春秋戦国時代

秦の恵文王は秦の優位を確立した

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宮下悠史

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名前秦の恵文王
本名嬴駟
生没年紀元前356年ー紀元前311年
在位紀元前337年ー紀元前311年
一族父:孝公 配偶者:恵文后、羋八子 子:武王、昭王
コメント秦の優位を決定づけた君主

秦の恵文王は春秋戦国時代の君主です。

即位すると、いきなり商鞅を処刑するなど、負の部分が印象に残りがちです。

しかし、秦の恵文王は秦で初めて王号を称した君主でもあり、古蜀を滅ぼすなど秦の領土は大幅に拡大しました。

張儀を用いた事でも有名です。

恵文王の時代に三晋()は束になって掛かっても、秦には敵わない程になっていました。

戦国七雄の中で、秦の優位を決定づけた君主だとも言えるでしょう。

秦の恵文王と商鞅

秦の恵文王は秦の孝公が亡くなると、の君主となりました。

恵文王は商鞅を嫌っており、孝公が亡くなった途端に、処刑してしまったのは有名な話でしょう。

しかし、商鞅が残した法律などは、踏襲する事になります。

秦の恵文王が商鞅を誅しながらも、定めた法律だけは残した事から、人柄が酷薄だと評価される事もあります。

それでも、恵文王にとってみれば、商鞅に刑罰を加えられた公子虔と公孫賈の仇を取ったという事なのかも知れません。

秦の恵王と覇者体制の継続

史記の秦本紀によると、紀元前337年に、古蜀の人々が秦に来朝したとあります。

紀元前336年には、秦の恵文王の即位を周の天子が慶賀の意を表したとあります。

この時の天子と言うのは、周の顕王の事でしょう。

秦の孝公の時代に秦は東周王朝から覇者として認定されており、後継者の秦の恵文王も覇者として認定されていたのでしょう。

ただし、東方の大国であるは来朝しておらず、の覇者体制を認めなかった可能性があります。

楚に関しては、数百年に渡る秦との同盟が継続しており来朝したとも考えられます。

韓の昭侯は秦を覇者にした立役者でもあり、来朝したのでしょう。

魏は紀元前338年までの戦いで、苦戦を強いられており、嫌々ながらも秦の恵文王に頭を下げたと考える事が出来ます。

古蜀は秦の隣国でもあり、大国である秦に挨拶の意味も込めて来朝したのでしょう。

紀元前335年に秦の恵文王は、冠礼を行った事が史記に記録されています。

覇者体制の行方

紀元前334年に魏の恵王と斉の威王が徐州で会見を行い互いを「王」と呼び合いました。

これが徐州の会であり、魏と斉が他国承認という形で王号を名乗ったわけです。

「王」を名乗る事は、東周王朝の否定にも繋がり、斉と魏は周王朝の傘下から離脱したと言えるでしょう。

それと同時に、王を名乗る事は、秦の恵文王の覇者体制の否定でもあります。

この年に、周の顕王は秦の恵文王に周の祖先である文王と武王を祀った祭肉を贈りました。

東周王朝としては、斉や秦の王号を認めず、秦の恵文王が覇者だと強く協調する狙いがあった事でしょう。

こうした事情もあり、恵文王が即位した初期の頃にVSという構図が出来上がりました。

ただし、魏は秦に夫人を送るなどしており、流動的な態度も取っています。

秦の恵文王の5年(紀元前333年)に陰晋出身の犀首(公孫衍)が、大良造になったとあります。

魏軍を大破

紀元前333年にを攻撃し、が魏を攻撃しました。

楚と趙は戦果を得る事が出来ず、逆に紀元前332年には、斉と魏は趙を攻撃するも、趙の粛侯は何とか防いでいます。

この時にでは秦が介入してくるのを嫌い、秦の恵文王の陰晋の割譲を申し出ています。

秦の恵文王は魏の陰晋を貰い受け、寧泰と改名しました。

魏は秦と和議を結んだつもりだったのかも知れませんが、秦の恵文王や群臣らにとってみれば、魏の弱さを感じ取ったのか、紀元前331年に雕陰に侵攻し竜賈を破りました。

この戦いで秦は大勝しており、8万に斬首の大戦果を得たと伝わっています。

魏は紀元前330年に河西を秦に割譲しました。

しかし、秦の恵文王は戦争を止める気はなかった様であり、焦と曲沃を包囲し陥落させています。

秦の恵文王と魏の恵王が応で会見

は苦境に陥り、は好機と考え魏に攻撃を仕掛けました。

魏の恵王に上郡を割譲する事を条件に、支援を求めています。

秦の恵文王の宮廷では激論が繰り返されたかと思いますが、恵文王は張儀の意見を入れ、万の兵士と車百乗を魏への援軍としました。

公孫衍が率いる魏軍は、楚の威王を破る事になります。

秦と楚は同盟関係にありましたが、楚としては秦が魏に味方した事は不満だった事でしょう。

公孫衍も魏軍を率いた事にはなっていましたが、楚にとってみればバレバレだったはずです。

尚、戦国策の秦策には秦の恵王と張儀、陳軫の逸話があり、秦と楚の関係が冷え込む様が伺えます。

秦の恵文王は魏の恵王と応で会見を行い、魏の恵王は汾陰、皮氏を秦に割譲しました。

秦と魏の会見場所が楚に近い「応」であったのは、楚を牽制する狙いがあったと考えられています。

ここで秦と魏の和睦が締結されたかに思えましたが、魏の恵王は上郡を割譲するのを渋りました。

魏の背信行為に怒ったのか、秦の恵文王は紀元前328年に、魏を攻撃させ蒲陽を陥落させた事で、魏の恵王は上郡の15城を割譲し、漸く秦と魏の講和が成立する事になります。

ただし、秦の恵文王は楚との関係悪化を気にしたのか、後に焦と曲沃は魏に返還しました。

秦の恵文王と義渠

紀元前327年に義渠の君主が秦の臣下になり、名を少梁と改め夏陽と号したとあります。

秦の方でも戎の義渠を県としました。

ただし、義渠の全体が裏切ったのかは不明ですが、後に秦と戦う事になります。

それでも、秦の恵文王の時代に義渠が降伏した事になるのでしょう。

秦の恵文王の野望

紀元前326年に秦の恵文王は初めて中華の真似をし狩りを行い祖先を祀ったとあります。

では夷狄の国として、中原の国からはみなされていましたが、秦の恵文王は他国に舐められない為の施策でもあったのでしょう。

秦の恵文王は東周王朝から認められた覇者にはなっていましたが、それと同時にこの頃には、さらに上の存在になりたいと野心を持っていた様に感じています。

既に魏の恵王と斉の威王は王号を称しており、秦の恵王も王号を称したいと考えても不思議ではないでしょう。

秦の恵文王の称王

紀元前328年までには、の黄河以西の領土を全て手に入れました。

これにより秦は中原の地に、直接侵攻する事が出来る様になったわけです。

秦の恵文王は東周王朝から覇者として認定されていましたが、魏の中原支配を嫌うの意向が大きかったと言えるでしょう。

魏は弱体化し、との関係も微妙になってきており、楚の方でも秦の覇者体制を認める理由が減退していました。

紀元前329年に秦は魏を助けて楚と戦っているわけであり、この時点で覇者体制は崩壊していたと見る事も出来ます。

東周王朝の方でも、や魏が王を名乗った事で、権威が低下しており、こちらも微妙な存在になってきていました。

秦の恵文王の方でも圧倒的な軍事力を保持している事に気付いており、東周王朝の奉じる理由も無くなって行きます。

こうした中で紀元前328年に秦とが河西で戦いました。

この戦いで趙の将軍である趙疵が戦死し、秦は蘭と離石を陥落させています。

紀元前326年には、魏の恵文王が韓に王号を認め、韓の宣恵王が誕生しています。

諸侯の中で王を名乗る者が増えて来たわけですが、秦の恵文王は紀元前324年に王と称しました。

秦の恵王は東周王朝からは覇者として認定されていましたが、既に東周王朝の権威に傷がつき利用価値も無くなり、王を称したのでしょう。

王を名乗った事で、秦の恵王は東周王朝から認定された覇者としての立場を自ら捨て去った事になります。

尚、秦の恵文王は王を称し、紀元前323年には、韓の宣恵王や燕の易王の「称王」を承認したとも考えられています。

講和が成立

紀元前324年に秦の恵王は張儀に命じて、魏の陝城を攻略しましたが、この年に魏の恵王は韓の宣恵王と共に斉に来朝しました。

斉の威王を盟主とするの同盟が誕生した事になるでしょう。

これらの同盟はに備えるものであり、秦と楚の仲は修復に向かいました。

魏は楚に襄陵で大敗すると、魏の恵王は楚の威王と会見を行うだけではなく、太子を秦に入朝させています。

韓の宣恵王も太子を秦に入朝させました。

秦・斉・楚は齧桑で会合を開いており、講和したと考えられています

この時点で秦の恵文王の明確な敵はのみとなったわけです。

五国相王

秦の恵文王は張儀をの相として入れますが、上手く機能しなかった事もあり、秦は魏を攻撃し、曲沃と平周を平定しました。

これにより魏との関係が冷え込む事になります。

さらに、秦の張儀が魏と共にへの侵攻を企てた事で、韓との関係も悪化しました。

秦とは元々講和もしていなかったわけであり、秦は趙・魏・韓の三晋と交戦状態となります。

こうした状況を元に、公孫衍は三晋の同盟にと中山を加え、紀元前318年に五国相王を成し遂げています。

五国相王は秦の恵文王に対抗するだけではなく、斉の宣王に対する牽制の意味もありました。

楚との関係悪化

話は少し戻りますが、紀元前320年に斉の宣王が即位しました。

この時に、斉の宣王は秦の恵文王に働きかけ、から夫人を迎える事になります。

秦と楚は秦の康公の時代から友好関係にありましたが、秦の恵文王の時代になると悪化と回復を繰り返していました。

紀元前319年に秦は安陵を攻略しています。

安陵はの重要拠点である陳に近い場所にあり、秦と楚の関係は決定的に悪くなります。

脩魚の戦い

史記の秦本紀によると秦の恵文王の7年(紀元前318年)に楽池がの宰相となりました。

この年に、の諸国が匈奴と共に、秦を攻撃したとあります。

秦本紀には、この後に、秦の恵文王は樗里疾に命じて脩魚で戦った記録があります。

脩魚の戦いでは樗里疾が趙の公子渇、韓の太子奐の軍を破り、韓の申差を捕虜としました。

この戦いで秦は8万2千人を斬首したとあり、大勝した事は間違いないでしょう。

それと同時に、既にこの頃の三晋は弱体化しており、秦一国で三晋連合を圧倒するだけの国力を有していたと考えられています。

さらに、斉も宋と共に三晋連合を撃破しており、秦と斉の二国は単独で、三晋連合を圧倒するだけの国力を有していたのでしょう。

戦国時代中期の秦斉二強時代の形勢は、秦の恵文王の時代に出来上がって来たと言えます。

八面六臂の活躍

秦本紀には秦の恵文王の9年(紀元前316年)には、司馬錯が古蜀を滅ぼしました。

秦本紀には蜀を滅ぼしたとだけ記録されましたが、実際には巴も滅ぼしてしまった様です。

後に公子通が蜀に封ぜられる事になります。

さらに、を討ち西都と中陽を陥落させています。

こうした状況の中で、韓の宣恵王は太子倉(韓の襄王)を人質として、に送りました。

秦の恵文王の時代の快進撃は続き、趙を討ち将軍の泥を破り、義渠を討ち25城を陥落させたと言います。

義渠は過去に秦に頭を下げていましたが、公孫衍の言葉で裏切り、秦の恵文王は義渠に対し報復戦争を行ったのでしょう。

秦の恵王の時代に義渠は滅びはしませんでしたが、抵抗力を失ったと考えられています。

樗里疾はの焦を攻略し、を岸門の戦いで破り1万人を斬首したとあります。

これにより、秦本紀には犀首が逃げたとあり、公孫衍が戦いに敗れて逃亡した事になるのでしょう。

史記ではこの頃の出来事として、燕王噲が子之に国を譲ったとあります。

紀元前313年に秦の恵文王は梁王と臨晋で会見を行ったとあります。

ここでいう梁王は魏の襄王の事なのでしょう。

臨晋の会では秦と魏の間で、講和が成立したと考える事が出来ます。

この年に、またもや樗里疾が趙を攻撃し、趙の将軍である荘豹を捕虜にしました。

趙の恵文王の時代の樗里疾の獅子奮迅の活躍が分かるのではないでしょうか。

秦は八面六臂の活躍を見せ勢力を拡大させました。

楚を大破する

史記本紀を見ると、張儀がの宰相となった記録があります。

史記の張儀列伝を見ると、張儀が詐術により、楚の懐王を騙してとの断交を行わせた話があります。

楚の懐王は怒りを攻撃しますが、これにより300年続いた秦と楚の関係は完全に破綻しました。

秦の恵文王は庶長の魏章に命じて、楚の屈匄と戦わせています。

魏章は丹陽の戦いで、屈匄を捕虜とし8万人を斬首する大戦果を挙げています。

さらに、秦は楚の漢中の六百里を取り、秦の恵文王は漢中郡を設置しました。

楚はが秦を助けたのを恨み、韓を攻撃しますが、秦の恵文王は樗里疾に命じて韓を助けています。

秦の恵文王は到満に命じて、を助けを攻撃しました。

秦の恵文王の後期には、大国と呼ばれた楚であっても、軍事力で圧倒していた事が分かるはずです。

楚の召陵も秦の恵王の時代に陥落しています。

秦の恵文王の最後

秦の恵文王はその14年卒したとあります。

紀元前311年に没した事になるのでしょう。

秦王の座には、恵文后との間に出来た子の、秦の武王が就く事になります。

尚、秦の恵文王が亡くなった年に、西南夷の国である丹などが臣下となりました。

この年に蜀の相の陳荘が蜀侯を殺害し、に来降したとあります。

秦の恵文王は激動の時代でしたが、巧みに秦を強くし乗り切ったと言えそうです。

先代:孝公恵文王次代:武王

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