鄭国は、春秋戦国時代の末期に韓が秦の財政を傾ける為に送り込んだスパイです。
ただし、鄭国は韓の灌漑工事における一流の技術者であり、工事が完成すると秦の国力を大幅に上げる事に成功しています。
古代中国では、夏王朝の始祖と呼べる禹がいますが、禹は伝説の人物であり、治水工事は史実なのかは分かりません。
それに対して、魏の西門豹や鄭国は実在し、都市の発展に貢献した人物と言えます。
因みに、鄭国の作った灌漑水路は「鄭国渠」とも呼ばれ、秦の関中の地で凶作が起こらなくなったと言われる程です。
鄭国が秦に行く事になる
鄭国は、韓の灌漑工事を行う技術者だったわけです。
しかし、当時の韓は秦に攻められる事が多く、戦っては破れている状態でした。
戦国七雄の中で、韓だけは見せ場が無く滅んだ様にも感じます。
既に、戦国時代の末期になると、秦と韓の国力の差は20倍以上もあったように感じます。
韓は秦が連年の様に攻めて来て、領土を奪われる事に悩んでいたわけです。
そうした中で、韓の首脳部は秦が戦争ではなく、治水工事に財力を使えば、韓に攻めて来ないと考えたのでしょう。
韓は技術者の鄭国に依頼し、秦に行き治水工事を行う様に説得する事にしました。
秦で鄭国の治水工事が完成すれば、秦は農業生産力が高まり、さらに強大になりますが、韓としては目の前の秦の禍を取り払いたかったのでしょう。
秦が鄭国の治水工事をしている間に、韓は延命策を取るなりしたかったはずです。
鄭国は、秦に行き治水工事を行う事になります。
鄭国が秦に入る
鄭国は、秦に入ると次の様に述べます。
秦の涇水をうがい、中山国の西から瓠口に至り、さらに北の山に沿い、東の洛水に注ぐ三百余里の渠を作り、
田土を灌漑すれば、秦の関中における農業生産力は飛躍的に上がります。
鄭国の言葉に、秦の首脳部は納得し、鄭国を工事の責任者とし灌漑工事を始める事になります。
鄭国が秦に来たのは、秦王政の時代であり、秦王政の初期は呂不韋が宰相として実権を握っていた事実があり、呂不韋が鄭国の意見を採用したのかも知れません。
韓の計略が発覚
鄭国は、秦において灌漑工事を始める事になります。
しかし、秦では韓に大量にスパイを入れていたせいか、鄭国が韓の回し者だという事がバレてしまったわけです。
秦王政は李斯や尉繚の計略を入れて、他国の大臣を買収したり、離間策を取ったりしていた事が分かっているので、秦の情報網に鄭国の情報が引っ掛かってしまったのでしょう。
秦の首脳部は、韓のスパイだと発覚した鄭国を処刑しようと呼び出します。
すると、鄭国は開き直って次の様な意見を述べています。
鄭国「私は韓の間諜として秦に来た事は間違いありませんが、渠が出来るのは、秦にとっては一大利益となるはずです。」
秦の首脳部は、この言葉に納得し鄭国の灌漑工事を続行させる事にします。
ただし、秦の首脳部は鄭国の対し、「手抜き工事は絶対に許さない」と伝えたはずです。
尚、鄭国が韓の間諜だと発覚したのは、嫪毐(ろうあい)の乱の頃であり、これにより逐客令が出されますが、李斯の進言により秦王政は撤回しています。
鄭国渠が完成
鄭国は灌漑工事を進め、遂には鄭国渠と呼ばれる巨大な溝渠が完成する事になります。
鄭国渠は全長が300余里となっていますから、今でいう120キロはあったはずです。
司馬遷が書いた史記の河渠書によれば、鄭国渠が完成すると、泥水を引いて塩分を含んだ土地に注ぎ、農業生産力が上がった話があります。
鄭国渠は非常に優れており、「関中は肥沃な地となり、凶年が無く秦は富強を以って諸侯を併呑した。」と記述があります。
これを考えると、鄭国の作った「鄭国渠」は秦の天下統一の原動力となってしまったのでしょう。
霊渠の建設
秦王政は統一後に始皇帝を名乗りますが、小篆、半両銭、度量衡の統一などを行い、さらには蒙恬に命じて万里の長城の建設なども行っています。
始皇帝は改革者であり、様々な改革を行っています。
ここで注目したいのは、始皇帝は統一後に霊渠と呼ばれる大規模な灌漑工事をしているわけです。
霊渠を建設する事で、始皇帝は南北に繋がる水路を完成させています。
霊渠はもしかして、作り方が鄭国の鄭国渠を真似たのかな?とも考えた事があります。
しかし、始皇帝は鄭国が秦に大きな富を招き寄せた事で、水を上手く使えば国が豊かになると悟り、霊渠の建設に乗り出したのかも知れません。
鄭国の派遣は韓の延命策になったのか
鄭国の当初の目的は、秦が韓を攻めない様に、秦の財政を使わせるのが狙いだったはずです。
秦王政の時代を見ると、紀元前241年に春申君や龐煖により、函谷関の戦いや蕞の戦いが勃発し、秦は楚、趙、魏、燕、韓などの合従軍に攻められる事はありました。
ただし、大半の場合は、秦は連年に様に諸侯を攻めています。
中には、趙の李牧や楚の項燕の様に秦軍を破った例もありますが、基本的には秦が圧倒的な武力で諸侯をねじ伏せています。
それを考えると、秦は鄭国渠を作りながらも外征を行えた事になり、効果は余りなかったようにも感じています。
ただし、隋の煬帝は、大運河を建設し、国力を疲弊させた話もあり、それを考えると秦の財政を使わせた鄭国は、韓の延命に役立った可能性も残されています。
因みに、秦王政の時代は韓は、秦の属国の様な状態であり、韓は後宮の美女たちを秦に売り、得たお金で秦に奉仕する状態にまでなっていました。
秦も韓も同じ「王」ではありますが、国力は全く違うとも言えます。
鄭国を秦に派遣する様に進言したのが、韓の誰なのかは分かりませんが、効果は微々たるものだった様に感じました。
韓は戦国時代を見ると、パッとしませんが、諸子百家の最後を飾るような韓非子や、漢の高祖である劉邦の軍師張良を輩出しています。
古代と灌漑工事
古代において灌漑工事は、非常に重要です。
世界中で洪水伝説がある様に、人々は水に苦しめられた歴史があります。
ただし、水の力を味方につけると、非常に裕福になれたわけです。
メソポタミア文明のチグリス川、ユーフラテス川の畔に都市国家を作ったシュメール人達も灌漑工事を行う事で農業生産力を上げ文明を発達させています。
他にも、エジプト文明のナイル川を利用して、古代オリエント最大の農業地帯を作りだしているわけです。
中国の伝説的な王である夏王朝の禹も治水工事に成功した事で、五帝の瞬から帝位を譲られています。
それを考えると、鄭国の行った鄭国渠もかなり重要な施設だったとも言えるでしょう。
鄭国が建造した鄭国渠は、都江堰、霊渠と並び、古代中国三大水利施設の一つに数えられています。
先に述べた様に、霊渠は始皇帝が天下統一後に作った南北を繋ぐ水路でもあります。
鄭国の技術は、秦の発展にかなり役立ったはずです。
尚、鄭国渠が完成した後に、鄭国がどうなったのかは分かりません。
鄭国がいつ亡くなったのかも明らかではありませんが、始皇帝が霊渠を建設する頃には亡くなったいたのでしょう。