連環の計は、三国志演義で有名になった計略とも言えます。
龐統が赤壁の戦いで曹操を相手に使ったり、王允が義理の娘である貂蝉を使った計略としても有名です。
連環の計はイメージから鎖を連ねたから連環の計とか、貂蝉が呂布や董卓と連ねたから連環の計などのイメージが強い様に思います。
しかし、本来の連環の計は、兵法三十六計の三十五にあり、何重にも計略を重ねて行く事を指します。
今回は、本当の連環の計の意味と、三国志演義を題材に実用例を解説します。
兵法三十六計における連環の計
連環の計は兵法三十六計の中にあり、兵法三十六計が何かを解説します。
檀道済の三十六の計略
南朝宋の時代に檀道済(たんどうせい)という武将がおり、三十六の計略を使い、特に逃げるのを得意としていました。
逃げるのが得意な武将と言うと、弱将に感じるかも知れませんが、実際の檀道済は名将と言っても差し支えない武将です。
檀道済は西暦436年に、宋の文帝により処刑されますが、この時に「自ら万里の長城を破壊するのか。」と言った事は有名です。
檀道済に36の計略があった話に基づき、明末期から清初の頃に成立したのが、兵法三十六計となります。
著者は分かっていません。
兵法三十六計は、孫武が著者とされる孫子などに比べると、地味な存在であった事から評価されませんでした。
しかし、中国兵法を上手くまとめられている事から、20世紀になり再評価されています。
連環の計
兵法三十六計の中身は、6つに分類されています。
・戦勝の計
・敵戦の計
・攻戦の計
・混戦の計
・併戦の計
・敗戦の計
この中の「敗戦の計」の中に、連環の計が入っているわけです。順番で言えば35番目の計となり、兵法三十六計の中でも最後から2番目の計略となっています。
連環の計は単独の計略では十分に効果が得られない時に、2重、3重、4重と計略を発動していきます。
段々と計略の効果が出て来ると、敵は消耗する事になるわけです。
さらに、兵法三十六計の連環の計では次の様な記述もあります。
「敵軍が多い時は、まともにぶつかってはならない。敵を自ら疲弊させ、勢いを削ぐように努めるべきである。
軍中にあって適切な計謀を使うのは良い事であり、天の寵愛を受ける事が出来る。」
これを見ると連環の計は、敵兵が多くて正面から戦っても勝ち目がない時に、連環の計を使うのがよいとされています。
兵法三十六計の最後は「逃げる」なので、連環の計が最後から二番目の計略だという事も納得できます。
一つの計略で終わるのではなく、計略を組み合わせる事が大事だと諭してくれるのが、連環の計となります。
王允の連環の計
三国志演義で王允が使った連環の計を見てみたいと思います。
連環の計を使った背景
王允が連環の計を使った背景ですが、後漢王朝は董卓の一族に牛耳られていました。
王允は三公の一つである司徒の位にいましたが、董卓を苦々しく思い排除したいと思っていたわけです。
しかし、董卓の護衛は最強の武将とも呼べる呂布がいて、董卓に危害を加える事も出来ませんでした。
ここで考えたのが連環の計であり、幾つもの計略を重ねて行く事になります。
美人の計
兵法三十六計の中の31番目に「美人の計」があります。
王允は義理の娘である貂蝉の美貌に目を付けて、貂蝉の美貌で呂布と董卓を仲違いさせようとします。
美人を使った計略は、韓非子の書物にも書かれており、春秋時代に孔子が魯の政治を行うと国がよく治まります。
隣国の斉は、これを憂えると斉の景公に、魯の哀公に女性の歌舞団を送る様に臣下が進言します。
すると、魯の哀公は歌舞団に夢中になり政治を怠り、孔子は魯を出奔する事になったわけです。
他にも、晋の献公が虞を征伐する時に、最初に二人の美女と財宝を贈り、敵を油断させてから滅ぼしています。
越王勾践の配下である范蠡も、敵国の呉王夫差を腑抜けにさせる為に、西施を送り込んだ話があります。
この様に美女を使った計略を「美人の計」と呼び、王允は連環の計の最初の計略として貂蝉を使った美人の計を行っています。
尚、美人の計を使われたわけでもないのに、夏の桀王は末喜の虜となり、殷の紂王は妲己にハマり、周の幽王は褒姒に夢中になり、国を滅ぼした話があります。
美女と言うのは、使い方によっては絶大なる効果を上げる事が出来るのでしょう。
離間の計
貂蝉は董卓と呂布の仲を裂く様に仕向けます。
貂蝉は呂布と董卓の両方に好意を見せたわけです。
呂布には自分は「呂布の事を愛している」と伝えながらも、董卓の前では董卓に好意を見せつつ「乱暴者の呂布は嫌いだ」と述べます。
董卓と呂布は貂蝉により関係が決裂して行く事になります。
董卓の軍師である李儒が、董卓と呂布の仲を取り持とうとしますが、上手く行きませんでした。
董卓と呂布の関係を見た李儒は「我らは婦人の手で命を落とす事になるのか。」と嘆いた程です。
王允の連環の計の仕上げが離間の計であり、呂布は董卓を殺害し、王允の目的は果たされる事になります。
三国志でも賈詡が馬超と韓遂を離間させたり、荀彧が曹操に進言した「二虎競食の計」や「駆虎呑狼の計」も離間の計です。
赤壁の戦いでの連環の計
三国志演義の赤壁の戦いで、龐統が連環の計を使った事で有名です。
しかし、実際は龐統、周瑜、黄蓋の計が組み合わさった連環の計だとも言えます。
赤壁の戦いで連環の計を使った背景
曹操は西暦200年に官渡の戦いで袁紹の軍を破り、中原の覇者となり、中華で最大の勢力にのし上がる事になります。
さらに、曹操は荊州を治めていた劉表が亡くなった事で、南下を始め劉琮を降伏させ荊州も手に入れています。
こうした中で、呉の孫権は張昭ら降伏派の意見を抑え、周瑜と魯粛の意見に従い、劉備と手を結び曹操軍と戦う決意をしたわけです。
圧倒的な曹操の大軍を前にして、周瑜が都督となり曹操と赤壁で対峙する事になりました。
赤壁の戦いでは、呉軍は兵士の数で圧倒的に劣っていたと伝わっています。
こうした中で、龐統、周瑜、黄蓋の連環の計が発動する事になります。
船を鎖で繋ぐ
周瑜は曹操軍を焼き討ちにする事が狙いでした。
しかし、火計で高い効果を出すには、船を繋ぐ必要があったわけです。
曹操軍はこの時に、兵士達の船酔いに悩まされている状態でした。
この状態で龐統は曹操に会いに行き、船酔い防止のために、船を鎖で繋ぎ大地とする事を進言します。
曹操は龐統の言葉を信じ、船を鎖で繋く事にしたわけです。
因みに、龐統の策略を曹操陣営にいた徐庶が気付きますが、徐庶は曹操の為に尽くす気持ちが無かった事から戦場を離脱しています。
これが赤壁の戦いによる連環の計の始まりであり、龐統の活躍で曹操軍は船と船を繋ぎ合わせた状態になります。
反間の計
三国志演義では蔡瑁が曹操に降伏しますが、曹操は蔡瑁や張允を処刑してしまった話があります。
蔡瑁の親戚である蔡中や蔡和は、呉軍に寝返りますが、埋伏の毒であり偽りの投降だったわけです。
周瑜は蔡中、蔡和を上手く使い、偽りの情報を曹操陣営に流す事に成功します。
赤壁の戦いにおける連環の計の2番目の策は反間の計となります。
尚、反間の計に対しては、秦の始皇帝が李斯や尉繚の策で他国の大臣を買収し、幽穆王が李牧を処刑したりもしていますし、歴史を見ると度々使われています。
苦肉の計
赤壁の戦いで、連環の計の最後を締めくくるのが苦肉の計であり、苦肉の策と呼ばれる事もあります。
黄蓋がわざと周瑜に対して、文句を言い、激怒した周瑜は黄蓋に鞭を打つ事になります。
黄蓋は「呉の群臣たちは本来は戦う気が無かったのに、周瑜と魯粛のせいで戦いになった。」と述べ、自分は曹操に降伏するつもりだ。と書簡を送ったわけです。
曹操は黄蓋の事を信用する事になります。
これで火計を実行する最適な状況が整い、黄蓋は先頭を切って降伏と見せかけ、曹操軍に突っ込み火計を仕掛ける事になります。
赤壁の戦いは「龐統が船を鎖で繋ぐ」→「反間の計で偽情報を流す」→「周瑜が黄蓋の苦肉の計」のコンボが連環の計となっています。
連環の計とは、複数の計略が重なった計略と考えればよいでしょう。
先に話した様に、連環の計でもダメなら、三十六計の最後である「逃げるしかない」となるわけです。