
| 名前 | 韓の宣恵王 |
| 姓・諱 | 韓康 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前312年 |
| 在位 | 紀元前333年ー紀元前312年 |
| 時代 | 戦国時代 |
| 一族 | 子:昭侯 子:襄王 |
| コメント | 韓で初めて王を称した。 |
韓の宣恵王は春秋戦国時代の韓の君主です。
韓の宣恵王の時代に、韓は初めて王号を称しました。
治世の前半は秦との関係は良好でしたが、後半は公仲の進言を無視し、陳軫の策に引っ掛かるなどもありました。
韓の宣恵王は王号を称す事は出来ましたが、失政もあったと言えそうです。
尚、史記の蘇秦列伝では、蘇秦が韓に遊説に来た時に韓の宣恵王に「鶏口となるも牛後となるなかれ」と説いた話がありますが、近年の研究では創作の可能性がたかいと見られています。
魏を破り衛を降伏させる
韓の宣恵王は韓の昭侯の後継者として即位しますが、当時は斉・魏同盟と秦を盟主とする韓、趙、楚、古蜀で争っていた時代でした。
斉・魏同盟には小国の衛も加わっており、趙に向かって進撃したわけです。
斉や魏も、それぞれ戦いを行いますが、大した戦果を挙げる事も無く撤退しました。
これにより衛は窮地に陥り、魏の恵王は再び衛に援軍を送り出す事になります。
竹書紀年には、衛を巡る戦いに、韓の宣恵王も参戦した事が記録されています。
韓軍は魏軍と交戦しますが、圃田沢の北で勝利したとされています。
韓の宣恵王の衛への侵攻の決断により、衛は決定的な力を失い濮陽のみを領有し、趙と韓に降伏しました。
衛の嗣君は侯の身分でしたが、自ら「君」と名乗る事になります。
尚、紀元前329年までには秦を盟主とする韓、趙、楚の同盟も解体されていました。
韓の宣恵王が王号を称す
紀元前326年に韓は趙と共に、魏に侵攻し襄陵に攻撃を加えますが、抜く事は出来ませんでした。
既に秦と趙は争っており、韓の宣恵王は魏に歩み寄る事になります。
韓の宣恵王と魏の恵王は巫沙で会見を行いました。
ここで魏の恵王は韓の宣恵王に王号を称す事を認めています。
これが韓が王として認められた最初の事です。
ただし、竹書紀年に韓の宣恵王は魏に朝した事が記録されており、魏の恵王よりも格下だと言ってもよいでしょう。
紀元前324年に秦の恵文王も王号を称し、東周王朝の傘下から抜けました。
この時点で韓の宣恵王と秦の恵文王は敵対しておらず、秦は韓や燕の王号を認めています。
斉を盟主とする同盟と破綻
竹書紀年によると、紀元前324年に魏の恵王は韓の宣恵王と共に、斉に朝しました。
平阿で斉の威王と会見を行い、斉の威王を盟主とする同盟が締結されました。
魏や韓は秦や楚に対抗する為に、斉を盟主とする同盟に参加したと言えるでしょう。
斉の威王は紀元前323年に、東周王朝に朝しており、魏の恵王や韓の宣恵王も東周王朝の傘下に入りました。
東周王朝から斉の威王は覇者として認めたと思われますが、魏が楚に攻められ宋や魯などの小国も、楚に靡く事になります。
魏の危機を好機と考えたのか、韓の宣恵王は魏に攻撃を仕掛けており、斉を中心とする同盟は速やかに破綻しました。
韓の宣恵王が趙に接近
紀元前322年に秦の張儀が魏の宰相になると、韓の宣恵王は魏の恵王と共に太子を秦への人質としています。
秦はこの時点で多くの国と講和しており、明確な敵は趙だけとなっていました。
韓の宣恵王としては、秦に人質を入れたわけであり、友誼を期待したわけですが、戦国策によると張儀は秦と魏による韓への侵攻を企てたとあります。
しかし、張儀の思うようにならなかった為か、秦は魏を攻撃しており、韓の宣恵王の不信感が募ったのか、趙に接近する事になります。
韓の宣恵王は趙の武霊王と紀元前322年に区鼠で会見を行い、翌年の紀元前321年には趙の武霊王に公女を入れ趙との連携を強化しました。
尚、紀元前320年に斉の威王が亡くなり、斉の宣王が即位しており、魏でも紀元前319年に魏の恵王が亡くなり、魏の襄王が即位し、時代は新たなる局面に入る事になります。
秦に大敗
三晋の弱体化
史記の韓世家によると、韓の宣恵王の14年(紀元前319年)に秦が韓を鄢(安陵)で破ったとあります。
韓の宣恵王は韓の当主となってから、秦との友好を続けて来ましたが、ここに来て戦いとなってしまったわけです。
ただし、この時の秦は韓・魏・趙の三晋全てと敵対関係となっています。
これを好機と見たのが魏の公孫衍であり、紀元前318年に燕や中山も入れて五国相王が成立しました。
斉の宣王は秦と婚姻関係を結び関係を強化しています。
しかし、公孫衍の五国相王は上手く纏めきる事が出来なかったわけです。
韓世家の韓の宣恵王の16年(紀元前317年)に、秦が韓を脩魚で破り韓将の䱸や申差を観沢で捕虜となったとあります。
この戦いでは秦の樗里疾は、韓の太子奐や趙の公子渇を撃破し、斬首8万2千の大戦果を挙げた話もあります。
この時点で既に三晋が束になっても、秦には敵わない状態になっていたとも言えるでしょう。
韓の宣恵王が即位する前から、韓、魏、趙は周辺国との講和が成るたびに、争い始めており消耗戦を繰り返した事が原因でもあります。
岸門の戦い
韓は秦に敗れましたが、韓の公仲は秦に土地を献上し、秦と共に楚を討つ策を提示し韓の宣恵王は許しました。
秦と韓が楚を攻める話を聞いた楚の懐王は恐れますが、陳軫は韓に莫大な贈り物をして誼を結び、韓を救う振りをする様に進言しました。
楚の懐王は陳軫の策を採用しました。
韓の宣恵王は楚の懐王の行動を喜び公仲を秦に派遣するのを取りやめますが、公仲は危ぶみ「楚の虚名を頼みにしてはならない」と告げますが、韓の宣恵王は聞き入れなかったわけです。
韓の宣恵王は楚の援軍を期待して、秦との関係を断ちますが、これに激怒したのが秦の恵文王であり、兵力を増やし韓を討ちますが、楚は韓を助けませんでした。
紀元前314年の岸門の戦いで韓は秦に大敗北を喫し、韓の宣恵王は太子倉を秦への人質として講和しました。
秦韓で楚を破る
楚の懐王は張儀に欺かれたと悟り、秦を攻撃しました。
史記の韓世家には、韓の宣恵王の21年(紀元前312年)に、秦と共に楚を攻撃し、楚の屈匄を破り斬首8万に達したとあります。
楚との戦いには韓軍も参戦していたのでしょう。
それと同時に岸門の戦いで楚に裏切られた復讐を果たしたと言えるのかも知れません。
韓の宣恵王の最後
史記の韓世家によると、秦と共に楚を破った韓の宣恵王の21年に韓の宣恵王が亡くなった記述があります。
韓の宣恵王は紀元前312年に世を去りました。
後継者は韓の襄王となりました。
韓の襄王の時代になっても、韓は引き続き秦に苦しめられる事になります。
| 時代:昭侯 | 宣恵王 | 次代:襄王 |