名前 | 景舎(けいしゃ) |
生没年 | 不明 |
時代 | 春秋戦国時代 |
主君 | 楚の宣王 |
景舎は戦国策に名前が見える人物であり、楚の宣王に意見を述べた事が記録されています。
景舍は昭奚恤の意見に反論し、自説を述べる事になります。
楚の宣王は景舎の策を採用した事で、睢水と濊水の間の地を得る事となりました。
景舎は楚の名門である景氏の人物と考えられ、同じく楚の名門である昭氏の昭奚恤とは政敵だったのではないか?とも考えられています。
景舎の記録は非常に少ないのですが、内容を見るに優れた見通しを持った人物だったと言えるでしょう。
楚王の前で意見を述べる
魏の恵王の時代に将軍の龐涓が趙の首都である邯鄲を囲んだ事がありました。
この話は史記にもあり、趙の成侯は斉に救援を求めています。
斉では鄒忌と段干朋の意見の食い違いはありましたが、斉では田忌を将軍に任命し、孫臏を軍師として側に置き趙への救援に向かわせました。
魏軍は北上し趙を攻撃しますが、この時に背後にいたのが楚であり、楚の宣王の前で景舎と昭奚恤が論争する事になります。
昭奚恤は次の様に述べています。
昭奚恤「楚王様は趙を救うべきではありません。
魏を強くさせるべきです。
魏が強ければ趙に多くの土地を割譲しようと迫るのは目に見えております。
趙は土地の割譲を嫌がり、固く守る事になるでしょう。
その結果として、魏と趙の双方が疲弊する事になるのです」
昭奚恤は趙を助けずに放置すれば、趙と魏が争い両方の国が国力を落とし疲弊すると述べたわけです。
昭奚恤は楚は静観すべきだと進言した事になります。
昭奚恤の考えに異を唱えたのが景舎です。
景舎は次の様に述べました。
景舎「それは違います。昭奚恤は物事を分かってはおりませぬ。
魏は趙を攻めるにあたって、楚に背後を衝かれるのを恐れているのです。
今の状態で趙を救わねば、趙が滅亡する形となるでしょう。
楚が動かねば魏は背後の患いが無くなり、楚は魏に協力して趙を滅ぼす形となります。
この様な形勢であれば趙は多くの土地を魏に割く事になり、魏と趙の双方が疲弊する事にはなりません。
それだけでは終わらず、魏が多くの領地を趙に割かせ、趙が滅亡の形成を見て取り、しかも、楚が助けてくれないと知れば、趙は魏と結び楚に敵対する事となります。
楚王様は少数の兵で構わないので趙を助ける軍を出すべきです。
楚が趙を助ける構えを見せれば、趙は楚の力を期待し魏とは交戦する事になるでしょう。
魏は趙が屈しない事に憤り、楚の援軍が少なく恐れるに足りないと知れば、趙との戦いを継続する事になります。
これで趙と魏が疲弊し斉と秦が楚に呼応すれば、魏を破る事が出来ます」
景舎は少数の兵で趙への救援の構えを見せる事こそが、趙と魏を疲弊させる事に繋がると述べたわけです。
昭奚恤は楚は何もせずに静観するとしたシンプルな意見でしたが、景舎は相手の心理を読み巧みに戦わせる様に仕向ける策を考えたと言えます。
楚の宣王も景舎の意見に説得力を感じたのか、景舎に軍勢を預け趙を救わせる事にしました。
楚は斉や秦にも働きかけ巧みな外交戦略を見せたのでしょう。
斉は動きましたが、秦に関してはどの様な動きを見せたのかは不明です。
睢水と濊水の間の地を取る
戦国策によれば、魏軍は趙の首都邯鄲を落城させますが、楚は睢水と濊水の間の地を取ったとあります。
これを考えると、景舎は功績を挙げ領地を増やす事に成功したとも言えるでしょう。
因みに、この時の魏と趙の戦いには斉も介入しており、孫臏と龐涓の最初の戦いである桂陵の戦いが行われています。
桂陵の戦いは兵法三十六計にある囲魏救趙で有名になった戦いでもあります。
桂陵の戦いでは孫臏や龐涓ばかりがピックアップされがちですが、裏では楚の景舎も暗躍していたと言えます。
景舎に関しては竹書紀年に別の話があり、桂陽の戦いで田忌が魏軍を破りますが、魏の恵王は韓と共に襄陵で宋、斉、衛の軍を破ったとあります。
戦いに敗れた斉は楚の景舎を派遣し、魏に講和を求めたとあります。
斉は連携していた楚の景舎に頼み、魏との和睦を仲介して貰ったのでしょう。
この後に、魏と趙が桂陵の戦いを行い趙軍の勝利で終わりました。
桂陵の戦いに関しては史記と違った内容が竹書紀年に記載されています。
これを考えると、実際に桂陵の戦いでは景舎がかなり暗躍し、最終的に睢水と濊水の間の地を取り、楚は利益を得る事が出来たと言えそうです。
景舎に関して分かっている事は、桂陵の戦いの前後だけですが、頭の回転も速く優れた臣下だった事が分かります。
景舎に関して分かっている事は非常に少ないですが、隠れた名臣だと感じました。