名前 | 趙蔥、趙葱(ちょうそう) |
国 | 趙 |
生没年 | 生年不明ー紀元前228年? |
年表 | 紀元前229年 李牧に代わり将軍となる |
コメント | 王翦に敗れて殺害された記述もある |
趙葱は顔聚と共に李牧と司馬尚に代わり、趙の将軍となった人物です。
趙葱は、趙蔥と書かれる事もあります。
顔聚と共に語られる事が多い人物とも言えるでしょう。
東周列国志なる物語では、趙葱が総大将となり副将に顔聚がなったと記載されています。
史記、戦国策、資治通鑑を見ると趙葱が、どの様な人物だったのかは、ほぼ分からない状態だと言えます。
秦と趙の最終決戦に突如名前が現れて、王翦ら秦軍に敗れた位の記載しかありません。
趙葱は「趙姓」であり、趙の幽穆王や趙嘉など、趙王家と関わりが深い人物の可能性もあります。
ただし、趙姓であっても趙奢の様に、趙王家と関係がないと思われる者もいます。
さらに言えば、斉を救った英雄である田単も、斉王家の遠い親戚だったとあり、趙葱も趙王家の遠い親戚だったのかも知れません。
今回は趙葱を解説しますが、史記の記録だけでは、謎だらけとなってしまうので東周列国志の内容も加味し解説します。
東周列国志の記述を見ると、名将である李牧から学べなかったのかな?と思った部分もあります。
桓齮との戦い
李牧の配下となる
東周列国志に桓齮が宜安を占拠し、趙の幽穆王が李牧を大将軍に任じようとした話があります。
この時に、趙の幽穆王は李牧に、「秦軍を破る計略はあるのか?」と尋ねると、李牧は次の様に答えました。
李牧「秦軍には勢いがあり簡単には勝つ事が出来ません。
私に権限を与え明文で縛らないのであれば、私が任務を引き受けます」
李牧は自分の思った様にやらせてくれるなら、大将軍の位を拝命すると述べたわけです。
趙の幽穆王は了承し、李牧に「代の兵だけで戦う事が出来るのか?」と確認すると、李牧は次の様に返事をしました。
李牧「戦うには兵の数が少なすぎますが、守るだけであれば余る程です」
趙の幽穆王は李牧しか頼る人物がいないと思ったのか、趙葱と顔聚に5万ずつの兵を授け、李牧の配下の兵としたわけです。
東周列国志では、趙葱は李牧の配下として戦場に赴いた事になっています。
趙葱の進言
李牧と桓齮は対峙しますが、李牧は戦おうとはせずに、士卒を労いました。
士卒の待遇が良かった事で、士卒は弓の腕を競ったりし、李牧に秦軍と一戦したいと望みますが、李牧は許可しませんでした。
李牧の軍は兵達の待遇が良いのが特徴であり、李牧が匈奴を破った時も兵達の待遇が良かった話があります。
桓齮は趙軍の様子を観察し、「過去に廉頗が王齮を相手に対抗した方法と同類だ」と考えます。
桓齮は李牧の軍を釣る為に、兵の半分を割き甘泉を攻撃しました。
桓齮が甘泉に兵を向けた事を知ると、趙葱は次の様に李牧に進言しています。
趙葱「桓齮が甘泉を攻撃しております。急いで甘泉を救援すべきです」
趙葱は急いで甘泉に援軍を向かわせる様に述べますが、李牧は次の様に述べました。
李牧「秦軍が甘泉を攻めて我らが甘泉に救援に行ってしまえば、秦軍のペースで戦う事となる。
これは兵家の嫌う所であり、敵の策に乗る必要はない。
我々は今こそ、敵の本営を攻めるべきだ。桓齮は甘泉を攻めており、本営は手薄になっているはずである。
我等は守備に徹していたから、秦軍の本営は、まさか我らが本陣を攻撃して来るとは思うまい」
李牧は趙葱の意見を却下し、軍を3つに分けて秦の本営に夜襲を仕掛けました。
李牧の夜襲は大成功し、秦軍は手痛い被害を被ります。
甘泉を攻めていた桓齮は、全軍を纏めて趙軍に攻撃を仕掛けますが、李牧は左右に翼を広げた陣形で待ち構えており、桓齮の軍を大破しました。
東周列国志では、鮮やかに李牧が桓齮を破った事になっているわけです。
李牧と桓齮は宜安の戦いや肥下の戦いを行った記録がありますが、この戦いに趙葱が参陣していた可能性もある様に思います。
李牧は秦軍を番吾の戦いでも破りますが、趙葱も参加していたのかも知れません。
趙軍の司令官となる
紀元前229年に秦の王翦、楊端和、羌瘣ら三将が趙を攻撃しました。
趙では李牧と司馬尚が将軍となり、秦軍と対峙します。
しかし、秦では趙の郭開に多額の賄賂を贈り、郭開は趙の幽穆王に李牧の事を讒言しました。
これにより李牧は誅されてしまい、司馬尚は庶民に落されています。
李牧と司馬尚がいなくなると、趙の幽穆王は趙葱と顔聚の二人を将軍としました。
東周列国志によれば、趙葱が総大将となり顔聚が副将となった記述があります。
趙葱は将軍となりますが、李牧は過去に何度も秦軍を破った実績があり、趙軍の士気の低下は避けられなかったのでしょう。
東周列国志によれば、代の兵は李牧に心服しており、李牧が讒言で殺害された事を知ると、趙の首脳部に怒りを向けた話があります。
代の兵らは趙の首都邯鄲を去ってしまいますが、趙葱は代の兵たちを止める事が出来なかったとあります。
史記などには書かれていませんが、李牧が亡くなった時点で、代の兵らはやる気をなくし、代に帰ってしまった可能性も十分にある様に感じます。
さらに言えば、代の兵達の中に趙嘉がいたのかも知れません。
趙の邯鄲が落城した後に、趙嘉は代で代王嘉として即位しているわけであり、どこかのタイミングで代に移動する必要があるからです。
話しを戻しますが、趙葱は趙で最高位の将軍となりますが、目の前には秦の王翦がおり前途多難な状況だったのでしょう。
この状況で将軍になるのは、趙葱にとってみれば、かなりのプレッシャーだったはずです。
趙葱の最後
東周列国志によれば、王翦、楊端和は軍を二つに分けて、趙軍目指し進軍を始めました。
ここで趙葱と顔聚は議論し、趙蔥は秦軍に倣い軍を二つに分けて応戦しようと意見を述べます。
しかし、顔聚は次の様に述べて反対しました。
顔聚「我が軍は将軍が変わったばかりであり、兵達は心服していません。
兵を合わせて戦えば守り切れるかも知れませんが、兵を分けてしまったら勢いが弱くなり各個撃破されてしまいます」
顔聚は趙葱の考えに異を唱えますが、ここで伝令が入る事になります。
伝令「王翦が狼孟に侵攻し夕方までには、狼孟は落ちてしまうでしょう」
伝令の言葉を聞いた趙葱は次の様に述べます。
趙葱「王翦が狼孟を抜けば井陘を潜り抜けて、兵を合わせて常山を攻撃するはずだ。
常山を抜かれてしまえば、趙の首都邯鄲の危機となる。
急いで救援に行かねばならない」
趙葱は顔聚の進言を退けて、急いで救援に向かったわけです。
王翦は趙葱の動きを読んでおり、谷間に伏兵を配置し、趙蔥の軍が半分を移動した所で、狼煙を上げ趙軍を分断しました。
ここで王翦の軍も到着し、趙葱は慌てて迎撃しますが、戦いは王翦のペースで進み趙蔥は殺害されています。
史記の記述では趙葱は戦いに敗れた事しか書かれていませんが、資治通鑑や東周列国志などでは趙蔥が王翦と戦い殺された事になっています。
趙葱は秦との戦いで最後を迎える事になったわけです。
趙葱の評価
趙葱ですが、史記に簡略な記述しかなく、実態が掴みにくい人物だとも言えます。
王翦率いる秦軍に敗れたこと位しか記録がなく、とても名将とは言えないでしょう。
東周列国志の記述が真実であれば、趙葱は李牧の配下だった時に「敵のペースで戦うのは良くない」と言われているわけです。
それにも関わらず、王翦との戦いで王翦のペースで戦ってしまうのは、李牧から学べなかったのではないか?と感じました。
ただし、李牧が桓齮と戦った時に、李牧は本陣を攻撃した話があります。
この場面は三国志の曹操と、袁紹の戦いである官渡の戦いに似ているとも思いました。
曹操は許攸の進言で、袁紹軍の兵糧庫で淳于瓊が守る烏巣を急襲しています。
この時に袁紹陣営では郭図が曹操軍の大本営を襲撃する様に進言し、張郃が烏巣への救援を進言したわけです。
袁紹は曹操の本陣にも攻撃し、烏巣にも救援部隊を派遣する中途半端な策を取っています。
しかし、本陣を攻撃した張郃は撃退されており、東周列国志の李牧と桓齮の戦いの様には行きませんでした。
これを考えると、李牧の策が毎回正しいとは言えないわけであり、時と場合によっては趙葱の意見が正しいのでしょう。
名将と凡将の違いは戦いでの読みが上手さも大きく関わっていると感じました。
戦いに関する読みなどの部分においては、趙葱は李牧に大きく劣ったとも考えられます。
ただし、別の視点からみれば趙は滅亡寸前であり、滅亡寸前の中で趙葱は奮戦したと言えるのかも知れません。