名前 | 王平(おうへい) 字:子均 別名:何平 |
生没年 | 生年不明ー248年 |
時代 | 三国志、三国時代 |
主君 | 張魯→曹操→劉備→劉禅 |
年表 | 228年 街亭の戦い |
231年 祁山の戦い | |
234年 南谷口の戦い | |
244年 興勢の役 | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
王平は正史三国志に登場する武将であり大半は蜀に仕えた武将です。
王平は長く母方の姓を使った何平と名乗っていましたが、途中から王平に改名しています。
しかし、ここでは混乱を防ぐ為に、全て記載は王平で統一しました。
王平は街亭の戦いで馬謖が山の上に陣を布いた事に対し、反対し諫めた話は有名です。
街亭の戦いで敗れはしましたが、見事な撤退戦を演じました。
因みに、上記の画像はコーエーテクモゲームスさんの三国志13の王平の画像ですが、街亭の戦いでの王平の姿を描いたのでしょう。
誰が見ても直ぐにシーンを思い浮かべる事が出来る見事な画力だと感じました。
王平は街亭の戦い後も、諸葛亮の第四次北伐や興勢の役でも活躍しています。
蜀軍の中では「前に王平、句扶あり。後に張翼、廖化あり」とまで言われ、蜀の誰もが認める代表的な将軍となりました。
尚、三国志演義では王平と徐晃の仲違いした話や南蛮征伐への参加、諸葛亮が亡くなる時に馬岱などと共に忠義に武将として名が挙がった話があります。
しかし、この3つの話は正史三国志にはなく架空の話だと考えられています
因みに、正史三国志には黄李呂馬王張伝があり、この中に王平伝が収録されています。
黄李呂馬王張伝に名が挙がる人物は下記となっています。
王平の出自
王平は正史三国志によれば字は子均であり、益州巴西郡宕渠県の出身だとあります。
ただし、王平は漢人と板楯蛮(賨族)のハーフだったのではないか?とする説があります。
板楯蛮は戦国時代の秦の歴史にも登場し、勇猛果敢な民族として有名でした。
板楯蛮と王平の関係が強いとされる理由は、板楯蛮の本拠地が出身地の宕渠だった為です。
正史三国志によれば、王平は少年時代に軍の中で育った記述があります。
後漢王朝では募兵により軍隊を作るのが当たり前であり、子供が軍隊に入って戦うなど殆どなかったわけです。
それを考えると、王平は板楯蛮の中で軍事訓練を受けながら育ち、子供の頃から従軍し軍隊の中で育ったのではないか?とする説に繋がります。
さらに、王平は杜濩、朴胡について洛陽に行った話があり、朴姓は板楯蛮の有力者の姓であった事から、王平にも板楯蛮の血が流れているのではないか?と考えられた為です。
劉備に仕える
この時に板楯蛮の杜濩、朴胡が曹操に帰順する事になります。
張魯に従っていた王平が、この時に曹操配下に移ったとされています。
王平は杜濩、朴胡と共に都に行き、曹操から校尉に任命されました。
校尉になった事を考えると王平は、杜濩や朴胡の配下の中でも、厚遇されていた人物だったのでしょう。
王平は校尉になりますが、この間にも劉備と曹操の軍が戦っており、法正や黄忠の活躍もあり定軍山の戦いで、守将の夏侯淵を斬り漢中は劉備陣営のものとなりました。
曹操は自ら救援に行きますが、この時に杜濩、朴胡の配下として王平がいたわけです。
劉備軍は要害に籠り曹操と戦おうとせず、曹操の軍でも兵站を繋げる事が出来ずに撤退する事になります。
杜濩と朴胡の軍は黄権に打ち破られ、王平は劉備に降る事になります。
劉備は王平を牙門将・裨将軍に任命しました。
裨将軍は将軍の名前は付いていますが、正式な将軍に比べると一段下のポジションだとも言えます。
王平は劉備に仕えましたが、夷陵の戦いや諸葛亮の南蛮征伐などに参加した記録はありません。
劉備に降伏した所から街亭の戦いまでの記録がなく、何をしていたのかも分からない状態です。
しかし、王平の名が一躍轟く事になります。
街亭の戦い
正史三国志の王平伝によると、建興6年(228年)に、王平は参軍馬謖の先鋒隊になったとあります。
この時は諸葛亮の第一次北伐であり、諸葛亮としては理論はあっても実践経験が乏しい馬謖を、実戦経験が豊富な王平に補佐させるなどの思惑があったとも言われています。
三國志演義では街亭の戦いで王平は馬謖の副将となっていますが、正史三国志の記述を見る限りでは、王平は馬謖配下の将軍の一人でしかなかった様です。
さらに言えば、王平は将軍どころか部隊長の一人だったとも考えられています。
街亭の戦いが勃発するわけですが、総大将の馬謖は山の上に布陣し、王平だけが馬謖を諫める事になります。
しかし、王平は何度も諫めますが、馬謖は聞く耳を持たず山の上に兵を配置しました。
馬謖は一般的には理論だけで実践を知らない兵法家と言われますが、実際には街亭の地形から兵法書で考えれば、山の上に陣を置くのが最適だと述べる人もいます。
馬謖の山上布陣に関しては、専門家の間でも意見が割れます。
王平が馬謖の山上布陣に反対した理由ですが、後漢書や華陽国志には下記の記述があります。
※後漢書 華陽国志
賨族(板楯蛮)の多くは川を左右にして暮らし、生まれつき頑強で勇敢である
王平が出自が板楯蛮であるならば、元々は川の付近に住んでおり川の周りでの戦闘を熟知していた事になるでしょう。
王平は中華の兵法とは違った視点を持っており、馬謖に対しただ一人異議を唱えたとも言えます。
しかし、この時の王平の立場は低く、理論の塊でもある馬謖を諭すだけの弁舌も持っておらず、王平の発言を聞き入れられる事はありませんでした。
この後に馬謖は戦うわけですが、張郃と戦って敗れたとも敵前逃亡したとも言われている状態です。
ただし、街亭の戦いで蜀軍が敗れた事は確かであり、こうした中で奮戦したのが王平となります。
正史三国志の王平伝には下記の記述が存在します。
※正史三国志 王平伝より
街亭の戦いで大敗北を喫する事になった。
軍兵は悉く四散したが、王平の指揮下の千人だけは、陣太鼓を打ち鳴らし踏みこたえた。
魏の大将である張郃は伏兵がいるのではないか?と怪しみ近づこうとはしなかった。
王平は徐々に残留兵を収容し、将兵を率いて帰還するに至った。
上記の記述から敗戦の中で王平が見事な指揮を見せ、完璧とも言える撤退戦を演じた事が分かります。
夷陵の戦いでも敗戦の中で向寵だけが無傷で撤退した話があり、向寵と同等かそれ以上の撤退戦を見せたのでしょう。
亭侯となる
これが泣いて馬謖を斬るの話です。
さらには、馬謖配下の張休、李盛を処刑し黄襲らは兵を取り上げられています。
多くの諸将が処罰される中で諸葛亮は王平だけは評価し、王平伝には次の記述が存在します。
※正史三国志 王平伝より
王平だけには特別に敬意を払い、参軍の官を加え五部の兵を統率させ軍営の仕事にあたらせた。
討寇将軍に位をあげ亭侯に封じた
街亭の戦いは大敗北でしたが、結果として王平は正式に将軍になったとも言えるでしょう。
王平は見事な戦いぶりを見せ諸葛亮はしっかりと評価したとも感じました。
尚、王平が率いる部隊は「飛軍」と呼び、別名として「無当」と呼ばれる事になります。
向かう所敵なしから名前が付けられたとも言われています。
飛軍、無当を指揮する王平は無当監と呼ばれました。
張郃を破る
諸葛亮の第四次北伐があり、王平も参戦した記録があります。
この時に魏の曹真は既に亡くな、魏の司令官は司馬懿となっていました。
正史三国志の王平伝によると、231年に諸葛亮が祁山を包囲したとあります。
この時に王平は諸葛亮の本体とは別行動をしたようで、南営を守ったと記録されています。
これまでの北伐では兵站を繋げる事が出来ず、諸葛亮は木牛流馬を考案し食料を運びました。
諸葛亮は魏の郭淮、費耀らを破り、周辺の麦を刈り取るなどの戦果を挙げています。
司馬懿が援軍に来ると諸葛亮の本体は司馬懿と対峙しました。
司馬懿の別動隊として張郃がおり、王平がいる南営を攻撃する事になります。
王平としては街亭の戦いでの宿敵であった張郃が相手であり、感慨深いものがあったはずです。
尚、この時に魏軍の中では、張郃の意見を司馬懿が悉く却下し仲違いしていた話しもあります。
司馬懿の軍は諸葛亮の本体に敗れ後退し、持久戦の構えを見せました。
王平と張郃は戦いますが、正史三国志に「王平が守りを固めて動かず、張郃は勝利を得る事が出来なかった」とあります。
当時の蜀で最も警戒されていたのが張郃だった話もあり、魏で最強クラスの武将に対しても王平は一歩も退かずに戦った事になるでしょう。
しかし、長雨などの影響もあり、蜀の李厳が兵站を繋げる事が出来ず、蜀軍は撤退しました。
尚、撤退する蜀軍に対し司馬懿は張郃に追撃を命じますが、張郃は木門谷で蜀軍の伏兵に遭遇し討ち取られています。
張郃は射殺されましたが、王平が関係しているのかは記録がなく不明です。
仮に王平が張郃討死と関わっているのであれば、馬謖の仇を取ったとも言えるでしょう。
魏延との戦い
234年の五丈原の戦いで、諸葛亮が没し蜀軍は撤退する事になります。
しかし、蜀将の魏延だけは納得せず、魏軍との戦いの継続を訴えますが、魏延だけが取り残され、楊儀が中心となり蜀軍の撤退が始まりました。
魏延は反感を持ち先回りし、蜀軍の本体に戦いを挑みます。
楊儀率いる蜀軍本隊の先鋒となったのが王平であり、魏延の軍と戦う事になります。
これが南谷口の戦いです。
魏延伝にこの時の話があり、王平は魏延に次の様に述べています。
※正史三国志 魏延伝より
王平「公(諸葛亮)が亡くなり体もまだ冷えていないのに、お前たちがこんな事をするとは何事だ」
王平の一喝を受けた魏延の兵は非が魏延にある事を知っており、皆が逃亡してしまったとあります。
王平伝には魏延と戦った時に「一戦で打ち破ったのは王平の手柄」だと記載されています。
尚、魏延伝だと南谷口の戦い時に王平の名前がまだ何平となっており、王平は諸葛亮が生きている間は、何平を名乗っていたのでしょう。
王平は功績により、後典軍・安漢将軍となり、呉懿の副将として漢中に留まり漢中太守も兼任する事になりました。
この時に名前を何平から王平に変えたのではないか?とも考えられています。
蔣琬政権
呉懿が237年に没すると、安漢侯に昇進し督漢中に任命されています。
王平は普通で考えれば漢中を任された事になりますが、蔣琬が漢中で大将軍府を開いた事で、王平は蔣琬の元で働く事になります。
238年に王平は前護軍となり、蔣琬の幕府の事務を司ったとあります。
王平は文字が殆ど書けなかったので、口頭で伝え部下に文章を作らせたのでしょう。
ただし、王平の出す文章は全て筋が通っていたとあります。
しかし、蔣琬による北伐は行われず、蔣琬は病により涪に移りました。
この時に蔣琬は姜維を涼州刺史として北方を任せ、費禕には大将軍・録尚書事の職を譲っています。
王平は前監軍・鎮北大将軍となり漢中を任せられる事になります。
興勢の役
魏では239年に曹叡が崩御しており、曹芳の時代となっていました。
この時に魏では曹爽と司馬懿の二派に分かれており、大将軍・曹爽が10万を超える大軍で蜀遠征を敢行したわけです。
この戦いを興勢の役と呼びます。
王平の漢中守備隊は兵力が三万ほどしかおらず、圧倒的に不利な状態だったと言えます。
王平の部下の中には、軍を後退させ漢・楽で魏軍と対峙し関城を守り、涪城にいる姜維ら蜀軍の援軍を待つべきだと進言した者がいました。
しかし、王平は次の様に述べました。
正史三国志 蜀書王平伝より
王平「あなたの言う事は間違っている。涪城から漢中までは千里もあるはずだ。
賊軍(魏軍)が関城を手に入れる様な事があれば、それこそが禍の種となる。
今やるべき事は劉敏と杜祺を派遣し興勢山に兵を入れ、私が後方の備えに当たるべきだ。
もし敵が兵を分散し、黄金谷に向かって来たのであれば、私が千人を率いて自ら決戦を致す。
こうして時間を稼ぐ事が出来れば、涪からの援軍も到着するはずだ。これが上計と言うべきであろう」
王平の意見に多くの者が難色を示した様ですが、護軍の劉敏だけが賛同し、作戦は直ぐに行動に移されました。
興勢山の戦いでは劉敏と杜祺も、蜀軍を大軍に見せかける為の工夫を行い、魏軍の足止めに成功しています。
王平の読みは的中し蜀の大将軍・費禕までもが成都から兵を率いて救援に来ました。
これにより蜀軍の防衛ラインは完成し、魏軍に付け入る隙は無くなってしまいます。
魏の方でも兵站に不安があり、結局は撤退する事になり、興勢の役は蜀軍勝利に終わりました。
興勢の役での勝利の立役者は王平だと言えるはずです。
王平伝によれば、この頃の蜀では東方に鄧芝、馬忠が南方、王平が北方におり、いずれも優れた功績を挙げたと記述されています。
この頃の王平は蜀を代表する将軍となっていた事の証明になるでしょう。
ただし、興勢の役が記録の上で王平の最後の戦いとなりました。
尚、姜維伝の記述によれば、興勢の役で王平が魏軍を撤退に追い込む事が出来たのは、魏延が構築した防衛施設があったからだとも記述されています。
王平の人柄
正史三国志の王平伝の記述だと、興勢の役の記録の後に王平の人柄に関しての記録があります。
先に述べた様に王平は殆ど文字が書けず、口述で文章を作成した話も記載されています。
ただし、王平は文字は書けなくても「漢書」や「史記」などの書物を人に読ませ、それらを聞き本紀や列伝の話は分かっていた話があります。
さらに、史記や漢書に関しての論評を行っても的確で、本筋から外れる事は無かったと記載されていました。
王平は単なる武人ではなく、文字は読めないとはいえ学問を好んだ人でもあるのでしょう。
王平の勤務態度は法律・規則を遵守し冗談などは一切口にしなかったとあります。
朝から晩まで一日中姿勢を崩さず座ったり、武将という感じはしなかったとも書かれていました。
それでいて性格は偏狭で疑い深く軽はずみで、それらが欠点となっていたとあります。
法律遵守の姿勢や偏狭などを考えると、王平には于禁の様な部分もあったのかも知れません。
文字が読めない事も本人にとってみれば劣等感だった可能性もあります。
王平は248年に亡くなり子の王訓が後継者になったとあります。
華陽国志に王平死後の話があり、張翼と廖化が高い将軍位を得た時には「前に王平、句扶あり。後に張翼、廖化あり」と噂した話があります。
王平は性格的に至らない部分もあったのかも知れませんが、蜀の代表的な将軍と言えば王平だったのでしょう。
尚、王平と一緒に語られた句扶ですが、忠誠心と寛大な人柄を評価された武将でもあり、王平に次ぐ爵位と巧妙を得たとあります。