孫夏は黄巾党の一因であり、南陽黄巾賊に属した人物です。
張角が全国の信徒に一斉蜂起を命令すると、南陽では張曼成が軍を率いる事とります。
張曼成の軍の中に孫夏がおり、南陽黄巾賊として活動しました。
降伏した韓忠が秦頡に斬られると、孫夏が南陽黄巾賊を率いる事となります。
しかし、孫夏は朱儁に急襲され、これにより南陽黄巾賊は壊滅しました。
孫夏は南陽黄巾賊最後の将だと言えるでしょう。
尚、三国志演義で黄巾党三首領の張角、張梁、張宝亡き後に、張角の敵討ちと言わんばかりに趙弘、韓忠、孫仲が、朱儁、劉備、関羽、張飛と戦闘を行っています。
三國志演義の黄巾賊と官軍との最後の戦いで、登場する孫仲のモデルが孫夏ではないか?と言われています。
頭目になる
後漢の朝廷では皇甫嵩、朱儁、盧植の3名を中心に、黄巾賊の討伐を行わせています。
孫夏は南陽黄巾賊として活動していましたが、上司にあたる張曼成は一時は神上使を名乗るまでになりますが、南陽太守の秦頡に討ち取られました。
南陽黄巾賊を引き継いだ趙弘ですが、朱儁に急襲され命を落す事となります。
この後に、韓忠が軍を引き継ぎますが、降伏したのに秦頡に斬られるという事態となります。
黄巾賊の者たちは韓忠が斬られた所を見て、孫夏を頭目とし再び宛城に籠りました。
黄巾賊たちは降伏すれば、自分達も韓忠の様に斬られると思い、再び城に籠ったのでしょう。
降伏した黄巾賊が再び宛城に籠れる辺りは、完全に武装解除する前に秦頡が韓忠を斬ってしまった様に感じます。
孫夏としては、いきなり黄巾賊の大将をする羽目になってしまい、パニックになった部分もあるのかも知れません。
それでも、孫夏に従う者は数万いたと考えられています。
孫夏の最後
孫夏は宛城に籠りますが、防備の準備が不十分だったのでしょう。
朱儁は、この隙を見逃さず孫夏の軍を急襲しました。
この時に孫堅が真っ先に城壁に登った話があります。
朱儁の攻撃に孫夏は対処する事が出来ず、敗走する事となります。
孫夏は西鄂の精山に逃げますが、朱儁は孫夏を追撃しました。
精山でも孫夏は破れ、ここで1万を超える兵を失う事となります。
これにより南陽黄巾賊は散り散りとなり崩壊し、南陽は平定されたわけです。
尚、孫夏は後漢書の皇甫嵩朱儁伝や資治通鑑を見ると「逃走した」とあるだけですが、後漢書の孝霊帝紀に「孫夏を斬った」とする記述が存在します。
孝霊帝紀の記述を信じるのであれば、孫夏はここで最後を迎えた事になるでしょう。
因みに、南陽と首都の洛陽は距離的に遠い場所ではなく、朱儁が孫夏を破った事で、霊帝もホッとしたと感じています。