成蟜(せいきょう)の史実の実績を紹介します。
史実では、盛橋(せいきょう)と書かれたりする事があると、専門家はいいますが、本当に同一人物なのか?は分からない部分もあります。
春秋戦国時代の末期で戦国七雄の攻防を描いた漫画キングダムでは、最初の頃は、血筋の尊さだけを誇る様な、しょうもない男だったのですが、最後は非常にカッコよく描かれていました。
カッコよさがピークに達した頃に、成蟜は死んでしまいガッカリした人も多いのではないでしょうか?
キングダムの成蟜人気の秘密には、妻である瑠衣の存在も大きいでしょう。
今回は、成蟜の史実の実績やどのような人物だったのかを紹介します。
成蟜は嬴政の義弟
成蟜は、史記や戦国策などによれば、後に始皇帝となる嬴政の弟である事は確かなようです。
ただし、母親が違う兄弟のようですし、嬴政が趙で生まれて苦労したのに比べると、秦で生まれて健やかに成長した可能性も高いでしょう。
嬴政は、キングダムなどの漫画ではクールだけど情熱もある人ですが、史実の嬴政を見ると、冷たさもかなり見受けられます。
史記などでは、嬴政は残忍な性格をしているとも書かれているわけです。
嬴政は、趙姫の子ですが、成蟜は腹違いの子で義弟となり警戒される存在だったのかも知れません。
成蟜が生まれた時は、嬴政は趙国に趙姫と共にまだいたはずです。
嬴政が秦に帰って来なければ、成蟜が太子となり次期・秦王になった可能性もあるのでしょう。
しかし、父親である荘襄王は、長男である政を太子として指名しました。
荘襄王は、呂不韋がいなければ秦王になる事は出来ませんでしたし、呂不韋とも関係が深いという事で嬴政を太子としたのでしょう。
尚、この時に嬴政の事を成蟜がどの様に思ったのかは分かっていません。
ただし、成蟜の母親はそれなりの身分の高い女性の可能性もありますが、嬴政の母親は呂不韋の妾のような女性だったわけです。
その事から、秦の貴族たちの間でも納得が出来ない人がいて、成蟜派を結成したのではないか?とも考えられます。
さらに、呂不韋は秦の宰相となったわけですが、元々は商人だった事もあり貴族たちからの反発も大きかったのかも知れません。
そうした秦国内の呂不韋に対する反発の受け皿が、成蟜だった可能性も否定できないでしょう。
成蟜が韓の宰相となる1?
戦国策などによると、盛橋なる人物が秦の昭王の時代に、韓の宰相となり400里の土地を秦に割譲させた記録があります。
この盛橋が成蟜だともされているわけです。
しかし、秦の昭王の没年が紀元前251年であり、成蟜の兄である嬴政の生まれた年が、紀元前259年です。
それを考えると、秦の昭王の没年の話であったとしても、成蟜は8歳にも満たない少年となります。
そのため、成蟜が韓の宰相となり土地を割譲させる事が出来る様な年齢ではないと思われます。
成蟜は名前だけの宰相として、韓に行ったけど交渉に関しては別の人が行った可能性もあるでしょう。
さらに、秦の貴族や大臣達の間に、成蟜に手柄を立てさせたいと考えている一派があり、昭王に画策したのかも知れません。
成蟜が成長した時に、秦王になってもらい恩恵を受けようとした大臣や貴族もいたのでしょう。
もしくは、全くの別人だという可能性も残っているように思います。
ただし、歴史書などでは、成蟜の手柄とも考えられているわけです。
余談ですが、年少で手柄を立てたケースでは、張唐を説得した甘羅もいます。
それを考えれば、戦国時代後期の秦国は少年でも活躍出来る場があった可能性もあります。
尚、秦の王族である成蟜が、隣国である韓の宰相になるのはおかしいのでは?と思うかも知れません。
しかし、中国の戦国時代では、様々な思惑もあり他国人が宰相になる事はよくあった事です。
過去には秦の張儀は魏の宰相となり、秦に有利になるように仕向けていますし、理由があるとは言え斉の孟嘗君も魏などで宰相となっています。
他にも、蘇秦は秦に対抗するためとはいえ、6国(燕・趙・斉・魏・韓・楚)の宰相となった事もありました。
斉で大功を立てた田単も趙の宰相になった記録がありますし、中国の戦国時代ではよくあった事です。
長安君となる
成蟜は、韓の宰相になってから10年以上も歴史から姿を消すわけです。
その間に、成蟜が何をしていたのかもよく分かりません。
しかし、長安君になったとする記述があり、韓の宰相になり土地が割譲された事で優遇されたのかも知れません。
長安君と言うと、劉邦が項羽を破り建国した前漢の首都や、遣唐使で有名な唐の首都である長安を連想させるのではないかと思います。
しかし、ここでいう長安君と言うのは、秦の尊称であり、長安の土地を貰ったわけではないようです。
尚、白起や李牧は武安君の尊称を貰っていますが、共に武安を領地としたわけではありません。
因みに、趙にも孝成王の時代に長安君がいて、斉に人質になった記録が残っています。
しかし、ここでの長安君も成蟜とは別人です。
そもそも、長安は函谷関の内部にあり趙の武霊王の時代や廉頗や藺相如が活躍した時代であっても趙の領土であった事はありません。
成蟜が謀反を起こす
史書によれば、成蟜は軍隊を率いて趙を攻撃しました。
これが紀元前239年の話であり秦王政が即位してから8年目の事だとされています。
しかし、成蟜は秦に背いて謀反を起こした記録が残っています。
キングダムの場合は、成蟜は反乱を起こすつもりが無かった事になっていますが、史書では反乱を起こした人物として名前が残っています。
先にも述べたように、秦には嬴政に反発する派閥があり、それらの人物が心を寄せるのが成蟜で、周りに焚きつけられて反乱を起こした可能性もあるでしょう。
成蟜の趙攻めにはいくつかの説があり、屯留を攻撃して陥落させて、そこで住民をまとめて拠点として反乱を起こした説があります。
しかし、趙の城を陥落させて、すぐに住民をまとめるのは、中々難しいような気もするわけです。
さらに、屯留・蒲鄗の兵士を率いて反乱を起こした話もあります。
成蟜に攻められた趙側の記述が史記の趙世家に残っていて、長安君を饒に封じたという記述があるわけです。
尚、この時の趙王は悼襄王となります。
趙世家の長安君が成蟜を指す可能性もあり、それだと最初から成蟜と趙は内通していて、趙を攻撃する振りをして秦から出撃し、趙に寝返ったとも考えられるわけです。
史実では、嬴政は人間的に冷たく猜疑心が強い性格だった事も描かれていて、成蟜としてみれば嬴政に命を狙われる可能性もあり、亡命の意味も込めて趙に脱出したのかも知れません。
趙としても、もし仮に秦が内側から乱れてくれれば、趙国の力で秦に成蟜を入れて恩を売ったり、成功した時は土地の割譲などの約束があった可能性もあるでしょう。
尚、成蟜が反乱を起こした年は、魏が文侯の時に名臣である西門豹が改革を行い、治水により大きく収穫量を増やした鄴(ぎょう)の地を趙に割譲した年でもあります。
他にも、嬴政の母親である大后(趙姫)の愛人である嫪毐(ろうあい)が長信候となり嫪国を作り、呂不韋に匹敵する権力を得た年でもあります。
秦国内では、呂不韋派になろうか、嫪毐派にするか?でかなり大臣達がせわせわしていた話もある位だからです。
それを考えると、様々な思惑が入り乱れた年でもあり、それらの事実と複雑に絡み合っていて、成蟜も成功する確信があり反乱を起こした可能性もあるでしょう。
しかし、史記や戦国策などの成蟜に関する記述は少なく、詳細が分かっていない事実があります。
ただし、成蟜が屯留で死亡した事は間違いないようですし、反乱は失敗した事実があります。
尚、後に燕に亡命する秦の将軍である樊於期(はんおき)は、専門家によっては成蟜の反乱の時に、成蟜側について嬴政の怒りを買い一族は皆殺しにされて、樊於期は燕に一人亡命したと考える人もいます。
ただし、樊於期に関しては、桓騎(かんき)と同一人物説もあり、その辺りは正確な資料がわるわけではなく、あくまでも想像の域を出ません。
成蟜の乱が失敗した原因
史実の成蟜の乱が失敗した原因ですが、秦国内に内通者がいなかったのが大きいのではないかと思いました。
成蟜の乱の年は、嫪毐も絶大なる権力を持った年でもありますし、成蟜が反乱を起こした時に、嫪毐も同時に反乱を起こすなどがあれば、少しは成功した可能性は高くなるのではないでしょうか?
しかし、嫪毐が反乱を起こすのは、翌年である紀元前240年の事であり、昌平君や昌文君により鎮圧されています。
嫪毐としてみれば、成蟜が秦王になってしまっても何のメリットもありませんし、逆に趙姫が大后ではなくなってしまい権力から滑り落ちる可能性もあったのでしょう。
嫪毐は、趙姫との間に隠し子がいたわけで、そちらを秦王にしたいと思っていたのかも知れませんし、そこが両者が合致しなかった原因なのかも知れません。
さらに、趙が思ったほど役に立たなかった可能性もあるでしょう。
趙は成蟜の乱の2年ほど前に、春申君が率いた合従軍に参加しています。
さらに、連動するかのように龐煖(ほうけん)も趙・楚・魏・燕の精兵を率いて秦の蕞(さい)を攻めた記録があるわけです。
しかし、連合軍は函谷関の戦いや蕞の戦いで敗退していますし、この敗戦の傷がまだ癒えていなかった可能性もあるでしょう。
この時点で秦と趙の国力は10倍ほど開いてしまった可能性もありますし、それを考えると成蟜の後ろ盾としては、力不足だったのかも知れません。
実際に、史実を見てみると、成蟜は反乱は起こして、屯留で反乱を起こしたが、趙の助けも得られずに呆気なく敗北したようにしか思えないからです。
やはり、反乱を起こすにしても計画性などは大事なのでしょう。
成蟜の子孫が最後の秦王だった!?
成蟜の子が秦の最後の王である子嬰だとする説があります。
史記の李斯列伝などの記述から、子嬰は始皇帝(秦王政)の弟の子とあるわけです。
成蟜は始皇帝の弟であり、成蟜の子が子嬰なのではないか?とする説もあります。
子嬰は最後の秦王であり秦の王族だと言う事は間違いないでしょう。
しかし、子嬰は始皇帝の長子であり胡亥の兄である扶蘇の子とする説もあります。
子嬰の記述に関しては、史記の中にもズレがありはっきりとしません。
他にも、成蟜の子が子嬰だとしたら、秦王政は謀反人の子を生かしておいた事になります。
秦王政が謀反を起こした成蟜の子を生かしておくとは、考えにくいとも感じるわけです。
それを考えると、成蟜の子が子嬰だと言うのも違うのではないか?と感じています。
尚、子嬰は暴政を行った趙高を暗殺し、秦王に即位し秦を救おうとしましたが、この時には劉邦は武関を抜けて秦の首都である咸陽に迫っている状態でした。
函谷関の外でも、楚の項羽の軍勢が王離を破り章邯を降伏させ強大だったわけです。
子嬰が項羽に斬られる事で、秦は滅亡しましたが、秦滅亡の責任は多くの方が指摘する様に子嬰にはないでしょう。