后勝は史記や資治通鑑、戦国策などに名前が登場する人物です。
后勝は斉王建の母親である君王后の一族でであり、君王后が亡くなると宰相となりました。
当時は秦が圧倒的に強く戦国七雄の残りの国々に対し攻勢を仕掛けていましたが、斉は諸国を助けようとはしなかったわけです。
后勝は秦から賄賂を受け取り、斉の大臣達を斉に入れました。
大臣達もまた秦の賄賂を受け取り、斉は諸侯を助けず、秦の天下統一を加速させています。
今回は斉の最後の宰相である后勝を解説します。
斉の宰相となる
后勝は君王后の一族だという事は分かっていますが、それ以外の事は謎に包まれています。
君王后は太史敫の娘であり、太史敫が庶民だった可能性も存在する事から、后勝も庶民だった可能性もあるはずです。
楽毅率いる合従軍により斉は大敗し、結果として斉の湣王は淖歯に殺害されました。
淖歯も王孫賈に殺害され、斉の襄王が即位し君王后が妃となり、后勝も出世の道が開けたのでしょう。
燕軍は田単が破り、これにより斉は領土を全て取り戻す事になります。
斉の襄王が亡くなると、斉王建が即位しますが、年が若かった事もあり、母親の君王后が国政を司りました。
君王后が紀元前249年に没すると、后勝が斉の宰相となります。
后勝が斉の宰相になった経緯を考えれば、后勝は外戚として権力を握ったと言えるでしょう。
賄賂を受け取る
后勝は秦から多額の賄賂を受け取り、斉の大臣の多くを秦に入れたとあります。
秦の方でも斉の大臣に賄賂を贈った事で、秦の為に働きました。
李斯や尉繚子が秦王政に他国の豪臣を買収する様に進言しており、この時の買収策のターゲットになった一人が后勝だったのでしょう。
后勝は秦への従属政策であり、連衡を支持し、他の戦国七雄の国々が秦の侵攻にあっても助けようとはしませんでした。
秦に入った斉の大臣達も諸侯を助けない様にと述べ、これにより斉は秦からの侵略は受けませんでしたが、六国は窮地に陥り滅亡していく事となります。
後に蒙恬、蒙毅が趙高の讒言により殺害されそうになり、この時に子嬰が胡亥を諫めています。
子嬰の諫言の中で、次の言葉があります。
子嬰の言葉を見る限りでは、斉滅亡の一因が后勝にあり、后勝は秦の買収に応じている事からも、とても名臣だとは言えないでしょう。
斉の滅亡
最終的に秦は韓、魏、趙、楚、燕を滅ぼし、最後に斉だけが残りました。
史記の田敬仲完世家だと斉王建が后勝の進言により、戦わずに降伏したとあるだけです。
しかし、後の始皇帝の言葉を見ると「斉王は后勝の進言を採用し秦との関係を断った」と述べており、后勝は秦との関係を切ろうとしていた事が分かります。
秦の始皇帝本紀を見ると、斉王建と后勝が秦との関係を断ち、西方の守を固めたとあります。
しかし、秦は燕を征服した後であり、王賁、蒙恬、李信の三将が南下して斉を攻撃し斉は降伏しました。
秦軍は北から攻めて来たのに、西の守を固めるというのは、滑稽にも感じますが、后勝が秦に買収された事で、こういう事態になってしまったのかも知れません。
斉は大して戦わずに滅亡しており、斉が滅亡した原因は后勝にもあると言えるでしょう。
ただし、后勝に管仲や晏嬰の様な能力があったとしても、斉は滅んでいた様にも感じました。
尚、斉が滅びた後に后勝がどの様な末路を辿ったのは記録がなく不明です。