
魏の恵王は春秋戦国時代の魏の君主であり、一時は夏王を称した話もあります。
一般的には魏の文侯と武侯が隆盛を極めた魏が恵王の代で凋落した事になっています。
魏の恵王に対しては孟子との「五十歩百歩」の話や商鞅を秦に走らせたなどもあり、凡庸な人物だと思う人も多いのではないでしょうか。
しかし、当時の魏は晋公や周王の権威を利用する事が出来ない状態になっており、延々と続く趙や韓との争いで疲弊したと言えるでしょう。
魏の恵王の時代には軍事において、秦には敵わない状態となっており、非常に苦しい立場にありました。
こうした中で、何とかしようと知恵を絞り動いたのが魏の恵王だった様に感じています。
尚、徐州の会で魏の恵王と斉の威王は互いに王と呼び合っており、他国も承認した王として君臨する事になります。
魏が王を名乗ったのは紀元前334年以降ですが、ここでは便宜上として全て魏の恵王の名で解説しました。
後継者争い
魏の恵王と公子仲緩
魏の武侯が紀元前370年に亡くなると、魏の恵王と公子仲緩が後継者争いを繰り広げました。
公子仲緩は鄴に籠り抵抗したわけです。
趙と韓が公子仲緩に味方した事で、魏の内戦は長引く事になります。
魏の恵王は趙と公子仲緩を平陽で破りますが、最終的に濁沢で包囲されました。
権威の消失
魏の内紛が勃発している隙に、趙の成候と韓の共候は晋の孝公を屯留に遷してしまいました。
趙や韓が晋の孝公を屯留に遷した理由は、魏の恵王に晋の公室の権威を利用させない為でしょう。
さらに、趙と韓は周を攻撃し、周を二分してしまいました。
これにより魏は周王朝の権威を利用する事も出来なくなり、魏の覇者体制に暗雲が立ち込めたわけです。
魏の恵王が後継者争いを制す
趙の成候は魏の恵王を殺害し公子仲緩を立てようとしていましたが、韓の共候は魏の恵王と公子仲緩で魏を二分しようと考えていました。
趙の成侯は斉との戦いを優先させ、韓と趙の思惑が合致しなかった事で、趙韓は撤兵し、魏の恵王は難を逃れています。
魏の後継者争いは、魏の恵王の勝利に終わりました。
韓とも和睦する事になります。
魏韓対立
魏の武侯が亡くなると、秦の献公は東進を開始し、魏と交戦状態となります。
魏の恵王は紀元前366年に魏は韓と共に秦軍と戦いますが、洛陰で敗れました。
韓と共闘した魏ですが、紀元前365年に魏の恵王は宋の儀台に侵攻しています。
韓は宋の地を狙っており、魏と競合した結果として魏と韓の仲は悪化しました。
秦の攻勢に苦しめられる
紀元前364年には秦が魏を石門の戦いで破り、6万人を斬首しています。
石門の戦いでの敗戦は魏の恵王にしてみれば手痛い事だったでしょう。
ただし、秦の東進を危ぶんだ趙が魏に援軍を送っており、魏と趙の仲は一時的に改善しました。
韓は外交的な孤立を恐れ周王朝を動かし、秦を祝賀し秦に接近する事になります。
魏の恵王は石門の戦いで秦に敗れたわけですが、秦は手を休める事なく少梁に侵攻し、紀元前362年には魏将が公孫座が捕虜になりました。
講和
魏の恵王は秦に負け続けて苦しい立場に見えますが、同年に澮で趙と韓を破る戦果を挙げています。
それでも、この頃には既に趙との仲は悪化していたと言えるでしょう。
魏の恵王は趙の邯鄲に近い肥や列人を陥落させ、皮牢も抜きました。
この時期に趙と韓は秦と戦っていますが、敗れ去り結果として、魏、趙、韓は講和の流れとなります。
魏の恵王は韓の昭侯と巫沙で会見を行い趙には楡次、陽邑を割譲しました。
周王朝が秦の孝公に胙を送り覇者として認めていますが、これは魏の恵王ら三晋で周王朝を動かし秦を懐柔したのでしょう。
秦も独力で三晋と戦うだけの国力はなく和議に応じました。
首都を大梁に移す
紀元前361年に魏の恵王は首都を大梁に遷しています。
これまでに本拠地としていた魏の安邑は晋の本拠地である新絳に近いなどのメリットはありましたが、晋の公室は既に屯留に移されており、安邑を本拠地にするメリットは少なかったのでしょう。
史記ではの商君列伝では商鞅に公子卬が敗れた事で、魏の恵王は恐怖し大梁に都を遷した記述がありますが、近年の研究では、魏の恵王は早い段階で大梁に本拠地を移したと考えられています。
魏の恵王は中原の大都市経営に乗り出した事になるでしょう。
斉は中原進出を目指しており、魏の恵王は阻止した事になるでしょう。
魏の恵王は大梁の周辺を積極的に開発しますが、韓の首都の新鄭は大梁に近く脅威を与えました。
韓は上党に進出し、魏の旧都である安邑に脅威を与えています。
こうした理由もあり、魏と韓は対立しました。
覇者体制の復活??
韓は秦と楚を敵に回してしまい結局は、魏と講和する事になります。
韓は切羽詰まった状態で、魏と講和しており、魏の恵王はかなり有利な条件で講和を成立させました。
魏の恵王は宋に黄池を取らせ、宋も服属させる事に成功しています。
魏の恵王は紀元前356年には魯、衛、宋の中原の諸侯を来朝させています。
これにより魏の恵王は覇者体制を復活させるかに思われました。
宋の服属は魏の文侯や武侯であっても出来なかった事であり、魏の恵王の勢いは盛んだったわけです。
魏の恵王の活発な動き
趙の成侯は紀元前357年に斉の威王に朝し斉に接近しています。
趙の成侯は魏の恵王に対抗するために、斉との誼を望んだのでしょう。
魏の恵王は趙との懐柔を図り、斉の威王とも臨淄の郊外で会しました。
秦の孝公とも杜平で会見を行い趙、秦、斉との融和を図り中原の維持を図ったわけです。
魏の恵王は秦の攻撃を受けていた韓には、将軍の龍カを派遣し首都の大梁の西には長城を築きました。
紀元前355年には陽池を築いて、秦に備えています。
覇者体制の構築ならず
魏の恵王は精力的に動きましたが、魏と衛は黄池を巡って対立する事になります。
宋は魏に服属していましたが、黄池を巡っての対立により斉に服属しました。
この頃に衛も斉に服属し、魏を離れています。
紀元前354年には、秦が再び動き出し魏の元里の戦いで敗れ、魏軍は7千人を斬首されています。
魏は重要拠点である少梁も陥落しており、魏の恵王にとっては危機を感じるものだった事でしょう。
魏の恵王にとっては、覇者体制の構築に大きく遠のいたと言えます。
桂陵の戦い
斉は燕に敗れますが、これを好機と見たのか魏の恵王は趙への侵攻を決断しました。
紀元前353年に魏は邯鄲を抜いています。
史記によれば、この時の魏の将軍は龐涓という事になっています。
魏では邯鄲を攻略しただけでは飽き足らず、定陽も包囲しました。
魏の恵王は大戦果を挙げたかに思えました。
しかし、趙は斉へ援軍を依頼し、斉は宋や衛と共に魏に侵攻しています。
この時に斉の将軍が田忌であり、軍師として孫臏がついていました。
斉軍は襄陵を攻撃し、魏軍が後詰としてやってきますが、桂陵の戦いで敗れました。
この時の魏軍は連戦により、疲労困憊だったと考えられています。
桂陵の戦いは囲魏救趙の策を、使った戦いだったともされています。
桂陵の戦いでは趙も楚に救援を依頼しており、楚の宣王は景舎を派遣しました。
楚の昭奚恤も大梁を却掠しており、桂陵の戦いは魏の恵王にとって散々たるものだった事でしょう。
ただし、この時期に韓は秦に苦しめられており、竹書紀年によると韓の昭侯は魏の恵王に朝見しました。
韓の援軍を得る事に成功した、魏の恵王は襄陵にいた斉軍を破っています。
斉の威王は楚の景舎の斡旋もあり、魏の恵王と講和しました。
魏の恵王は桂陵の戦いで敗れながらも、斉を撤退に追い込んだわけです。
魏の恵王と商鞅の戦い
紀元前352年に、秦の商鞅が魏の旧都である安邑を一時的に占拠しました。
魏の恵王は長城を築き、固陽を要塞化し防備を固めています。
しかし、商鞅は固陽を攻略しました。
魏の恵王は苦しくなりますが、ここで趙に邯鄲を返還し外交で窮地を乗り越え様としました。
趙との講和が成立した事で、秦は魏を倒すことは困難と考え撤退しています。
魏の恵王は邯鄲は手放しましたが、外交で危機を乗り越えたと言えそうです。
魏の恵王は秦とも講和しました。
魏の恵王が夏王と称す
外交の成功により、魏の恵王に余裕が生まれ中原の再編に動き出す事になります。
しかし、紀元前349年に晋の静公は廃されており、晋の権威を利用する事は出来ませんでした。
周王朝の権威も利用する事ができず、結果として覇者思考を捨て王朝の樹立を目指す事になります。
魏の恵王が「夏王」を称したとする話もあります。
しかし、大国の支持を得られず、挫折しました。
紀元前342年には馬陵の戦いで斉に敗れており、魏が戦国七雄最強の時代は完全に終焉しています。
尚、史記では馬陵の戦いが孫臏と龐涓の最終決戦となっています。
商鞅の死
紀元前338年に秦の孝公が亡くなりました。
後継者の秦の恵文王により、商鞅が誅殺されています。
これにより秦による魏の侵攻は収まり、魏の恵王は一安心した事でしょう。
尚、史記の商君列伝に商鞅が魏に逃亡しようとするも、魏は受け入れなかった話があり、これが真実であれば魏の恵王は商鞅を入国拒否したのでしょう。
周王朝は秦の恵文王を引き続き覇者として認めました。
魏の恵王と斉の威王の誕生
魏の恵王は馬陵の戦いで敗れて衛、魯、宋などの中原の国々を制圧する覇者への道を断念せざるを得なくなりました。
しかし、中原に拘らなくなった事で、外交に柔軟性が出る事になります。
紀元前334年に魏の恵王は斉の威王と徐州で会見を行いました。
これが徐州の会です。
徐州の会では魏の恵王と斉の威王は共に互いに”王”と呼びました。
魏の恵王が勝手に王を称したわけではなく、斉は魏の王号を認め、斉もまた魏により王号を認められたと言えるでしょう。
相互承認により魏の恵王と斉の威王が誕生したという事です。
史記では、この年を魏の恵王の改元元年としています。
周王朝は秦を覇者として認めており、魏と斉が王号を称すのは、秦及び周に対する挑戦でもありました。
魏と斉が王号を称し周王朝が覇者として認めた秦を中心とする楚、趙、韓の戦いとなったわけです。
ただし、魏も秦の軍事力を警戒しており、魏の恵王は秦に夫人を送るなどしています。
魏の恵王の迷走
楚が斉の徐州を攻撃し、趙が魏の黄城を包囲する事で戦いが始まりました。
魏の恵王と斉の威王は共に趙と楚を撃退する事に成功しています。
しかし、紀元前331年に秦は公孫衍に彫陰に侵攻させ、龍賈を破り8万人を斬首しました。
魏の恵王はまたもや秦により大敗北を喫してしまったと言えるでしょう。
魏の恵王は河西を秦に割譲するも、秦の攻勢は止まらず曲沃や焦を陥落させました。
魏は秦に葉が立たず、楚も魏に侵攻してくる事になります。
魏の恵王は上郡の割譲を条件に秦に支援を求め、秦の張儀が賛成した事から、大規模な援軍が秦から派遣されています。
公孫衍が楚の威王の軍を破りました。
魏の恵王は秦の恵文王と応で会見し、皮氏などを割譲しますが、魏の恵王は約束していた上郡の地の割譲を渋る事になります。
怒った秦は魏に侵攻し蒲陽を陥落させますが、ここに来て漸く魏の恵王は上郡の15県を秦に割譲し講和しました。
秦は曲沃や焦を魏に返還しています。
魏の恵王は紀元前328年までの秦との戦いの結果として、黄河より西の魏の領土を全て失ったと言えるでしょう。
それと同時に秦は中原の地を伺う体制が出来上がりました。
この時期の魏の恵王は采配を欠き迷走していた様にも見えます。
ただし、紀元前326年に趙と韓が魏の襄陵を攻撃しますが、こちらは撃退しています。
魏と韓が講和
秦による覇者体制は魏の覇権を嫌がるものでしたが、秦が強大になって中原に進出されても困る事だったわけです。
ここにおいて韓は単独で魏と講和しました。
魏の恵王は韓の宣恵王の王号を認め、韓は魏に朝しています。
この時に趙は秦とも開戦しており外交的に孤立し、魏の恵王は趙に攻撃を仕掛けました。
魏は紀元前325年に趙護を撃破し、さらに斉と共に平邑で趙の軍を破る事になります。
尚、趙との戦いでは魏の恵王や斉の威王は消極的だったと考えられていますが、魏にいた犀首が田盼と協力し実行したと考えられています。
韓に遅れて秦の恵文王も王号を称しました。
秦はこの時点で周王を奉るのを止めたと言えるでしょう。
魏の恵王が斉に接近
同年に魏の恵王は韓の宣恵王と共に斉に朝し、平阿で斉の威王と会見を行いました。
魏の恵王と韓の宣恵王は斉に臣従したのであり、斉は周に朝見をしています。
宋も王を名乗っており、既に中国に何人も王が誕生しており、王号の価値は低下してしまったわけですが、天子としての周王の価値に着目し、斉の威王は周に朝見し覇者として認められ様としたのでしょう。
しかし、このタイミングで楚は魏の公子高を擁立し魏に侵攻し、襄陵で魏を大破しました。
魏の恵王は八邑を失っています。
これにより、韓の宣恵王は魏を攻撃した事で、斉を盟主とする斉、韓、魏の体制は破綻しました。
しかし、魏の恵王は引き続き斉との友好を望んでおり、紀元前322年に斉の威王と会見を行っています。
秦の怒りを買う
魏の恵王は斉に接近しながらも、秦との誼を結ぼうとしたのか、太子を秦に人質として、秦の張儀を大臣として迎え入れました。
既に魏には犀首、恵施がおり、魏は内部で混乱を見せました。
張儀は魏で威勢を見せる事が出来ず、秦は苛立ち魏を攻撃し曲沃と平周を陥落させています。
魏は秦に苦しめられ斉への依存を強めました。
紀元前321年には斉の宰相である田嬰が魏に来朝しています。
三晋と秦が敵対
魏の恵文王と趙の武霊王は会見を行っています。
紀元前321年に魏の恵王は、趙の武霊王に公女を納れ友好を深めました。
紀元前319年に秦が韓を攻撃し安陵を攻略しました。
これにより韓も秦と敵対し、趙、魏、韓は秦と対峙する事になります。
三晋対秦という構図が出来上がりました。
犀首の立ち回りもあり燕の易王や中山王サクも王号を称する様になり、五国相王が行われる流れとなります。
魏の恵王の最後
紀元前320年に斉の威王が亡くなりました。
この翌年である紀元前319年に魏の恵王が亡くなっています。
魏の恵王の後継者は魏の襄王となりました。
史記によると、同年に張儀が秦に復帰したとあります。
魏の恵王の最後に関する詳細は不明です。
| 先代:武侯 | 魏の恵王 | 次代:襄王 |