三国志 後漢 魏(三国志)

典韋は怪力無双の剛の者

2023年7月23日

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宮下悠史

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名前典韋
生没年生年不明ー197年
時代三国志、後漢末期
勢力張邈曹操
年表196年 濮陽の戦い

典韋は正史三国志や資治通鑑などに名前が見える人物です。

典韋は兗州陳留郡己吾県の出身であり曹操に仕えました。

三国志演義では曹操が、殷の紂王に仕えた怪力の人物である悪来に例えられ「悪来典韋」の異名を取っています。

殷の紂王に仕えた悪来は讒言の名手となっていますが、典韋は忠義の人であり、そういった類のものとは無縁の武人でもあります。

実際に正史三国志の典韋伝には「怪力の持ち主で漢気の持ち主だった」と書かれています。

典韋は曹操に愛された武将ではありましたが、張繍との戦いで戦死しており活躍した期間は非常に短いと言えるはずです。

しかし、典韋は怪力であり、三国志でも屈指の武勇を誇った人物だとも感じました。

今回は許褚と並び、曹操配下でも屈指の剛の者として名高い典韋を解説します。

意外に思うかも知れませんが、正史三国志の典韋伝に「容姿が立派だった」とする記述があります。

典韋は荒っぽい豪傑の様なイメージがありますが、史実の典韋は孫策周瑜荀彧らに負けない位の美貌を持ったイケメンだったのかも知れません。

尚、典韋は正史三国志の二李臧文呂許典二龐閻伝に下記の人物と共に収録されています。

李典李通臧覇文聘呂虔
許褚典韋龐徳龐淯閻温

李永を討つ

襄邑の劉氏と睢陽の李永は仇敵の間柄でありましたが、ここで典韋は劉氏の為に動いたとあります。

典韋がなぜ劉氏の為に動いたのかは不明ですが、劉氏に対し典韋は何かしらの恩があったのかも知れません。

李永は富春県の長をしており、注意深く護衛を付けていたいと言います。

李永の用心深さを考えれば、李永は皆から恨まれていると認識していたのでしょう。

ここで典韋は酒と鶏を持ち車に乗り、訪問者を装い李永に近づく事になります。

典韋は匕首を隠し持ち門が開くと、一気に李永を討ち取り妻をも殺害しました。

普通であれば急いで屋敷を出るはずですが、この時の典韋はゆっくりと退出したとあります。

典韋は車に置いたあった刀と矛を手に取り歩いて去る事になります。

李永の屋敷は市場に近かった事で大騒ぎとなり、典韋の行方を追った者が数百人いましたが、誰も典韋に近づく勇気のある者はいなかったと言います。

この時に典韋の気迫は常人を圧倒する程のものだったのでしょう。

それでも、四、五里進んだ所で追跡者と典韋は戦いますが、武勇に優れていた典韋は見事に脱出したとあります。

典韋が李永を暗殺した事件は豪傑たちの間で有名になりました。

尚、典韋は殺人を犯したのであり、捕らえられたり逃亡してもよさそうな気もしますが、後に典韋は董卓に任命された陳留太守の張邈の部下となっています。

これを考えると、典韋は上手くやり処罰を免れた可能性が高いと感じました。

陳留太守の張邈の配下となった事を考えれば、地元から離れたわけでもないのでしょう。

並外れた怪力

正史三国志によると張邈が義兵を挙げると、典韋は兵士となり司馬の趙寵の部下になったとあります。

張邈が挙兵したのは反董卓連合が結成された時であり、この時に典韋も張邈の配下になったのでしょう。

牙門の旗は巨大であり一人で持ち上げられるものはいませんでしたが、典韋は片手で旗を立てる事が出来たとあります。

それを考えると、典韋は並外れた剛腕の持ち主だった事になります。

趙寵は典韋の怪力を知ると、その能力を高く評価しました。

この逸話が三国志演義での「悪来典韋」の逸話に繋がったのでしょう。

後に典韋は夏侯惇の配下になったとあります。

張邈と曹操は仲が良かった事もあり、何処かのタイミングで典韋は張邈配下から曹操配下になったのでしょう。

夏侯惇配下での典韋は戦で何度も敵の首を斬り功績を挙げ、司馬に任命されたとあります。

呂布との戦い

激戦

正史三国志の典韋伝に曹操が濮陽の呂布を攻撃した時に、典韋が従軍した話があります。

この時に呂布は濮陽の本隊の他に別動隊を用意し、濮陽の西、四、五十里に設置しました。

ここで曹操は夜襲を仕掛け明け方頃まで戦闘を行い別動隊を打ち破りますが、呂布の救援が到着します。

呂布は三方向から曹操の軍に攻撃を仕掛けるだけではなく、自らも戦闘に加わるなど激戦となりました。

典韋伝によると激闘は朝から夕方まで続いたとあります。

ここで曹操は敵陣を落す為の猛者を募ると、真っ先に典韋が志願したとあります。

曹操は危機を脱出する為に決死隊を募り、典韋が最初に立候補したという事なのでしょう。

典韋は募兵に応じた数十人を指揮し、戦いに挑みました。

圧倒的な武勇

典韋の部隊は二重の衣服に二重の鎧を着こみ、盾を持たず長い矛を持ち戟を手にしたとあります。

つまり、典韋の部下は防禦は鎧に任せ、盾を持たず攻撃重視の戦闘スタイルで呂布との戦いを決意したと言えるでしょう。

この時に、曹操軍の西方が危うくなると、典韋は進んで西方に向かいました。

呂布軍の弓と弩が雨の様に降り注ぎますが、この時に典韋は「目が見えなかった」とあります。

典韋は戦いで負傷し目が見えにくい状態になっていたのかも知れません。

ここで典韋と部下の間で、次の様なやり取りがあったと伝わっています。

※正史三国志 典韋伝より

典韋「敵が十歩の所まで来たら教えよ」

部下「十歩となりました」

典韋「五歩で申せ」

部下「敵が来ました」

この時に部下は早口で述べたとあり、苦しい立場にいた事が分かります。

典韋は敵が近づいた事を知ると、十余本の戟を取り大声をあげて立ち上がったと言います。

典韋が戟を使うと倒れない者はなかったとあり、呂布の軍勢は退きました。

ここで曹操は引き上げる事が出来たとあり、典韋は目が見えないながらも怪力を使い敵陣で暴れ回った事が功を奏し、撤退に繋げる事が出来たのでしょう。

正史三国志では張飛の長坂橋の一喝や、太史慈の一騎駆けなど、実在した凄い武勇もありますが、典韋の戟の話も三国志でも屈指の武勇談となる様に感じました。

曹操の親衛隊

曹操は典韋の武勇に惚れ込んだのか都尉に任命し側近くに置いたとあります。

これにより、典韋は曹操の親衛隊長になったとも言えるでしょう。

典韋は親衛隊数百人を指揮し、曹操の本営を警護する役割となります。

正史三国志によると典韋には武勇があり、典韋が率いる全ての兵が精鋭揃いだったとあります。

典韋の部隊は本営の警護だけに留まらず、戦いがあれば先陣として敵を討ち多いに功績を挙げました。

曹操は典韋を校尉に任命したとあり、曹操も典韋の武力を高く評価していた事が分かります。

典韋は猛々しさがあるだけではなく、忠義の臣でもあり、慎み深い性格でもありました。

典韋は曹操の傍を離れずに警護を行い1日中侍立し、夜は天幕の側近くに泊まり、自分の寝所に帰る事は殆どなかったと言います。

それでいて、酒を好み飲食の量は通常に2倍だったと記録されています。

曹操に酒を勧められれば、見事な飲みっぷりを披露し左右から酒を勧められ給仕に数人を増やし、漸く間に合う程でした。

豪傑を素でいったのが典韋だったのでしょう。

曹操は典韋に人柄や能力を見事だと感心し敬服していた話しがあります。

典韋は大型の双戟を好み長刀などを持っていました。

こうした姿は軍中でも有名となり、次の様に噂された話があります。

※正史三国志 典韋伝より

帳下の壮士に典君有り、一双戟八十斤を提ぐ

典韋が軍中にあり、如何に話題となり評判が高かった人物だという事がよく分かる言葉でもあります。

典韋の最後

張繍の降伏

197年に曹操は荊州を討ち宛にいた張繍は降伏しました。

ここで曹操は張済の妻(未亡人)を側女とした事で、張繍は曹操に不快感を抱くようになります。

さらに、曹操は張繍配下の剛の者である胡車児に黄金を与えるなど、引き抜こうとした事で張繍は曹操を恨みました。

こうした中で、曹操は張繍を招き大宴会を開きました。

曹操には多くの者が酒を注ぎますが、この時に曹操を警護していたのが典韋です。

典韋は曹操に酒を注ぐ者がいれば、斧を挙げてその者を見つめたとあります。

これを考えると、曹操に酒を注ぐ者は生きた心地がしなかったのかも知れません。

しかし、典韋の気迫に押され張繍やその部下の者達は、典韋の目を見る事も出来なかったとあります。

張繍の裏切り

張繍は賈詡の進言を取り入れ、曹操に反旗を翻しました。

曹操は張繍に対し無防備であり、軽装兵を率いて慌てて撤退する事になります。

こうした中でも典韋は奮戦し、門の中で戦い張繍の軍は侵入出来なかったとあります。

しかし、典韋一人ではどうにもならず、張繍の軍は別の門から侵入しました。

本営は大混乱であり、こうした中でも典韋は奮戦する事になります。

この時にはまだ、典韋配下の十余人が生きており、皆が必死で戦い一人で十人を相手にする活躍を見せました。

尚、三国志演義では胡車児が典韋の双鉄戟を奪い典韋は無力化されますが、史実では胡車児が典韋の双鉄戟を盗んだ記録がありません。

壮絶な最後

典韋の軍は奮戦しますが、敵兵は次々に増えて行き典韋の部下も討ち取られて行きます。

典韋は長い戟を持ち敵を討つと、戟の刃が傷つくたびに、十本以上の敵の矛が砕かれたとあります。

典韋の奮戦は続きますが、部下はほぼ討死しました。

典韋も数十カ所も負傷し短い武器で白兵戦を行う事になります。

張繍の兵が典韋に組み付けば、典韋は持ち前の怪力で撃ち殺し、敵兵は思い切って近づく事も出来なくなりました。

ここで典韋には退却する選択肢もあったのかも知れませんが、典韋は敵陣に突入する事を選びました。

典韋はここでも敵を数十人討ち取りますが、このタイミングで傷口が開き戦闘不能となってしまいます。

典韋はこの時に最後を覚悟した事でしょう。

それでも、典韋は目を怒らせ大声で敵を罵倒し続けたとあります。

こうした中で、典韋は意識が途絶え最後を迎えています。

張繍の兵は典韋が静かになった事を確認すると、恐る恐る近づき典韋の首を斬り周りの者に見せて廻らせました。

張繍の全ての兵が典韋の遺体を見たとあります。

典韋の壮絶な最後は語り草となった事でしょう。

尚、魏では西暦243年に曹芳が曹操時代の代表的な功臣として下記の人物と共に典韋も祭っています。

曹真曹休夏侯尚桓階陳羣
鍾繇張郃徐晃張遼楽進
華歆王朗曹洪夏侯淵朱霊
文聘臧覇李典龐徳典韋

曹操の涙

張繍の軍から逃れた曹操は舞陰にいましたが、典韋の死を聞く事になります。

曹操は典韋の死を知ると涙を流し、典韋の遺体を奪い返す者を募りました。

さらに、曹操は典韋の為に告別式を行い、そこでも涙を流し典韋の死を悼んだわけです。

曹操は典韋の棺を襄邑に送り届けさせ、子の典満を郎中に任命しました。

曹操は典韋が戦死した場所を通るたびに中牢(羊と豚)を生贄とし祭ったとあります。

曹操は典韋の子である典満に目を掛け、司馬に取り立て近辺に置いたとあります。

功臣の子孫の面倒を見るのは、曹操らしいとも感じました。

尚、曹操は亡くなり曹丕が魏の皇帝となるや典満を都尉とし、関内侯の爵位を賜わったとあります。

魏では典韋の功績を代が変わっても忘れてはいなかったわけです。

典韋の評価

陳寿は正史三国志の評で許褚と典韋は劉邦に仕えた樊噲の様な人物だと述べました。

樊噲は怪力の持ち主であり、項羽とのやり取りなどで大酒を飲むなど、行動は典韋に似ていると感じました。

典韋の剛勇さを見ていると劉備における趙雲孫権における周泰とも重なるわけです。

尚、正史三国志には三国志演義の様に典韋が虎を追いかけているシーンや何儀を追いかけ許褚との一騎打ちも存在しません。

典韋の最後も三国志演義の様に仁王立ちで亡くなった記述もありませんが、典韋の評価は下がる事もなく、典韋が己の武力を以って曹操に仕えた事は間違いないでしょう。

曹操は息子の曹操や甥の曹安民以上に典韋の死を悲しんだともされており、曹操が如何に典韋を愛していたのかが分かります。

曹操と最も気が合った臣下は郭嘉だとも感じますが、曹操が最も愛した臣下は典韋だったのかも知れません。

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