魏軍を率いた龐涓と斉の孫臏は、同じ師の元で学んだ話もあり因縁の相手でもあったわけです。
桂陵の戦いの結果で言えば、孫臏の鮮やかな兵法で魏軍を破りました。
桂陵の戦いでの孫臏の策が「囲魏救趙」とも呼ばれ、兵法三十六計の二番目の策として掲載されています。
尚、桂陵の戦いは魏と斉が戦ったわけであり、魏軍の軍制を整えたのは呉起だとされており、孫子と呉子の戦いだと指摘される場合もあります。
ただし、戦いの方は魏軍の疲労が強く呆気なく、斉軍の勝利が決まったと言えるでしょう。
因みに、桂陵の戦いは異説があり、竹書紀年に別の話が存在し、そちらは最後に解説します。
竹書紀年の話では桂陵の戦いでは魏軍と趙軍が戦っており、魏軍と斉軍は戦っていません。
魏と斉が戦ったのは桂陵の戦いではなく、桂陽の戦いとなっています。
趙の救援要請
史記によれば紀元前354年に魏は趙の首都・邯鄲に向かい軍を進めました。
この時の魏軍の帥将が龐涓です。
この時に、趙と斉はさほど友好が深くはなかったようですが、魏軍に攻められた趙の成侯は斉に援軍を要請しています。
斉は魏とは比較的友好な関係を築いていましたが、斉の威王の前で論争が行われました。
宰相の鄒忌は「趙を救うべきではない」とし、段干朋は「趙を救うべき」と逆の意見を述べています。
段干朋は魏が邯鄲を落としても、魏が強大になるだけで斉に利益はないと考え、趙の援軍として兵を出すだけで、魏は兵を引くから斉の利益になると述べています。
斉の威王は段干朋の意見を採用し、趙へ援軍を派遣する事にしました。
戦国策によれば楚の宣王の思惑も入り乱れ、楚は趙への援軍として景舍を派遣しています。
田忌と孫臏
史記によれば斉の威王は孫臏を総大将にしようとしますが、孫臏は「私は刑罰を受けた者であり将軍にはなれません」と答えました。
孫臏は過去に魏で龐涓により足斬りの刑に処され額には入れ墨を入れられた事で、将軍を辞退したわけです。
孫臏が辞退した事で、田忌が将軍となりました。
田忌が桂陵の戦いで将軍になった経緯に関しては、戦国策に別の話があり鄒忌の部下である公孫閈の進言により、田忌が将軍に任命された話もあります。
異説はありますが、史記の記述で考えれば、桂陵の戦いでは総大将に田忌が任命され、孫臏が軍師として参謀にいたという事なのでしょう。
因みに、斉軍は孫臏の軍事編成により弩が多かったとも言われています。
囲魏救趙
趙を救う為に出発した斉軍ですが、途中まで行くと孫臏が次の様に述べました。
孫臏「もつれた糸を解くには強く引っ張ってはいけません。
闘いを中止させるには自分で攻撃しない事が大事です。
急所を打ち虚を突き形勢が逆転すれば、おのずともつれた糸は解けます」
孫臏は田忌に魏の精鋭は趙攻略に向かっており、魏の大梁には老兵などの弱兵しかいない事を指摘し、魏の大梁に兵を向ける様に進言しました。
田忌と孫臏は魏軍が大梁を救う為に、急いで戻って来ると考え桂陵で待ち構える事にしたわけです。
これが桂陵の戦いです。
尚、斉の威王は趙に向けて軍を進める様に命令したわけですが、孫臏が機転を利かせ作戦を変更したとも言えるでしょう。
この孫臏の作戦が兵法三十六計の二番目の計略となる「囲魏救趙」となります。
囲魏救趙は名前の通り、魏を包囲する事で趙を救う事になるという策です。
桂陵の戦い
斉軍は桂陵で待機しますが、魏軍は趙の邯鄲を落城させた話があり、邯鄲の城に猛攻撃を加えたのでしょう。
邯鄲は落城しますが、戦国策によると楚軍が睢水と濊水の間の地を占拠した話があります。
魏の龐涓は邯鄲は陥落させましたが、かなりの不穏な空気が流れて来たわけです。
魏軍は趙の成侯の降伏を見届けたのかは不明ですが、急いで大梁を救う為に兵を移動させました。
魏の恵王の前期までは戦国七雄の最強国は魏であり、魏兵は中華でも屈指の強さを誇っていた話があります。
しかし、魏は邯鄲攻防戦での疲労があり、さらに急いで軍を還した事で疲労困憊だったのでしょう。
桂陵で待ち構えていた斉の田忌と孫臏の前に敗れ去りました。
史記では魏軍は破れただけとなっていますが、孫臏兵法の記述によれば、斉軍が龐涓を捕虜にした記述があります。
これが真実であれば、魏軍は総大将が捕虜となる様な大敗北を喫した事になるでしょう。
しかし、史記や戦国策、竹書紀年には龐涓が捕らえられた記述はなく、どちらが正しいのかは不明です。
尚、魏は趙の首都邯鄲を落とす事に成功しましたが、趙との友好を回復させようと思ったのか、維持できないと考えたのか落城させた邯鄲は趙に返還しました。
桂陵の戦いは斉と楚に利益があったと考えるべきであり、この戦いから最強国であったはずの魏の転落が始まるわけです。
ただし、孫臏と龐涓の対決は終わっておらず、馬陵の戦いに続く事になります。
馬陵の戦いが孫臏と龐涓の最終決戦となります。
竹書紀年の記述
竹書紀年(今本)によれば、東周の顕王の15年に斉の田期(田忌)が魏がを攻撃し桂陽の戦いで勝利しました。
桂陽の戦いでは、魏軍が大敗した話があります。
ここで注意したいのが、田忌が魏軍を破ったのは「桂陵の戦い」ではなく、「桂陽の戦い」だと言う事です。
後述しますが、この後に桂陵の戦いで魏と趙の戦闘が発生している事から、桂陵の戦いと桂陽の戦いは別だと考える事が出来ます。
魏軍は桂陽の戦いで斉軍に敗れますが、ここで戦いは終結せず宋と衛の公孫倉が斉と連合し、魏の襄陵を包囲しました。
ここで、魏王(魏の恵王)が韓の兵を率いて、襄陵で斉、宋、衛の軍を破ったとあります。
これでもまだ戦いは終わらず、邯鄲の軍(趙軍)が魏軍を「桂陵」で破ったとあります。
竹書紀年の記述を考えると、桂陵の戦いでは魏軍と趙軍の戦いであり、魏軍と斉軍の戦いではない事が分かります。
史記と竹書紀年では話にズレが生じてしまっている状態です。
史記の孫子呉起列伝では話をシンプルにしてありますが、実際の戦いはもっと複雑だったのかも知れません。