
| 名前 | 草薙剣(くさなぎのつるぎ) |
| 別名 | 天叢雲剣、草那藝之大刀、草薙の剣 |
| 時代 | 日本神話~現代 |
| コメント | 三種の神器の一つに数えられている |
草薙剣は八咫鏡、八尺瓊勾玉とともに三種の神器の一つに数えられる神剣です。
スサノオが八岐大蛇を倒した時に、手に入れたのが草薙剣となっています。
草薙剣を手に入れたスサノオは、天照大神に献上しました。
天照大神は地上の大国主を降伏させ、瓊瓊杵尊が天孫降臨を行う時に、八咫鏡、八尺瓊勾玉と共に草薙剣も持たせています。
草薙剣は壇ノ浦の戦いで紛失したり、南北朝時代には、後醍醐天皇の言葉もあり、何処に本物があるのか分からない様な状態になった事もあります。
それでも、最終的に草薙剣は皇室に戻ってきており、現代にまで繋がりました。
日本人と古代イスラエル人(ユダヤ人)が共通の祖先を持つとする日ユ同祖論も存在し、「ユダヤの秘宝であるアロンの杖が草薙剣に変わった」とする説もありますが、真実は不明です。
今回は草薙剣が如何にして日本神話の時代から現代にまで繋がったのかを解説します。
八岐大蛇と草薙剣
イザナミと決別し、黄泉の国から帰って来たイザナギが禊を行うと、天照大神、月読命、スサノオの三柱が誕生しました。
イザナギは、高天原を天照大神に、夜の国を月読命に、海原をスサノオにそれぞれ任せました。
しかし、スサノオだけは命に従わず「母親に会いたい」と泣き叫び、ついにはイザナギによって追放されてしまいます。
追放されたスサノオは何を思ったのか、天照大神がいる高天原を目指しました。
天照大神とスサノオは誓約を行い、スサノオが強制的?に勝利し、高天原に残る事になりましたが、後に狼藉を行い追放されています。
地上に降り立ったスサノオですが、足名椎命、手名椎命やクシナダヒメと出会う事になります。
スサノオはクシナダヒメを助ける為に策を以て八岐大蛇を倒しました。
この時に八岐大蛇の尻尾から草薙剣が出て来たわけです。

ここでスサノオは草薙剣を天照大神に献上しました。
スサノオが天照大神に献上された事で、草薙剣は高天原に移る事になります。
草薙剣と天孫降臨
出雲は大国主の時代に大発展しますが、これを苦々しく思っていたのが天照大神です。
ここでは詳しい内容は省きますが、出雲の国譲りがあり、高天原の勢力が地上も統治する事になりました。
天照大神の孫の瓊瓊杵尊が地上に降臨しますが、この時に天照大神は三種の神器を瓊瓊杵尊に預けました。
当然ながら、草薙剣も三種の神器の一つとして、瓊瓊杵尊に渡される事になります。
瓊瓊杵尊は三種の神器を持ち、天孫降臨を行い高千穂に舞い降りました。
瓊瓊杵尊の子孫は神武天皇であり、本拠地を畿内に移した際に三種の神器も大和に移ったと考えられています。
一説によると、崇神天皇の時代に形代が作られたとも言われます。
形代とは、いわばレプリカのようなものであり、本体によく似た代替物と考えると分かりやすいでしょう。
草薙剣と日本武尊
垂仁天皇時代になると倭姫に託され伊勢神宮に移ったとされています。
後に倭姫が草薙剣を日本武尊に託している事から、草薙剣は伊勢神宮に移った事が分かります。
日本武尊は草薙剣を持ち、東征を行いました。
彼は焼津で地方長官の騙し討ちにあい焼き殺されそうになりますが、草薙剣で草を薙ぎ払い、向かい火打ち石で火を放ち、迎え火を起こして難を逃れます。
日本武尊が草を薙ぎ倒した事から、草薙剣と呼ばれる様になります。
その後に日本武尊は東国の蝦夷まで征伐し、尾張の国(現在の愛知県西部)にいた婚約者である宮簀媛と結婚しました。
日本武尊は山の神を討伐に行った時に、草薙剣を持たずに討伐に行ってしまいました。
日本武尊は素手で山の神を討伐しようとするのですが、返り討ちにあい結局は亡くなっています。
宮簀媛の元に草薙剣が残っていましたが、熱田神宮が建立され、そこに草薙剣が祀られる様になりました。
草薙剣盗難事件
日本書紀では、天智天皇の7年に次のような事件が記録されています。
沙門(僧侶)の道行が草薙剣を盗み出し新羅に逃亡します。
しかし、途中で暴雨に遭遇し、道に迷い戻って来ました。
これが草薙剣盗難事件となります。
シンプルな記述ではありますが、草薙剣が戻って来た事は確かなようです。
この時に草薙剣の本体が宮中に戻って来たのではないか、とも言われています。
草薙剣が熱田神宮に戻る
日本書紀では、天武天皇が病に倒れた時に、それが草薙剣の祟りであると分かったとあります。
これにより、尾張の熱田神宮に草薙剣を送り、安置させたという話があります。
草薙剣は再び尾張に戻りました。
草薙剣の本体は熱田神宮にあるという事です。
しかしながら、天武天皇は病から回復することなく崩御してしまいました。
祈祷を行っても、草薙剣の祟りを消す事が出来なかったとも言われています。
草薙剣と壇ノ浦の戦い

(画像:ウィキペディア)
草薙剣に関して論争が起きるのは、源平合戦のクライマックスである1185年に起きた壇ノ浦の戦いの時だと言えるでしょう。
幼い安徳天皇と共に草薙剣が海に沈んだという話があります。
壇ノ浦の戦いの時には平家は都落ちしていましたが、皇位継承の証である三種の神器は平家が持ち出していました。
三種の神器は皇位継承に必要であり、平家がそれらを持ち出したのは、正統性を確保し戦いを有利に進める為であると考えられています。
しかし、後白河法皇は壇ノ浦の戦いの前年である1184年に、三種の神器なしで孫の後鳥羽天皇を即位させました。
後鳥羽天皇は三種の神器無しで即位したことに対するコンプレックスを持っていた、などの説もあります。
壇ノ浦の戦いの主人公の一人とも言える安徳天皇は、高倉天皇を父に持ち、母親は平清盛の娘でした。
平清盛の妻である二位尼時子(安徳天皇の祖母)が、壇ノ浦での敗戦を悟り安徳天皇を連れて入水しようとすると、安徳天皇は二位尼時子に「私を何処に連れて行こうとするのだ」と問いかけました。
二位尼時子は「極楽浄土という結構な場所にお連れするのです。波の下にも都がございます」と答えます。
ここで、幼帝・安徳天皇が西方に向かって目を閉じ、小さな手を合わせる場面は、涙なしには語れない名場面です。
この時の安徳天皇は、幼いながらも死を悟り冥土に向かい旅立つ事を決意したわけです。
歴代天皇の中でも自決した天皇は数少ないとされており、安徳天皇の入水はその象徴的な一例といえるでしょう。
壬申の乱で敵わないと悟り自決した弘文天皇もいるのですが、安徳天皇の場合は当時わずか6歳であり、より悲劇的であるように思われます。
ただし、安徳天皇は八岐大蛇の化身であり、宝剣と共に竜宮城に還ったという話もあります。
これは、草薙剣は八岐大蛇の体内から出て来たものであり、八岐大蛇が取り返そうとしたという説です。
この話だと、八岐大蛇が草薙剣を取り返し、海底に還ったという事になります。
一方で、徳島県の剣山(つるぎさん)には、安徳天皇が天叢雲剣(草薙剣)を納めたという伝説があります。
こうした生存説は、真田幸村が豊臣秀頼を連れて薩摩に行った、大坂の陣では長宗我部盛親は処刑されず婦人と余生を過ごした、源義経が生きていてジンギスカンになったなどという伝承と似ているように感じます。
さらに言えば、草薙剣はレプリカが複数あり、そのうちの一本が喪失しただけである、という説も存在しています。
安徳天皇は入水し海の藻屑になってしまうのですが、三種の神器も一緒に水中に入ってしまいました。
八咫鏡と八尺瓊勾玉は箱に入っていたために浮かびあがり、源氏が回収する事が出来たと言われています。
ちなみに、八咫鏡を持った平重衡の妻が入水する前に、源氏の武士が確保したという説もあります。
八咫鏡だけは水に落ちたとする話と落ちなかったとする話の両方がありますが、結局は源氏が回収する事が出来たという事です。
反対に、草薙剣だけは水中に入ってしまいました。
壇ノ浦の戦いは関門海峡で行われており、比較的水深が浅いと言われています。
しかし、深い所では水深40メートルを超えるとも言われ、潮流は国内でも屈指の速さであるとされています。
つまり、草薙剣が沈んだ大体の場所が分かっていても、潮流に運ばれてしまえば、見つけるのは不可能とも言えるでしょう。
「砂漠の中から一本の針を見つけるようなものだ」という例えがありますが、まさにそれに近い状況だったとも考えられます。
草薙剣の捜索
源範頼による草薙剣の捜索
吾妻鏡によると、壇ノ浦の戦いでの総司令官である源義経が兄の源頼朝に報告書を送ります。
その中には、安徳天皇が入水したため三種の神器のうち宝剣(草薙剣)だけは回収する事が出来なかったと書かれていました。
源頼朝は朝廷を自らの意思で操りたいと考えており、源範頼に対し、西国に残り何としても草薙剣を探し出す様に命じました。
さらに、「草薙剣が見つかるまで鎌倉に戻ってはならぬ」と厳命したという話も伝えられています。
これは、現代の感覚で言えばパワーハラスメントとも受け取られかねないほどの難題であり、当時の命令の厳しさを物語っています。
因みに、源範頼は源頼朝の異母弟であり、源義経の異母兄にあたる人物です。
源範頼は結局は草薙剣を見つけ出す事が出来ず、頼朝からの叱責を覚悟の上で、鎌倉に引き返しました。
因みに、源範頼は鎌倉幕府成立後、頼朝に謀反の疑いを掛けられて伊豆に流され、死罪となっています。
源氏はよく兄弟同士で殺し合っているという印象があります。
佐伯景弘の草薙剣の捜索
源範頼の捜索は失敗に終わりましたが、頼朝は諦める事が出来なかったのか、厳島神社の神主であった佐伯景弘に宝剣の探索を命じたという記録が残っています。
地元の海に詳しい佐伯景弘であれば、草薙剣を発見できるのではないか?と期待したわけです。
ただし、佐伯景弘の方から源頼朝に自分を売り込んだ可能性も考えられています。
元々厳島神社は平氏と関わり合いが深く、厳島神社を最も支援していたのは平氏でした。
平氏の側でも佐伯氏との関係を深めようと考えたのか、平清盛が佐伯氏に平氏の姓を名乗ることを許したという話が伝えられています。
しかし、平氏は没落してしまい、最大のスポンサーを失った佐伯景弘は源氏に鞍替えし、源頼朝に接近しようと考えたとも言われています。
佐伯景弘は地元の漁師を雇い、二か月にわたって草薙剣の探索を続けさせましたが、ついに発見することはできませんでした。
草薙剣と後白河法皇
後白河法皇は後鳥羽天皇を神器なしで即位させていたが、宝剣(草薙剣)の紛失は鎌倉幕府側の過失であると決めつけ、幕府に対して発言権を強めた、という話もあります。
後白河法皇は源頼朝から「日本第一の大天狗」と呼ばれていたという話があり、これは後白河法皇が本領を発揮したエピソードとも言えるでしょう。
草薙剣と後鳥羽上皇
後白河法皇や源頼朝の死後も、草薙剣の捜索は行われていたという話があります。
後鳥羽上皇は1210年に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を新たな宝剣と定めました。
受け取ったのは順徳天皇とも言われていますが、これが現在に伝わる草薙剣と言われています。
しかし、後鳥羽上皇は草薙剣を忘れる事は出来なかった様で、1212年になると検非違使の藤原秀能を西国に派遣し、宝剣探索をさせています。
新たな宝剣を定めてから僅か2年で草薙剣を探索させたという事になります。
既にこの時には、壇ノ浦の戦いから27年が過ぎ去っていました。
後鳥羽上皇にとって、草薙剣は忘れる事の出来ないものだったのでしょう。
勿論、藤原秀能は草薙剣を見つけ出す事が出来ませんでした。
後鳥羽上皇は、三種の神器が揃っていない状態で即位したことが精神的な負い目になり、強権政治に突き進み承久の乱を引き起こしたという説もあるようです。
宝剣の紛失は様々な伝説や神話を生みました。
壇ノ浦に沈んだ草薙剣は形代だった!?
海底に沈んだのは、草薙剣の本体ではなく形代だったのではないか?とも考えられています。
さらに言えば、草薙剣は形代が複数あり、そのうちの一本が壇ノ浦五で喪失しただけ、という説もあります。
崇神天皇の時代に草薙剣の形代が作られ、形代の方は長らく皇居にありました。
草薙剣の本体は倭姫と共に伊勢神宮にあり、倭姫は日本武尊に草薙剣を託し、日本武尊は東征が終わると宮簀媛に草薙剣を預けて亡くなっています。
その後、宮簀媛は熱田神宮に草薙剣の本体を奉納しました。
草薙剣の本体は道行により盗まれた様でもあるのですが、結局は戻って来て再び熱田神宮に置かれました。
つまり、草薙剣の本体は熱田神宮にあり、草薙剣の形代はずっと皇居に置かれていた事になります。
この説では、平家が持ち出したのは形代の方であり、草薙剣の本体はずっと熱田神宮に安置されていた、という事になっています。
言い伝えが史実であれば、草薙剣の本体は無事であり、海に消えたのは形代の方だという事になります。
後鳥羽上皇は草薙剣の探索に並々ならぬ執念と関心を抱いていたとされ、そのために壇ノ浦の戦いで海に沈んだのは草薙剣の本体だったのではないか、と考える人もいるようです。
後鳥羽上皇も、草薙剣の本体が熱田神宮にある事は知っていたはずです。
しかし、たとえそれが形代であったとしても、草薙剣は崇神天皇の時代以来皇居に置かれ、歴代天皇の皇位継承に用いられてきた由緒ある神器であり、その象徴的価値は極めて大きいものだった事でしょう。
それらを考えると、草薙剣は形代であっても十分な権威を持っていたとも考えられます。
後鳥羽上皇としては、形代と言えども大事な草薙剣を、海底に放置しておきたくなかったのかも知れません。
なお、1210年に伊勢神宮から献上された宝剣が現在の草薙剣であるという説と、壇ノ浦で失われた剣の代替として新たに形代が造られたという説があり、どちらが正しいかは定かではありません。
南北朝時代と草薙剣
鎌倉時代の末期になると、後醍醐天皇が現れました。
後醍醐天皇は後に足利尊氏により花山院に幽閉されています。
この時に後醍醐天皇は足利尊氏に三種の神器を渡したとも言われています。
しかし、後醍醐天皇は不屈の闘志を持っており、幽閉されていた花山院を脱出し、吉野で南朝を開きました。
これが南北朝時代の始まりです。
この時に、後醍醐天皇が足利尊氏に渡した三種の神器は偽物だと宣言したという話があります。
後醍醐天皇が崩御した後に、後村上天皇が即位し、正平一統が破棄された時に南朝が北朝の隙をついて北上し、北朝の上皇や天皇を拉致してしまいました。
この時、三種の神器はすでに南朝に完全に移っており、北朝では天皇の即位に必要とされる上皇も不在でした。
そのため、北朝は代用品を用いて後光厳天皇の即位を強行することとなり、佐々木道誉がその場を収めるために機転を利かせたとも言われています。
室町幕府の三代将軍である足利義満の時代に、南北朝時代は終焉に向かうことになります。
南朝は三種の神器を引き渡し、朝廷は統一されました。
因みに、室町幕府が約束を反故にしたといった話や、後南朝の勢力が形代である草薙剣を奪ったという話もあるようです。
尚、太平記には草薙剣が見つかったとする話があります。
しかし、太平記は軍記物語であり、何処までが本当なのか分からないとしか言いようがないでしょう。
戦国・江戸期の草薙剣
熱田神宮は織田信長が桶狭間の戦いの前に戦勝祈願した神社としても有名です。
この時にちょっとした吉兆があったようです。
江戸時代に入ると、徳川綱吉の時代に熱田神宮の改修工事が行われ、この時に数名の神官が草薙剣を見たとも言われています。
三種の神器はご神体であり、神が宿るものとされ、見ることは禁忌とされています。
こうした「見てはならないもの」をもし見てしまったら――その先に何が起こるのかは、想像に委ねるほかありません。
明治以降の草薙剣
明治時代には、明治天皇ですら三種の神器を見てはならないとされていました。
現在は、天皇であっても三種の神器を見る事は出来ません。
つまり、見る事が出来る人は誰もいないという事になります。
三種の神器は箱に入っており、誰も見る事が出来ないようになっています。
ちなみに、「見てはならない」とされる八咫鏡については、都市伝説の界隈では日本と古代ユダヤにつながりがあるという仮説を基にして「ヘブライ語が刻まれている」といった話に繋がることもあります。
こうした説は非公開性を根拠に語られることが多く、まさに“悪魔の証明”のような構造を持っています。
つまり、「ヘブライ語が書かれていないことを証明せよ」と言われても、非公開である以上それは不可能なのです。
太平洋戦争の時には、日本軍はアメリカ軍に押され、本土が空爆される事態に陥りました。
この時に、熱田神宮がある名古屋も空爆されてしまいます。
昭和天皇を長野県の松代大本営に移す話もあり、この時に三種の神器も松代に移すことが検討されました。
しかし、結局日本は1945年にポツダム宣言を受諾し、戦争が終わりました。
熱田神宮から飛騨一宮水無神社に草薙剣が一時的に避難したという話もあります。
しかしながら、現在草薙剣は熱田神宮にあるとされています。
草薙剣は神話と現代を繋ぐ
草薙剣を見ると、神話の時代から現代まで繋がっている事が分かるはずです。
神話の時代から現在まで、ひとつながりの王統が続いている国は、日本だけだと言われています。
中国の方が歴史が古いと思われがちです。
確かに、中国では古代から人々が暮らしていたということは間違いありません。
しかし、中国の歴代王朝は断絶と交替を繰り返しており、たとえば漢王朝の劉邦や伝説上の黄帝の子孫が、現在の中国共産党の指導者として君臨しているわけではありません。
同様に、ギリシャなどにおいても、神話に登場するゼウスやアテナの血統が王室として現代に残っているわけではありません。
こうした例と比較すると、神話的起源を持つ皇統が現代まで絶えることなく続いているという点で、日本は極めて特殊な国であると言えるでしょう。
草薙剣も含めた三種の神器は、日本の神話から現代を繋ぐ貴重なものです。