽毅と同様に趙に移ってからの活躍は不明であり、没年も何年になるのか分かりません。

しかし、名将楽毅の子としての重圧もあったりと、何かと大変な部分もあった様に感じています。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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