その他 三国志

韓晞(かんき)は長矛部隊を指揮するも大敗北を喫す

2022年3月26日

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宮下悠史

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名前韓晞(かんき)
生没年生年不明-199年
時代後漢末期、三国志
勢力劉表
年表199年 沙羨の戦いで戦死

韓晞は劉表配下の武将であり、正史三国志・孫破虜討逆伝の注釈『江表伝』や『呉録』に名前が挙がる人物です。

南陽の韓晞という言葉があり、南陽郡出身の人物だったのかも知れません。

尚、劉表配下の文聘も南陽出身であり、韓晞と文聘は同郷だった可能性もあります。

韓晞は沙羨の戦いで黄祖孫策が戦った時に、黄祖の援軍として劉表が派遣した将軍です。

韓晞は長矛部隊を指揮し、劉虎と共に先陣を務めますが、孫策との戦いに敗れました。

沙羨の戦いでは孫策の采配が光り、黄祖軍は大敗北を喫し、韓晞も命を落としています。

韓晞に関しては不明な点が多いのですが、孫策との戦いで命を落とした事だけは間違いなさそうです。

今回は劉表配下の武将で黄祖の援軍に派遣された韓晞を解説します。

韓晞の出陣

劉勲は皖城を本拠地とし、袁術死後の旧袁術勢力を吸収しました。

劉勲は兵力の数が膨大となりましたが、食料が足らず悩みの種となります。

この時に孫策が計略を用いて、劉勲の勢力を吸収しようとしました。

皖城は孫策や周瑜に攻撃され、劉勲は危機に陥りますが、劉表配下の黄祖が息子の黄射を派遣し救援軍を差し向けています。

しかし、黄射の援軍は間に合わず、劉勲は敗れ去り曹操を頼り北方に移動しました。

孫策は配下の周瑜、呂範、程普孫権韓当黄蓋らを指揮し、黄祖の支配領域まで攻撃してきたわけです。

黄祖は孫策の父親である孫堅の仇でもあり、孫策としては何としても討ち取っておきたい相手だったのでしょう。

黄祖の主君にあたる荊州牧の劉表は、黄祖への援軍として劉虎と韓晞を将軍とし、五千の兵を以って援軍としました。

この時に劉虎と韓晞は、長矛を主体とする部隊を指揮し、黄祖軍の先鋒となります。

大敗北を喫する

韓晞は劉虎と共に、沙羨の戦いでは、先陣となり長矛部隊を指揮しますが、江表伝によれば、次の記述があります。

「孫策はこれと戦い、多いに敵を打ち破った」

この記述から孫策が韓晞や劉虎の部隊を打ち破り、大損害を与えた事がわかります。

呉録には、この戦いの孫策の上表文が掲載されており、上表文には、次の一文が見られます。

「黄祖の妻や息子達男女七人を捕虜にし、劉虎や韓晞など2万人を斬首しました」

上記の記述から、韓晞がこの戦いで戦死した事が分かります。

さらに言えば、この戦いで2万人が孫策軍と戦い亡くなり、黄祖の家族も捕らえられている事が分かるはずです。

それを考えると、この時の黄祖軍は歴史的な大敗北を喫してしまった様にも感じました。

韓晞は劉虎と共に、黄祖軍の先鋒を務めたわけですが、呆気なく敗れて敗走し、黄祖軍の敗北に繋がった可能性もある様に感じています。

しかし、沙羨の戦いで黄祖本人は逃げ延びる事に成功しており、見方によっては黄祖を撤退させる為に奮戦したともとる事が出来るはずです。

孫策は三国志の中でも屈指の身体能力と軍隊指揮能力を持っており、韓晞の事を考えれば相手が悪すぎるとしか言いようがないでしょう。

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