山陽の戦いは漫画キングダムで有名になったのではないでしょうか。
キングダムでは秦の蒙驁が魏の廉頗を破った戦いとして記録しています。
山陽の戦いを架空のものだと考える人もいますが、史記の始皇本紀を見ると秦の蒙驁が山陽を攻撃し陥落させた記述が存在します。
それ故に、山陽の戦いは実在したと考える事が出来ます。
今回は山陽の戦いの史実がどの様なものなのかを徹底検証してみました。
山陽の戦いは史実なのか
キングダムの山陽の戦いを見ると、始皇五年に魏の山陽地方一帯を攻略する為に、20万強の兵を出した事になっています。
秦は魏の山陽を奪取し東郡を設置する為の戦いとなっているわけです。
史記には次の様に書いてあります。
※史記より
始皇五年、将軍の蒙驁が魏を攻撃し、酸棗、燕・虚・雍丘・山陽城を平定し、すべて陥れ二十城を取り、始めて東郡を設置した。
上記の記述を見ると山陽城を奪った記録もあり、史実でも山陽の戦いはあったと考えるべきでしょう。
さらに、キングダムでは李信、王賁、蒙恬らが競って城を落していますが、史記の記述を見る限りでは、陥落させたのは山陽だけではなく、二十程の城を奪っているのであり、これもあながち間違っているとは言えないはずです。
当然ながら細かい部分は史実とは言えないかも知れませんが、幾つかの城を落し山陽の戦いが起きると言うのは、間違いでもないと感じました。
魏が秦を攻めた理由
キングダムの山陽の戦いを見ると、魏が山陽付近の地を魏から奪い東郡を設置する為の戦争という事になっています。
これを見ると「領地が欲しいから戦争した」となり、征服戦争になるはずです。
史記には魏公子列伝にも山陽の戦いの事が書かれてあり、魏公子列伝では魏の信陵君が亡くなった事で、秦は蒙驁に魏を攻めさています。
キングダムでは蛇甘平原の戦いで登場した呉慶は、信陵君の元食客という設定になっています。
信陵君は戦国四君の一人であり嬴政が秦王になったのと同じ位に、合従軍を率いて秦を攻撃し蒙驁を多いに破った人物です。
信陵君は天下に名声があり、秦としては警戒すべき人でした。
しかし、信陵君は異母兄の魏の安釐王と不仲となり、生活は乱れ酒浸りになっていますが、遂に亡くなり秦は蒙驁に攻撃命令を下した事になります。
キングダムでは描かれていませんが、山陽の戦いが勃発した理由は、魏の信陵君が亡くなった事が原因だとも考える事が出来ます。
山陽の位置
キングダムには山陽の場所が書かれており、下記の様な感じになっています。
キングダムの図からは魏の領土の端の方を取るイメージとなるはずです。
しかし、史実で考えれば、蒙驁が魏を攻める前の領土は、次の様になっています。
(画像:YouTube)
図は紀元前243年頃の戦国七雄の勢力図ですが、韓は風前の灯火であり、魏も国としてかなり苦しい状態にいる事が分かるはずです。
山陽の場所は魏の北部であり、斉に近い地域だったと言えるでしょう。
さらに言えば、弱小の魏に大国の秦が攻撃した戦いでもありました。
山陽の戦いで参戦した指揮官たち
秦の諸将
キングダムを見ると山陽の戦いでも指揮官は蒙驁となっています。
先に紹介した史記の記述にも蒙驁が総大将になっていますし、これは事実と考えるべきです。
さらに、キングダムでは桓騎、王翦、李信、蒙恬、王賁、羌瘣なども参戦しています。
これらの武将が山陽の戦いで参戦した記録はありませんが、秦の次世代を担った将軍である事に間違いなく、個人的には山陽の戦いに参戦しても何ら不思議もないと感じています。
蒙驁が亡くなった後に、活躍する武将たちであり、蒙驁の副将として戦場にいたとしても何ら不思議はないでしょう。
尚、キングダムの設定では蒙驁は最初は斉におり、廉頗に負け続けた事になっています。
史記を見ると蒙驁が斉の出身だとは明記してありますが、廉頗に負けたなどの話はなく、斉では戦場に出た記録もない状態です。
そもそも斉は田単が燕を破ってから、沈黙を続けている様な国であり、戦いは非常に少ないと言えるでしょう。
廉頗は山陽の戦いに参戦したのか
キングダムでも描かれていた様に、廉頗が悼襄王により将軍の座を解任され、怒った廉頗が楽乗を攻撃した上で魏の亡命したのは事実です。
廉頗が楽乗を破った後に、悼襄王をダメといい「前の王(孝成王)」も相当じゃった」と述べているシーンがあります。
趙の孝成王は即位した頃に、長平の戦いで廉頗を解任した事実はありますが、後に廉頗は絶大なる信頼を得て相国に任命されています。
それを考えると、孝成王に対してはキングダムの廉頗は「言い過ぎている」とも感じました。
魏に出奔した廉頗ですが、史記の廉頗藺相如列伝には、次の記述が存在しています。
※ちくま学芸文庫 史記列伝より
廉頗は長らく大梁(魏の首都)にいたが、魏に信用されなかった。
「信用されなかった」と言う事は「用いられなかった」という事でしょう。
キングダムだと魏の景湣王の意向もあり、山陽の戦いに参戦していますが、史実でみると廉頗が魏の将軍になったとする記録がありません。
この事は作者である原泰久先生もよく分かっており、キングダムでは廉頗の口から「魏王の信を得られず戦場に立てなかった」とする言葉を入れたのでしょう。
そこで、白亀西が魏の総大将になった事が書かれています。
キングダムはファンタジーとも言われていますが、作者の原泰久先生は極力史実に近い様な話にする為の努力をしている事が分かるはずです。
ただし、廉頗四天王に輪虎、姜燕、介子坊、玄峰の四名がいたと言うのは創作です。
史実の馬陽の戦い
キングダムの馬陽の戦いを見ると、廉頗と蒙驁の因縁は廉頗四天王と秦軍の戦いなど見所が多いと感じています。
実在の人物である王翦や桓騎の軍略なども個性豊かで面白かったと感じた人が多いのではないでしょうか。
しかし、史実の馬陽の戦いを見ると、戦闘の内容がどの様なものだったのかは一切不明です。
史実の馬陽の戦いですが、史記の始皇本紀、魏世家、廉頗藺相如列伝を見ても、秦の蒙驁が魏を攻撃し山陽などの20城を陥落させた事くらいしか記録がありません。
戦いの内容に関しては、記録が一切ないので分からないとしか言いようがないという事です。
しかし、ヒントがあり、先にも示しましたが、下記が馬陽の戦いの前の勢力図です。
これを見ると、既に秦は魏の十倍以上の国力があったと見る事が出来るのではないでしょうか。
夢がない話に思うかも知れませんが、史実の馬陽の戦いは秦が圧倒的な国力を生かして、物量差で魏を押し切った様に感じました。
秦と魏は国力がかなり離れており、同程度の兵数を揃えるのも難しいはずです。
秦が本気を出せば魏の十倍以上の兵を集める事も出来るのではないでしょうか。
馬陽の戦いで勝利した影響
キングダムでは馬陽の戦いが終わった後に、昌平君が山陽の地を東郡としました。
さらに、李斯の元で法治国家を進める事になります。
史記などを見ると「東郡を設置」した事くらいしか書かれていないのが実情です。
ただし、地図を見れば分かりますが、東郡を設置した事で、既に秦の領土は東の斉と接しました。
縦の同盟である合従に秦がくさびを入れた形になります。
合従の同盟は南北に分断されました。
史実でも、この後に楚の春申君や龐煖が主導する函谷関の戦いや蕞の戦いが勃発する事になります。
合従軍が組織された時に、東郡は一旦は魏に取り返されますが、国力は秦が圧倒しており、合従軍が去ると再び奪い返したのでしょう。
秦は天下統一に邁進する事になります。