名前 | 空白の150年 |
別名 | 空白の4世紀 |
時期 | 266年ー413年 |
年表 | 前期:邪馬台国の衰退の始まり |
中期:邪馬台国の滅亡と大和王権の強大化 | |
後期:大和王権の朝鮮半島への進出 | |
末期:高句麗との戦い |
空白の150年は空白の4世紀とも呼ばれ、中国の歴史書から日本の記述が無くなった時期を指します。
空白の150年はいつなのかと言えば、西暦266年から413年までの約150年間を指します。
中国王朝では倭国に対する4世紀の記録は抜け落ちているといってもよく空白の4世紀と呼ぶに相応しい状態となっています。
晋書に西暦266年に倭の女王が西晋に朝貢した記録があり、413年に高句麗と共に倭国の使者が東晋に朝貢するまでの期間が空白の150年です。
この様に266年から413年までの間に、中国側の日本に対する記述が存在せず、こうした事情から空白の150年と呼ばれているわけです。
空白の150年の間に魏志倭人伝で有名な邪馬台国が消滅し、代わりに日本列島には大和王権が君臨していました。
ただし、空白の150年とは言いますが、古事記や日本書紀にある様に日本側の記録は存在しています。
さらに、4世紀末から5世紀前半の記録としては高句麗側の広開土王碑にも記述があり、日本で何か起こっているのか全く分からない様な状態でもありません。
しかし、古事記や日本書紀などの日本側の記録はありますが、年代が信頼できないなどの問題もあり、空白の150年とも呼ばれてしまうわけです。
空白の150年は「なぜ起きたのか」ともよく言われますが、結論を言えば単に中国側の歴史書に倭に関する記録が途絶えた事を指します。
今回は仮説ではありますが、空白の150年の間に何が起きたのかを考察してみました。
空白の150年前夜
卑弥呼の朝貢
空白の150年を知る上で前段階を理解する事は必要でしょう。
西暦238年に遼東の公孫淵が魏の司馬懿によって滅ぼされると、すかさず邪馬台国の卑弥呼は魏に朝貢しました。
倭国では奴国や倭王帥升などが後漢王朝に朝貢した記録があり、遼東公孫氏が滅んだ事で中国王朝への朝貢の道が開かれ邪馬台国の卑弥呼が魏への朝貢が可能となったわけです。
魏志倭人伝に倭国大乱があり、卑弥呼が擁立されたわけですが、狗奴国との戦争もあり、倭国内での戦いを有利に進める為に、卑弥呼は魏との朝貢貿易を行ったのでしょう。
魏では遼東公孫氏を滅ぼした事で楽浪郡や帯方郡を手に入れますが、朝鮮半島の支配は盤石とは言えず、遠交近攻の策で考えても、朝鮮半島南部に勢力を持つ倭人との友好は望む所でもあったはずです。
魏は安定した朝鮮半島支配を目指しますが、245年に行き違いもあり朝鮮半島で乱が勃発し、帯方郡太守である弓遵が戦死するなどもありました。
魏の朝鮮半島支配は難航していたと言えるでしょう。
尚、朝鮮半島の臣智が起こした反乱で弓遵が戦死するわけですが、魏側は邪馬台国に弓遵や劉茂らを助ける様に要請したのではないかと考えられています。
邪馬台国と魏の蜜月関係
魏の曹叡or曹芳は邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王とし厚遇しました。
三国志の魏が親魏●●王としたのは、邪馬台国の卑弥呼とクシャーナ朝ヴァースデーヴァを親魏大月氏王としただけであり、親魏韓王などは存在しない事から、邪馬台国の卑弥呼は魏からかなりの好待遇を受けたとも考えられるわけです。
ただし、魏は卑弥呼を親魏倭王としてはいますが、倭国の外部にある中華王朝の魏が自国に恭順の意を示した邪馬台国の卑弥呼を倭王として冊封したのであり、邪馬台国が倭国最強勢力だったとは限らないでしょう。
実際に邪馬台国の卑弥呼は狗奴国の卑弥弓呼と不和であり、戦争が勃発し魏の張政に調停をしてもらった話があります。
邪馬台国は魏からの援助を期待し、狗奴国との戦争を優位に進めようとしたのは明らかでしょう。
尚、邪馬台国が北部九州にあったのであれば、狗奴国は記紀に登場する熊襲だったのではないかとも考えられています。
空白の150年の前段階で魏と邪馬台国は友好関係にありました。
因みに、倭国の状況で考えると卑弥呼の時代というのは、欠史八代の終わりの頃である開化天皇の頃だったのではないかと考えるのが自然だと感じました。
呉の遼東半島への進出
三国志の呉の孫権が公孫淵に騙されて遼東半島への攻撃を行おうとした話は、耄碌してしまった孫権の姿だと考える人は多いです。
しかし、司馬懿が遼東公孫氏を滅ぼした後に、呉では羊衜らに水軍を率いらせ遼東半島を襲撃し、魏の張持や高慮を破りました。
張持や高慮は魏の遼東半島の守備を任された者であり、呉の羊衜らは彼等を破り略奪を行い男女の捕虜を得ています。
孫権の遼東半島への進出は確実にあったわけであり、呉は楽浪郡や帯方郡、朝鮮半島にまで影響力を及ぼそうとしていたのは確実でしょう。
倭国で言えば魏が邪馬台国に味方し、狗奴国の裏には呉がおり、邪馬台国と狗奴国の戦争は魏と呉の代理戦争だったのではないかとする説もあります。
呉鏡が日本から出土している事からも、倭国の国で呉と誼を結んだものがいた事は確実でしょう。
魏ではライバル国である呉の朝鮮半島への進出を妨害する意味でも、邪馬台国と友好を結び呉を牽制したかったのではないかと考えられるわけです。
西暦266年に至るまでの経緯
邪馬台国の卑弥呼は狗奴国を完全に滅ぼす事が出来なかった様であり、248年頃に死去しました。
倭国では男王が立ちますが、国を安定させる事が出来ず13歳の台与が後継者になる事で国が治まったとあります。
晋書によれば266年に倭国の女王が朝貢した話があり、これが台与ではないかともされているわけです。
魏では263年に鄧艾が蜀の劉禅を降伏させた事で、三国時代が終焉しました。
しかし、魏では既に実権を司馬一族が握っており、魏の曹奐から禅譲により司馬炎が皇帝となり西晋が誕生する事になります。
空白の150年の始まりである266年に倭国の女王が西晋に朝貢した話がありますが、新しく出来た西晋に朝貢すると共に援助を期待したのではないかと考えられるわけです。
空白の150年の始まりでもある266年に邪馬台国は存在していた可能性は極めて高いと言えるでしょう。
尚、空白の150年の直前の段階での近畿の大和王権の方では、崇神天皇や垂仁天皇など欠史八代で蓄えた財力をバックとして勢力拡大の時期に入っていたと考えられます。
空白の150年の前期
邪馬台国の衰退
空白の150年は266年からですが、空白の150年の前半では邪馬台国の衰退があったのではないかと考えられています。
280年に呉が滅亡し三国志の世界が完全に終了し、西晋が天下統一しました。
魏が邪馬台国を援助していたのは、呉に対処する必要があったからだと考えられますが、呉が滅んでしまっては邪馬台国の重要性は極めて薄くなるのは当然の事でしょう。
西晋は天下統一しますが、西晋では権力闘争がエスカレートし八王の乱へと突入しました。
八王の乱では最初の頃は宮廷闘争だけであり、宮廷内の権力闘争であれば邪馬台国を援助する事は可能だったはずです。
しかし、4世紀に入ると諸王による軍事衝突も起きており、この時代に入れば西晋が邪馬台国を援助するのは極めて困難な状況になっていた事でしょう。
邪馬台国は狗奴国との戦争を行っていますが、魏からの援助があっても狗奴国に苦戦している様にも見えます。
それを考えれば西晋の権威や援助を失った邪馬台国では弱体化が始まったとも考える事が出来ます。
朝鮮側の正史である三国史記に312年に倭国王が使者を派遣し、王子の嫁を新羅に求めた話しがあります。
新羅側は阿飡(6等官)の急利の娘を倭国に送ったとあります。
急利は新羅国内の実力者だとする説もありますが、新羅王の娘ではなく大臣の娘を倭王の王子の妻とするのは違和感がある所です。
邪馬台国の方では西晋の援助が打ち切られ新羅でもいいから政略結婚を行い戦いの巻き返しを図ったのかも知れません。
西暦312年の時点では邪馬台国が存在していたとしても、かなり弱体化していた様に感じています。
空白の150年の前期では邪馬台国の弱体化があった事だけは間違いないと感じました。
尚、日本書紀の記述で考えると空白の150年の始まりである266年は神功皇后の摂政の時代となっていますが、記紀の年代の誤りもあり神功皇后の時代は空白の150年の中期や後期だと考えた方がよいでしょう。
大和王権の国力増強
空白の150年を考える上で、近畿の大和王権の発展も考える事は重要でしょう。
卑弥呼の時代に九州では鉄が普及していましたが、近畿ではまだ青銅器の時代でした。
しかし、雑木林が多い九州の地形に対し、大和盆地の中央には奈良湖があり、湿地帯が多かった事で開墾が非常にやりやすく大和王権は勢力を拡大させる事になります。
欠史八代の時代は政略結婚で勢力を広めたとも考えられますが、奈良盆地の開墾を行ってもいたのでしょう。
さらに、大和は四方を山に囲まれ防衛にも優れており、国力を増して行く事になります。
崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇は纏向に都を定めた話しがあり、纏向遺跡が栄えた4世紀の初めには、日本で最大の都市は大和にあった事は間違いないでしょう。
邪馬台国や狗奴国が戦争を繰り広げる中で、大和王権は地形効果と天然の要塞に守られ国力を高めたと考える事が出来ます。
空白の150年の中期
中国・四国地方の動向
近畿の大和王権と九州の邪馬台国の間には、四国や中国地方などが存在している事が分かります。
四国や中国地方の諸国の動向も空白の150年で考える必要があるはずです。
四国や中国地方の諸国では九州の邪馬台国に与するか近畿の大和王権に与するかの選択肢はあったと考えられます。
邪馬台国では卑弥呼や台与などは朝貢を行う度に生口と呼ばれる奴隷を献上しており、奴隷貿易を行っていた事は明らかでしょう。
中国地方や四国の諸国が邪馬台国に味方した場合は、自国の民を奴隷にして中華王朝に献上しなければならないリスクも存在したわけです。
さらに、西晋になってから邪馬台国への援助が途切れ弱体化した邪馬台国よりも、大和王権に味方する方が利益は大きいと考えてもおかしくはないでしょう。
中国地方や四国の諸国にとってみれば、自国の民を奴隷として中国に送る行為は自らの求心力を下げる行為でもあり、必然と西の大和王権に靡いたとも言えます。
ツヌガアラシトの来日
垂仁天皇が即位して暫くすると、朝鮮半島から加羅の王子であるツヌガアラシトが大和王権にやってきた話があります。
日本書紀の記述を見るとツヌガアラシトは大和王権を慕ってやってきた様な書き方をしています。
しかし、実際には朝鮮半島南部にいる倭人の庇護者として、大和王権に期待したのではないかと考えられるわけです。
朝鮮半島南部にも倭人がいた事が分かっていますが、邪馬台国が弱体化し頼りにならず、代わりに大和王権に後ろ盾になってくれる様に要請したのでしょう。
大和王権の方でも朝鮮半島南部から鉄や大陸の技術など様々な恩恵が得られる事もあり、了承したと考えられます。
大和王権は朝鮮半島で利権を持つ事になりました。
邪馬台国の滅亡
古事記や日本書紀の記述を見ると、景行天皇の時代になると景行天皇が自ら九州に遠征したり、日本武尊が九州の熊襲討伐を行った話があります。
日本武尊が東国遠征を行うなど大和王権は日本各地に積極的に外征を行った時代でもあるのでしょう。
記紀には仲哀天皇や神功皇后が九州に上陸した話も掲載されています。
日本書紀に仲哀天皇の時代に伊都国の領主が仲哀天皇に帰順した逸話があるのも注目すべきポイントです。
伊都国は邪馬台国時代には一大卒が設置された重要拠点であり、朝貢貿易や交易の管理も行われていました。
仲哀天皇の時代には邪馬台国は存在していたとしても伊都国も失い弱小勢力だった事でしょう。
神功皇后の摂政の時代になると、熊襲を討っただけではなく羽白熊鷲や田油津媛の討伐を行いました。
田油津媛が本拠地にしていた場所が山門であり、田油津媛の勢力が弱体化した邪馬台国だったのではないかとも考えられます。
日本書紀によると神功皇后の時代に百済から七支刀を贈ってきた話しがあり、この七支刀が現存しており銘文から神功皇后の52年が紀元前369年だと考えられます。
それらを考慮すると、遅くとも350年までには邪馬台国は滅亡していたと考えられます。
尚、三国史記を見ると西暦344年に倭国が新羅に婚姻を求めてきますが、新羅が断った話があり、この時には倭国の中身は邪馬台国から大和王権に変わっていた可能性もあるでしょう。
345年には倭国は新羅と断交を宣言しました。
空白の150年の中期には邪馬台国は滅亡したと考えるのが妥当だと感じました。
邪馬台国が滅亡した時期は、中国では五胡十六国となっており、北方は異民族の流入もあり大混乱の時代になっていました。
勿論、中国では戦乱の時代となっており、倭国を見ている様なゆとりはなかった事でしょう。
空白の150年・後期
倭国と大和王権
神功皇后が摂政を行っていた時代に、田油津媛の討伐に成功するなど九州北部も大和王権の支配下になった事は確実でしょう。
大陸から見て倭国というのは日本列島にある国を指します。
神功皇后が九州を平定する前であれば倭国と言えば邪馬台国や奴国などの北部九州に国々を指した事でしょう。
しかし、神功皇后が九州を平定してからは、倭国と言えば大和王権を指すわけです。
中華王朝から見れば大和王権も邪馬台国も共に倭国の国でしかありませんが、中身は邪馬台国から大和王権に変わっていたと言えるでしょう。
空白の150年の後期では倭国といえば、大和王権を指すと考えるべきです。
朝鮮半島から見た空白の150年
空白の150年を知る上で隣国である朝鮮半島の情勢も見て置く事は重要です。
中国では五胡十六国の時代に突入していましたが、前燕が中国の北東部で大きな勢力となり、高句麗は反前燕勢力の受け皿にもなっていました。
前燕は高句麗を危険視し、342年に高句麗を攻撃し首都の丸都を陥落させ王族の拉致や財宝などを略奪し引き上げていきます。
高句麗の故国原王は前燕に臣従を誓い朝貢しますが、前燕と高句麗はお互いに気を抜けない関係でした。
こうした中で369年に東晋の桓温が前燕の攻撃に踏み切り前燕が動けない事を見越して、高句麗は南下し百済を攻撃する事になります。
前燕は東晋の攻撃は退けましたが内部の対立もあり、370年に前秦に攻められ呆気なく滅亡しました。
371年に高句麗の故国原王は自ら兵を率いて出陣しますが、百済の近肖古王に敗れ戦死しています。
高句麗を北に駆逐した百済は首都を漢城に遷し国として勢いがありました。
空白の四世紀の朝鮮半島の情勢をみれば、百済の絶頂期に到達したとみる事も出来るはずです。
百済は高句麗は破りましたが、高句麗が再び南下して攻めて来る可能性は十分にあり、対策を練る必要がありました。
当時の東晋は山東半島まで領土を得ており、百済は黄海を渡り東晋への朝貢を行っています。
さらに、百済は倭とも友好を深める事になります。
倭国百済同盟
空白の150年と言えば邪馬台国が消滅し大和王権が誕生していた事ばかりに注目されがちですが、倭国と百済が同盟を結んだ事実にも着目するべきでしょう。
日本書紀を見ると百済は倭国の従属国の様な立場で描かれており、百済からの多くの朝貢品は神功皇后を喜ばせた話があります。
しかし、当時の百済を見ると独力で高句麗軍を打ち破っており、倭国の力を借りずともライバル国である高句麗を撃退するだけの軍事力を持っている事が分かります。
それらを考慮すれば、百済が贈った七支刀などは友好の印として倭国に贈ったのであり、従属関係ではなかったとも考えられるわけです。
日本にしても鉄資源などは朝鮮半島の伽耶地域に依存しており、百済に従属する必要はありません。
これらを考慮すれば、倭国百済同盟は対等な同盟関係だったと考えるが妥当でしょう。
新羅の動き
新羅は377年に高句麗と共に前秦に朝貢しました。
新羅は朝鮮半島の東部に位置し、中華王朝に朝貢するには他国を通らなければ難しい状態であり、新羅は高句麗により前秦に朝貢する事が出来たのでしょう。
高句麗が新羅の外交に介入していた事も窺い知ることが出来ます。
高句麗は北朝の前秦に新羅と共に朝貢し、ここにおいて東晋、倭国、百済と前秦、高句麗、百済のブロックが誕生しました。
空白の150年の後期は東アジアの同盟関係の構築の時期であったとみる事が出来ます。
それと同時に神功皇后の三韓征伐にある様に、空白の150年の日本の標的は新羅だった事でしょう。
戦いの構図で言えば東晋対前秦、百済対高句麗、倭国対新羅だったと見受けられます。
空白の150年・末期
前秦の崩壊
前秦は370年に前燕を滅ぼしただけではなく、376年には前涼を滅ぼしました。
鮮卑の国である代を従属させ、中国の北半分は前秦が手に入れ天下統一の動きを見せたわけです。
この時期に高句麗は流民を受け入れるなど勢力を拡大し、再び南下を始め百済と戦いを繰り広げる事になります。
383年に前秦は皇帝の苻堅が自ら総大将となり南下しますが、淝水の戦いで東晋の謝玄に大敗北を喫しました。
これにより前秦は急激に衰え苻堅も殺害され、394年には呆気なく滅亡しています。
前秦の勢力後退は高句麗の勢力拡大を意味し、高句麗は遼東で後燕と戦いを繰り広げる事になります。
騎馬隊の恐ろしさ
391年に高句麗では広開土王が立ちました。
この年に百済の重要拠点である開弥城を陥落させ百済に対し優位に立ちます。
百済は高句麗に奪われた城の奪還に動きますが、上手くは行かず逆に広開土王は百済への攻勢を強め百済を従属させる事に成功しました。
百済は高句麗に臣従しながらも、倭との関係を強め勢力奪還を企てる事になります。
こうした中で399年に倭軍は新羅を討ち、新羅は高句麗に救援を要請しました。
高句麗は歩兵と騎兵合わせて5万を率いて、新羅の救援に赴き、広開土王碑によれば倭軍は退却するも高句麗軍に蹴散らされたとあります。
当時の日本軍には歩兵しかおらず、それに対し高句麗は重装騎兵まで持っており、日本軍は敵に対処する事が出来ず敗北したとも考えられるはずです。
400年に起きた倭国と高句麗の戦争が日本に騎馬隊をもたらす決起になったともされています。
倭国軍による帯方郡への侵入
広開土王碑によると、倭国の軍が404年に帯方郡に侵略したとあります。
帯方郡は百済の領地を飛び越えた場所にあり、日本軍は船で帯方郡まで行った事は確実でしょう。
日本側としては陸の戦いでは騎馬隊を持っている高句麗には勝てないと考え、船を使っての戦いを挑んだ可能性もあります。
広開土王碑では、広開土王が自ら兵を率いて日本軍と戦い日本軍が壊滅した事になっていますが、真実は不明な部分もあります。
大和王権の軍は帯方郡の近辺で略奪したり捕虜を連れ去り戦果を挙げた可能性はありますが、最終的には撤退した事は明らかでしょう。
騎馬隊の恐ろしさを知った大和王権は、馬や育成の為の技術、馬具などをセットで日本で導入していきました。
空白の150年の末期に起きた高句麗との戦争により、日本にも馬の技術が導入されて行く様になります。
尚、過去には騎馬民族が日本に大挙して訪れたとする「騎馬民族征服王朝説」の流行もありましたが、現在では荒唐無稽の説として多くの学者から否定されています。
空白の150年末期の象徴とも言える広開土王ですが、412年に亡くなりました。
413年の謎
倭と高句麗の共同入貢説
空白の150年は一般的には、413年に倭国が高句麗と共に東晋へ朝貢を行った事で終わったと考えるのが普通です。
晋書には次の記述があります。
※晋書安帝本紀より(略記)
この年(413年)、高句麗、倭などが貢物を献上した。
これを見ると413年に倭国が高句麗と共に朝貢した様子が書かれています。
さらに、日本書紀の応神天皇の末期にあたる37年に次の記述が存在します。
※日本書紀 略文
応神天皇の37年に阿知使主と都加使主を呉に派遣し、高句麗王が久礼波と久礼志に道案内させた。
これにより呉に辿り着く事が出来た。
日本書紀では呉とありますが、三国志の呉があった場所を東晋は本拠地としており、呉が東晋を指す事は明らかでしょう。
日本書紀の記述を見る限りだと、日本と高句麗の使者が共に東晋に行っている事から、晋書の記述と合致しています。
これらの事を考慮すれば413年が応神天皇の37年頃だったとも考える事が出来るわけです。
高句麗と倭国が同時に朝貢した説を「共同入貢説」と呼んだりもします。
高句麗が嘘を述べた説
ただし、広開土王碑を見ると分かる様に、倭国と高句麗は激闘を繰り広げており、何故、急に懇意の仲になってしまったのかという問題もあります。
晋書の義熙起居注によると、次の記述があります。
※晋書義熙起居注より
倭国がテンの毛皮と人参を献じた。
テンは北海道には生息していましたが、当時の大和王権の勢力範囲での特産物ではなく高句麗の特産物だと言ってもよいでしょう。
人参は朝鮮人参を指し、朝鮮半島やロシアの沿岸など高句麗の勢力範囲での産物です。
これらを考えると、空白の150年の末年である413年に倭国は東晋に入朝してはおらず、高句麗での単独朝貢だったのではないかとも考えられます。
413年には倭国は朝貢してはおらず、高句麗側が自分を大きく見せる為に、倭国の者を引き連れて入貢したとする説です。
倭国が東晋に献上した品物を考えれば、倭国が朝貢したとするのには違和感があります。
梁書と413年
空白の150年の終わりとも言える413年に関する記述は梁書にもあり、次の様に記載されています。
※梁書倭伝より
晋の安帝の時代に、倭王讃がいた。
記録が残る限りでは倭国が東晋の安帝の時代に朝貢したのは、413年しかなく梁書を見る限りでは413年で空白の150年は終焉を迎え、倭の五王の時代に入った事になっています。
ただし、梁書の著書である姚思廉は、元の資料に整合性を取る為に手をかなり入れた話しがあり、413年に朝貢した誰なのか分からない倭国の人物を倭王讃としてしまったなどの説もあります。
梁書の記述から倭王讃は応神天皇とする説もありますが、どちらかと言えば仁徳天皇の方が合致する様に感じています。
413年の倭国の東晋への朝貢は、記録上のミスか高句麗によるでっち上げだと考えた方が無難でしょう。
空白の150年の終焉
西暦421年に倭王讃が宋に朝貢した話があります。
宋の始祖となる劉裕は禅譲により、東晋から帝位を譲り受けています。
皇帝となったばかりの宋の劉裕としては、海外からの朝貢は自分の権威付けの為にも願ってもない事だったはずです。
既に高句麗や百済は東晋の時代から南朝に朝貢しており、倭国もライバル国に遅れを取らない為にも朝貢を行ったと考える事が出来ます。
朝鮮半島支配を盤石にしたい大和王権が朝鮮半島での権威付けの為に、宋を利用しようとした事は明白でしょう。
空白の150年は倭王讃の朝貢により終焉を迎えたと言えます。
ここから先は、海外から見た倭国は倭の五王の時代に突入する事になります。
尚、倭王讃の「讃」の文字には「褒め称える」「明らかにする」などの意味があります。
自分から名乗らねば卑弥呼の名前に代表する様な「卑」などの文字が使われてしまう事を考慮し、自ら倭王讃と名乗ったとも考えられている状態です。