斉(戦国) 春秋戦国時代

后勝は斉の最後の宰相

2023年7月18日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前后勝(こうしょう)
生没年不明
時代春秋戦国時代
主君斉王建
一族君王后
年表紀元前249年 の宰相となる
紀元前221年 斉の滅亡

后勝は史記や資治通鑑、戦国策などに名前が登場する人物です。

后勝は斉王建の母親である君王后の一族でであり、君王后が亡くなると宰相となりました。

当時はが圧倒的に強く戦国七雄の残りの国々に対し攻勢を仕掛けていましたが、は諸国を助けようとはしなかったわけです。

后勝は秦から賄賂を受け取り、斉の大臣達を斉に入れました。

大臣達もまた秦の賄賂を受け取り、斉は諸侯を助けず、秦の天下統一を加速させています。

今回は斉の最後の宰相である后勝を解説します。

斉の宰相となる

后勝は君王后の一族だという事は分かっていますが、それ以外の事は謎に包まれています。

君王后は太史敫の娘であり、太史敫が庶民だった可能性も存在する事から、后勝も庶民だった可能性もあるはずです。

楽毅率いる合従軍によりは大敗し、結果として斉の湣王は淖歯に殺害されました。

淖歯も王孫賈に殺害され、斉の襄王が即位し君王后が妃となり、后勝も出世の道が開けたのでしょう。

軍は田単が破り、これにより斉は領土を全て取り戻す事になります。

斉の襄王が亡くなると、斉王建が即位しますが、年が若かった事もあり、母親の君王后が国政を司りました。

君王后が紀元前249年に没すると、后勝が斉の宰相となります。

后勝が斉の宰相になった経緯を考えれば、后勝は外戚として権力を握ったと言えるでしょう。

賄賂を受け取る

后勝はから多額の賄賂を受け取り、の大臣の多くを秦に入れたとあります。

秦の方でも斉の大臣に賄賂を贈った事で、秦の為に働きました。

李斯尉繚子が秦王政に他国の豪臣を買収する様に進言しており、この時の買収策のターゲットになった一人が后勝だったのでしょう。

后勝は秦への従属政策であり、連衡を支持し、他の戦国七雄の国々が秦の侵攻にあっても助けようとはしませんでした。

秦に入った斉の大臣達も諸侯を助けない様にと述べ、これにより斉は秦からの侵略は受けませんでしたが、六国は窮地に陥り滅亡していく事となります。

後に蒙恬蒙毅趙高の讒言により殺害されそうになり、この時に子嬰胡亥を諫めています。

子嬰の諫言の中で、次の言葉があります。

子嬰「趙の幽穆王李牧を殺害し顔聚を用い、斉王建は先代の忠臣を殺害し后勝を用いた為に国が滅びました」

子嬰の言葉を見る限りでは、斉滅亡の一因が后勝にあり、后勝は秦の買収に応じている事からも、とても名臣だとは言えないでしょう。

斉の滅亡

最終的にを滅ぼし、最後にだけが残りました。

史記の田敬仲完世家だと斉王建が后勝の進言により、戦わずに降伏したとあるだけです。

しかし、後の始皇帝の言葉を見ると「斉王は后勝の進言を採用し秦との関係を断った」と述べており、后勝は秦との関係を切ろうとしていた事が分かります。

秦の始皇帝本紀を見ると、斉王建と后勝が秦との関係を断ち、西方の守を固めたとあります。

しかし、秦は燕を征服した後であり、王賁蒙恬李信の三将が南下して斉を攻撃し斉は降伏しました。

秦軍は北から攻めて来たのに、西の守を固めるというのは、滑稽にも感じますが、后勝が秦に買収された事で、こういう事態になってしまったのかも知れません。

斉は大して戦わずに滅亡しており、斉が滅亡した原因は后勝にもあると言えるでしょう。

ただし、后勝に管仲や晏嬰の様な能力があったとしても、斉は滅んでいた様にも感じました。

尚、斉が滅びた後に后勝がどの様な末路を辿ったのは記録がなく不明です。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細