伍瓊は正史三国志や後漢書に名前がある人物で、三国志演義にも登場します。
伍瓊の字は徳瑜であり、豫州汝南郡の出身です。
史書を見ると伍孚なる人物がいますが、伍孚もまた字が徳瑜であり豫州汝南郡の人です。
こうした事もあり、古くから伍孚と伍瓊は同一人物ではないか?とも考えられてきました。
三国志演義では伍孚と伍瓊の両方が登場し、羅貫中は別人説を採用しています。
ただし、伍孚と伍瓊の両方が反董卓の志を持っており、その点は共通している状態です。
尚、伍瓊の最後は書物によってズレが生じており、どの様な最後を迎えたのかは謎な部分が多いと言えます。
董卓に重用される
霊帝の死後に何進が宦官に殺害され、袁紹や袁術、盧植などが宦官を皆殺しとしました。
しかし、実権を握ったのは少帝や陳留王を保護した董卓だったわけです。
董卓は天下の人は党錮の禁の事もあり、濁流派と呼ばれた宦官を憎んでいると考え、清流派の名士を登用しようと考えました。
董卓の思惑もあり伍瓊、鄭泰、何顒らが、任用される事となります。
正史三国志の董卓伝によると、伍瓊と周毖が韓馥、劉岱、孔伷、張咨、張邈らを推挙し、関東の太守や刺史となり統治させる事となります。
周毖と共に人事担当となった伍瓊は、名士層の人間を推薦した事になるでしょう。
さらに、董卓と袁紹が争い袁紹が出奔すると、董卓は激怒しますが、伍瓊は鄭泰や何顒らと共に袁紹を渤海太守に任命する様に進言しています。
董卓は不本意ながらも汝南袁氏の威光を考慮し、袁紹を渤海太守としました。
董卓は伍瓊らを信任していた様ですが、伍瓊や周毖が推薦した張邈や韓馥らは任地に着くと曹操、袁紹、臧洪らと共に反旗を翻す事となります。
関東の地で反董卓連合が結成されるわけですが、伍瓊や周毖は密かに反董卓連合に内応したとあります。
伍瓊の最後
後漢書の記述
後漢書董卓伝だと退位し弘農王となっていた少帝を毒殺し、董卓は長安遷都を考える様になります。
この事に、太尉の黄琬と司徒の楊彪らが反対するなど議会な紛糾し、伍瓊らも董卓を諫めています。
ここで、董卓は伍瓊や周毖が推挙した者が裏切った事を指摘し、二人に責任を追及し斬首しました。
ここにおいて伍瓊は周毖と共に、最後を迎えています。
後漢書の董卓伝の内容だと、正史三国志の董卓伝の内容に近いとも言えるでしょう。
尚、後漢書董卓伝だと董卓は、伍瓊や周毖を殺害してしまった事を後悔しており、楊彪と黄琬を光禄大夫とする様に上表し、後に董卓は長安遷都を行動に移しました。
ただし、正史三国志の荀攸伝の記述だと伍瓊は長安遷都後に、荀攸らと共に董卓の暗殺を図っており、辻褄が合わなくなります。
正史三国志の董卓伝の記述
伍瓊ですが、正史三国志の董卓伝によると、董卓は反董卓連合が結成したのは、伍瓊や周毖が自分を売ったからだと考えた話が掲載されています。
実際に、伍瓊らが推挙した者達は、関東の地で董卓に背いており、董卓が疑うのも当然と言えるでしょう。
推挙した者が失敗した場合は、法律により推挙した者が処刑される事も多いです。
董卓は伍瓊と周毖を処刑しました。
この時に、許靖も人事を担当してたことから逃亡した話もあります。
董卓伝の記述だと、董卓が伍瓊らに責任を取らせて処刑したと見る事も出来るはずです。
伍瓊と伍孚が同一人物にされる事もありますが、謝承の後漢書では伍孚は董卓を刺殺しようとして失敗し、処刑されたのであり、董卓伝の記述と異なります。
董卓伝では董卓の恨みを買い処刑された事になっています。
荀攸伝の記述
荀攸伝の記述ですと、長安遷都後に荀攸、伍瓊、鄭泰、何顒、种輯らと、謀議を行い董卓の暗殺を計画した話があります。
しかし、計画を移す直前に事が露見しました。
これにより荀攸は逮捕され、何顒は自刃し鄭泰は武関から逃亡した話があります。
种輯は後に董承、劉備らと共に曹操暗殺計画に加わっており、ここで死ななかったのは間違いなさそうです。
伍瓊だけが記録がなく、荀攸の董卓暗殺計画の後に、どの様になったかは定かではありません。
しかし、伍瓊と伍孚が同一人物であるならば、荀攸や鄭泰らが策を考え董卓を暗殺出来るシチュエーションを作り、実行したのが伍瓊(伍孚)だった可能性もある様に思いました。
伍瓊の董卓暗殺が失敗した事で、荀攸は捕らえられ鄭泰が逃亡すると言った流れです。
ただし、この辺りは記録がなくよく分からない部分でもあります。
それでも、後に伍瓊が史書に登場しない事を考えると、董卓よりも先に亡くなった可能性は高いと言うべきでしょう。