合従軍に関しての解説です。
原泰久さんが描くキングダムという漫画がありますが、その漫画の見せ場の一つが函谷関の戦いではないでしょうか?
李牧が構想し楚の令尹(宰相)の春申君が総大将として秦に挑んだ戦いです。
さらに、趙の将軍である龐煖も連動したかのように、4カ国の合従軍で秦の蕞(さい)を攻めています。
このように、合従軍というのは諸侯が連合軍を結成し、大国に戦いを挑む事を言います。
ちなみに、合従の反対は連衡です。
大国(秦)に服従して、その他の諸侯を攻める政策を連衡と呼びます。
今回は合従軍の弱点についてのお話をします。
余談ですが、戦後の日本は大国であるアメリカと同盟を結び、アメリカの軍事力を背景に国を存続させていますので、一貫して連衡を選択していると言えるでしょう。
合従とは何か?
合従軍を知る前に、そもそも合従とは何かを知る必要があります。
合従とは、大国である秦に対して、残りの6国(斉・燕・楚・韓・魏・趙)などが同盟を結び秦を攻撃する策です。
厳密に言えば戦国七雄の6国以外にも周、中山、宋、魯などの諸侯が加わる事もあります。
つまり、合従とは大国(秦)に対して、諸国が同盟を結び対抗する策の事を言います。
漫画キングダムだと、楽毅率いる連合軍が斉を壊滅させた戦いも合従軍の扱いになっています。
しかし、基本的には、秦に対して他の諸国が同盟を結んで対抗する事を指します。
尚、戦国時代に蘇秦だけは、斉・燕・楚・韓・魏・趙の6国同盟を達成しました。
合従の元祖は蘇秦であるとも言えるでしょう。
蘇秦は合従軍を率いて、秦の函谷関を攻めたが敗れたとも言われていますが、10年間に渡って秦が函谷関から外に出れなかったと言う逸話も史記の蘇秦列伝にあります。
尚、斉の孟嘗君が合従の長となった斉・魏・韓の3国の合従軍でも秦の昭王を苦しめています
ただし、弱点もいくつか露呈しているわけです。
尚、合従の由来ですが、西に位置する秦に対して東にある国々が縦に同盟を結んだ事が名前の由来です。
逆に、連衡は横に繋がる意味があり西の秦に対して、横の同盟を結んだ事に由来します。
因みに合従連衡を説く遊説家の事を縦横家とも言います。
尚、蘇秦のライバルである張儀は連衡を勧める事で諸侯の間で名を馳せています。
合従軍は連携が取りにくい
合従軍の場合は、小国間の連携が取りにくいなどの問題が発生する事があります。
連合軍だけに、それぞれの国が思惑を持って行動しているわけです。
自国は戦わずにおいて、他国に戦ってもらった方が得る物が大きいと考えたりするからです。
そこに綻びが生じて合従軍は失敗する事も多いわけです。
韓と魏が2国間の合従軍を結成した伊闕の戦いなどは、その典型です。
韓は魏に戦って欲しいと思っていましたし、魏は韓の精鋭をあてにして戦いをしようとしませんでした。
韓と魏の思惑がずれていて、隙があった為に白起に付け込まれて大敗を喫しています。
合従軍では、何度か秦を攻めていますが、成功率はさほど高くはないのは、小国間の連携に問題があるからです。
周王朝は合従で滅んだ
戦国時代の秦の昭王末期の時代になると周王朝は洛陽の付近に少し領土があるだけになっていました。
その小さい領土も東周と西周の二つに分かれていた状態です。
東周・西周という呼び方は、周の幽王が申公や犬戎などによって滅んだ西周王朝(紀元前771年滅亡)と間違われる事もありややこしい所です。
周王である赧王は西周にいました。
西周の赧王は、伊闕から出撃して、韓を助けて秦を攻撃しました。
小国同士が手を結んだ合従軍を結成したわけです。
しかし、秦の昭王は将軍摎に命じて西周を攻めると対抗する事が出来ずに降伏しています。
そして、西周の領土は秦に奪われました。
まだ、東周も残っていましたが、東周も昭文君が楚を中心とした6国同盟を結成して秦に攻撃をしようと企みます。
結果、東周も秦に土地と人民を奪われて滅亡しました。
周は合従策を取り合従軍を結成して秦を攻めましたが、上手く行かずに滅んだわけです。
小国が大国に対して戦争を起こす事のリスクが分かります。
合従軍の弱点
合従軍の弱点ですが、連合軍を結成して秦を攻めても勝てるとは限らない事です。
合従軍は勝つ事が出来ないと利益を得る事が出来ません。
つまり、下手に失敗すると周みたいに国が滅んだリ、土地を割譲する事になったり、城や領土を取られてしまう事でしょう。
韓非子は合従連衡論者を非難しています。
外交にばかり熱心に考えて、内政を疎かにする事が理由です。
合従軍は信陵君が秦を攻めて黄河の外で、蒙驁を破り函谷関まで押し戻したり、孟嘗君が函谷関を抜くなどもしていますが、失敗例も多いです。
最初にお話しましたが、国同士の連携が難しいのが最大の失敗理由だと言えます。
総大将をどの国にするかや、総大将の言う事を他国が聞くか?など様々な問題があります。
しかし、上手く使えば秦に対して牽制する事にもなりますし、有効な手段ではあるでしょう。
合従がビジネスになっていた?
連衡にも言える事ですが、合従策もビジネス的な側面があります。
六国の合従を成功させた蘇秦ですが、全盛期には六カ国の宰相になっています。
勿論、莫大な富を得たわけです。
蘇秦は洛陽に生まれ貴族でも王族でもなかった訳です。
燕の文公に認められ他国を遊説し、合従の同盟を結ばせた事で一時は中華で最も権力がある人物になりました。
合従を唱えて成功すれば、莫大な富を得る事が出来ます。
合従連衡だけではありませんが、これが諸子百家が、活躍した時代背景になるでしょう。
しかも、失敗しても刑を受けなかったケースもかなりあり、冨貴を得るために熱弁した人も多かったようです。
韓非子は、この現状を書物で批判しています。
韓非子は合従連衡を主軸にするのではなく、法律を定めて農業を強くし富国強兵の道を説いています。