
秦の孝公は商鞅を登用し、秦を法治国家とした事で有名です。
商鞅ばかりが目立ち、秦の孝公は管仲における斉の桓公、劉禅における諸葛亮など凡庸な君主に思うかも知れません。
しかし、秦の孝公の時代に咸陽に遷都し、東周王朝からは覇者として認定され、諸国に対しても軍事的に優位に進めました。
これらを考慮すると、秦の孝公も優れた君主だったのではないかと感じています。
秦の孝公の即位
史記の秦本紀を読むと、秦の孝公は秦の献公の後継者として21歳で立ったと書かれています。
秦本紀の孝公の条では、当時の社会情勢から記録されています。
秦本紀によると、秦の孝公の元年に、黄河及び華山に東には、六国があり斉の威王、楚の宣公、魏の恵王、燕の文公(悼公)、韓の哀侯、趙の成侯が並び立ったと言います。
史記の本文から、秦の孝公の時代に戦国七雄が出そろったかの様に感じるかも知れませんが、淮水と泗水の間には小国が十ほどあり、楚、魏、秦を国境を接していたと言います。
秦の孝公の時代までに、魏は長城を築き鄭から起こった洛水の沿岸に連なっており、北方では上郡を守ったとあります。
楚は漢中から南の巴や黔中を領有しました。
周王朝は衰え諸侯は力で争い併呑しあったと言います。
秦は西方の雍州にあり、中国の諸侯の会盟に参加せず、諸国からは夷狄と同様に扱われていたと言います。
秦の孝公の時代の秦は、中原の諸国から見れば蛮族扱いされていた部分も多々あったのでしょう。
秦の孝公と商鞅
秦の孝公の布令
史記によると、秦の孝公は仁政を行い独り身の者を助け戦士を招き、功賞を明らかにし、次の様に布令を出したと言います。
※史記本紀より
過去に穆公は岐・雍の地から勃興し、徳を修め武をふるい、東では晋の乱を平定し黄河を境とした。
西方では戎狄従えて覇者になっている。
穆公は土地を広めること千里、これらの功績により周の天子は「伯」とし、諸侯はみなが慶賀の意を表した。
後世の為に国を立てたと言わざるをえないだろう。
この後に、厲共公、躁公、簡公、出公の時代に国が乱れ、内憂があり外の事に構う事が出来なかった。
この機に乗じて、三晋は河西の地を奪い、諸侯は秦を夷狄として侮り、国家の汚辱は大きかった。
献公は即位すると辺境を安撫し、櫟陽に遷都し東伐を実行し穆公の故地を回復し、穆公の政令を修めようとした。
私は先君(献公)の遺志を継ごうと思うと、いつも心が痛い。
賓客・群臣で優れた計を出し、秦を強くする者があれば、私は官位を髙くし、領地を与える事に致す。
秦の孝公が広く人材を募ったのが分かる話でもあります。
それと同時に、秦の孝公には富国強兵の野望も強くあったのでしょう。
秦の孝公の呼びかけに応じて、商鞅が魏から秦にやって来たのは有名な話です。
商鞅は宦官の景監を頼りに、孝公との面会を果たす事になります。
秦の孝公は商鞅を重用しました。
尚、秦本紀では商鞅は「衛鞅」と記載されたりもしますが、ここでは聞きなれた「商鞅」の名で全て書き示す事にします。
秦の孝公が商鞅を信任
商鞅は秦の孝公に法律を変え、刑罰を整え、耕作を重視し、兵士らの賞罰を明らかにする様に勧めました。
秦の孝公は商鞅の考えに理解を示しますが、甘竜や杜摯が反対し論争となります。
それでも、秦の孝公は商鞅の考えた改革を実行しました。
秦の孝公が商鞅をいかに、信頼していたのかが分かる話でもあります。
最初は商鞅の法に民は苦しんだと言いますが、3年もすると便利として納得したとあります。
秦の孝公は商鞅を左庶長に補任しました。
周の天子の胙
史記本紀によると秦の孝公の2年にあたる紀元前360年に、周の天子が秦の孝公に胙を送った話があります。
秦本紀には周の天子となっていますが、時代的に周の顕王だと考えられています。
前年に秦が陝城を包囲し、動きが活発になった事で、韓、魏、趙の三晋は周王朝を動かし、秦の孝公に胙を与えて懐柔したと考えられています。
秦は献公の時代に、既に魏を石門山の戦いで大破しており、三晋にとっても決して侮れない戦力だと警戒されていた事でしょう。
ただし、秦の孝公としても、独力で韓、魏、趙の三国を相手にするだけの力はなく、講和に応じたと考えられています。
秦の孝公と魏の恵王の会見
三晋との講和は長くは続かなかった様であり、秦の孝公4年(紀元前358年)に、秦は韓の西山に侵攻しました。
魏では秦の動きに対処し、大梁の西に長城を築いたりしており、秦への備えとしています。
紀元前355年に秦の孝公は魏の恵王と杜平で会見を行った事が、秦本紀に記載されています。
秦の孝公と魏の恵王が会見を行った理由は、当時の趙や韓は独自外交をする様になっており、三晋は解体の方向に進んでいました。
魏では韓や趙の動きに対処するために、秦に接近し孝公と杜平で会見を行ったのでしょう。
魏の恵王は秦の孝公だけではなく、斉の威王とも会見を行い、趙の成侯の懐柔にも乗り出しています。
ただし、秦と魏は翌年には既に戦争を始めており、会見は不発と見る事も出来るのではないでしょうか。
元里の戦い
紀元前354年に秦の孝公は秦軍を東進させ、元里の戦いで魏に大勝しました。
元里の戦いでは、魏軍7千を斬首したとあります。
さらに、秦軍は黄河西岸にある魏の最重要拠点でもある少梁を攻略しました。
秦の孝公の時代になっても、秦の武は衰えを知らなかったと言えるでしょう。
焦城の戦い
元里の戦いの翌年である紀元前354年に秦が韓を攻めた記録が竹書紀年にあります。
秦の孝公は少梁攻略などに気をよくし、韓を攻める許可をしたのでしょう。
秦軍は焦城を包囲し、上枳、安陵、山氏に築城を行いました。
これらの城は韓の首都の新鄭と魏の首都の大梁の間にあり、連携を絶つのが目的だったと考えられています。
秦の孝公としては、韓の焦城を屈服させたいと思っていたのでしょう。
しかし、秦軍は焦城を抜く事が出来ず、撤退しました。
尚、翌年である紀元前353年に、韓が東周王朝を攻撃しており、秦が韓を攻めたのには、周も関係していたのではないかと考えられています。
韓は昭侯は秦の攻撃を受けた事で、魏に接近しました。
商鞅が安邑を陥落させる
紀元前352年に秦の孝公は商鞅に命じて、安邑に攻撃命令を出しました。
魏では桂陵の戦いで敗れてから、韓意外とは交戦状態となっており、秦の孝公は魏の隙を突いたのでしょう。
商鞅は魏の旧都であった安邑を陥落させています。
孤立した魏は秦への対処が十分に出来ず、安邑は抜かれてしまったのでしょう。
秦は一時的に安邑を占拠するだけに終わっていますが、魏の凋落を感じさせる出来事でもあります。
魏は長城を築き固陽を要塞化し防備を固めますが、秦の孝公は紀元前351年に商鞅に命じて固陽を攻撃させました。
商鞅は固陽を抜きますが、同年に魏と趙の講和が成立した事で、戦争を終えています。
紀元前350年に秦の孝公は彤で魏の恵王と会見を行っており、講和が成立しました。
尚、商鞅が戦ってきた紀元前351年に、秦は趙の蘭邑を攻撃した記録が趙世家にあります。
咸陽に遷都
紀元前350年に秦の孝公が咸陽城を造営し、宮闕を設け首都にした話があります。
さらに、小村落を集めて県とし、県ごとに令を設置しました。
31県あったとする記録があります。
民衆が力量に応じて広範囲に耕作が行えるようにし、農業生産の向上に努めたのでしょう。
紀元前348年には初めて税法を設けたともあります。
他にも、秦の孝公の時代に、函谷関が造られたとも考えられています。
秦の孝公は首都を咸陽に移し、宮殿を設置するだけではなく、国内の整備も確実に行っていったのでしょう。
孝公が遷都した咸陽は、秦が滅亡するまで、首都であり続けました。
それと同時に、咸陽の宮殿も代が立つごとに巨大さを増しています。
秦の孝公と韓の昭侯
晋の公室は既に魏の手を離れており、趙と韓が握っていましたが、利用価値はないと判断され殺害されてしまったのでしょう。
趙と韓の対立があり、趙が魏に接近すると、韓は秦に接近する事になります。
紀元前348年に韓の昭侯が秦に朝見したとあり、秦の孝公に頭を下げたという事なのでしょう。
同年に魏と趙が秦に近い陰晋で会見を行っていますが、秦の孝公に対して友好をアピールし牽制する狙いがあったと考えられています。
秦の孝公が覇者となる
史記の秦本紀の記述を見ると、紀元前343年に東周王朝が秦の孝公を「伯」としたとあります。
これは東周王朝が秦を覇者として認めた事になります。
秦本紀では翌年に諸侯が秦を慶賀し、秦は公子の少官に軍を率いさせ、諸侯と逢沢で会合し、周の天子に参朝させたとあります。
魏の恵王は中原支配と覇者体制の構築を目指しており、魏と韓、趙、斉の対立が頂点に達していました。
韓の昭侯は周の顕王を動かし、魏の覇者体制への願望を断念させる為のものだったとされています。
秦は中原の外の国であり、秦の孝公が覇者となっても、中原への影響力は少ないと考えたのでしょう。
史記の秦本紀では秦の孝公が覇者となり、華々しさも感じる記述になっていますが、実際には中原諸侯の利害関係の基づく施策だったと考えられます。
それでも、名目上は秦の孝公は東周王朝から認められた覇者となっており、諸侯の盟主になったと言えるでしょう。
魏に大勝
魏は秦の孝公が覇者として認定されたのに納得が行かなかったのか、直ぐに韓を攻撃しました。
韓が東周王朝を動かしたと考え、韓を嫌悪したのでしょう。
ここで斉が救援に入り紀元前341年の馬陵の戦いで、魏軍を大破しました。
この時期に秦の孝公は商鞅に兵を率いさせ、魏に侵攻し、史記では商鞅が公子卬を詐術を使い破った事になっています。
商鞅は魏を破った功績により列侯とし、商君と号したとあります。
さらに、秦は岸門の戦いで勝利し、将軍の魏錯を捕虜としました。
秦の孝公の最後
史記によると秦の孝公はその24年に卒したとあります。
紀元前338年に秦の孝公は亡くなったのでしょう。
後継者の秦の恵文王が立つと、商鞅が誅された話は有名です。
しかし、秦の恵文王は秦の孝公と商鞅が創り出した仕組みは残しました。
尚、秦の孝公が亡くなった事で、魏との戦いは沈静化に向かう事になります。
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