左豊は後漢書や資治通鑑に登場する宦官です。
歴史書に左豊が登場するのは一回だけであり、黄巾の乱の時に霊帝の命令で盧植の元に行った時だけとなります。
ここで左豊は盧植から賄賂を貰えると考えていましたが、得る事が出来ませんでした。
左豊は盧植に対し恨みを抱き、盧植を讒言する事となります。
左豊の讒言により盧植は解任され、逮捕され都に送られる事になりました。
今回は宦官で小黄門になった左豊を解説します。
尚、宦官と言っても曹騰や呂強の様なまともな人物もいますが、左豊は余計な事をした悪い方の宦官だと言えるでしょう。
盧植の軍を視察
黄巾の乱が勃発しますが、洛陽の守備は何進が行い皇甫嵩、朱儁、盧植が将軍となり鎮圧に向かいます。
張角の黄巾党本隊と戦っていたのが、盧植であり優勢に戦いを進めていました。
霊帝は盧植の様子を探らせる為に、宦官の小黄門左豊に視察に行って来るように命じました。
これにより左豊は盧植の陣に向かい、左豊自身は盧植から賄賂を貰えると考えていたのでしょう。
盧植の側近の中にも、左豊が賄賂を望んでいる事を察知し、盧植に左豊に賄賂を渡す様に進言した者もいました。
しかし、盧植は剛毅な性格をしており、無官にも関わらず竇武を諫める手紙を送ったり、後には董卓が相手でも一歩も退かず言い合いとなります。
こうした盧植が左豊に対し、賄賂を贈り身を屈するはずもなく、左豊に賄賂を握らせなかったわけです。
左豊の讒言
盧植から賄賂を得る事が出来なかった左豊は、盧植を恨みました。
左豊は霊帝の元に戻ると、次の様に報告しています。
左豊「広宗の賊は簡単に破る事が出来ます。
しかし、盧中郎(盧植)は塁で軍を休ませ、天誅が下るのをまっているだけです」
左豊は黄巾賊に攻撃をすれば打ち破れるのに、盧植は防備を固めるだけで、何もしていないと報告した事になります。
左豊の言葉を聞くと霊帝は激怒し、盧植を檻車で呼び戻しました。
盧植は張角を追い詰めており、黄巾の乱で最大の功労者になれるはずが、一転して罪人となってしまいます。
それでも、霊帝は死一等を免じたとあり、盧植を処刑しませんでした。
盧植は張角を相手に善戦し、黄巾賊1万を斬った記録もあり、功績を評価したのでしょう。
左豊の讒言により指揮官が盧植から董卓に変わりますが、董卓も張角の本隊を倒す事が出来ず、結局は皇甫嵩が張梁や張宝を倒し黄巾の乱を平定しました。
尚、左豊は霊帝への報告の中で「天誅が下るのを待っている」とする言葉がありました。
本当に天誅が下ったのか、張角は黄巾の乱の最中に病死しています。
これは偶然の一致としてもよいでしょう。
因みに、左豊がこの後にどうなったのかは不明です。
後に袁紹が宮中になだれ込み宦官を皆殺しにした事があり、盧植も協力しました。
左豊がどうなったのかは分かりませんが、この時に命を落した可能性もある様に思います。