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淳于瓊は怠惰な官吏ではない

2023年2月15日

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宮下悠史

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名前淳于瓊(じゅんうけい) 字:仲簡
生没年生年不明-200年
時代三国志、後漢末期
主君霊帝袁紹
年表188年 西園八校尉となる
200年 官渡の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

淳于瓊の字は仲簡であり、豫州潁川郡の出身です。

潁川の名士だったのではないか?とも考えられています。

正史三国志や後漢書に名前は登場しますが、淳于瓊を主人公にした伝は立てられていません。

しかし、官渡の戦いを左右する任務に就いていた事から、あちこちで淳于瓊の記述が散見している状態です。

因みに、淳于瓊は三国志演義での官渡の戦いのイメージが強く、酒好きで職務放棄をした怠惰な人だと思われがちです。

しかし、史実の淳于瓊を見ると、烏巣の戦いで酒盛りもしていませんし、職務放棄なども一切行っていません。

さらに袁紹の軍事部門のトップに立った事実もあり、怠惰どころか有能な官吏だった可能性もある様に思います。

ただし、官渡の戦いの時に、烏巣の兵糧庫を守り切れず、命を落したのは事実だと言えます。

今回は官渡の戦いの時に、烏巣の兵糧庫を守備した淳于瓊を解説します。

西園八校尉

淳于瓊なのですが、半生に関しては全くと言ってよい程、分かっている事がありません。

張角が引き起こした黄巾の乱に参加したのかも不明です。

ただし、黄巾の乱が終わった後に、霊帝は西園八校尉を設置しました。

西園八校尉は皇帝直属の軍であり、大将の一人に淳于瓊が選ばれています。

淳于瓊は西園八校尉の中では右校尉になっています。

西園八校尉のメンバーは下記の通りです。

蹇碩袁紹鮑鴻曹操
趙融馮芳夏牟淳于瓊

西園八校尉の中には袁紹曹操も入っており、霊帝は淳于瓊に対しても、かなり期待していたのではないか?とも考えられています。

さらに言えば、西園八校尉のメンバーは黄巾の乱で功績を立てて、霊帝に気に入られた者達ではないか?とする説もある状態です。

尚、西園八校尉の筆頭が宦官の蹇碩なのは、霊帝が宦官を強く信任していた事の表れなのでしょう。

西園八校尉は大将軍の何進であっても、直接命令が出来なかったとも言われています。

淳于瓊は西園八校尉となりますが、翌年には霊帝が死去し、西園八校尉も解散しました。

献帝を迎えるのに反対

霊帝が亡くなると少帝が即位しますが、董卓が実権を握る事となります。

袁紹は董卓と対立し、冀州に出奔しますが、淳于瓊も袁紹と共に北方に移動したのでしょう。

董卓が王允呂布により命を落すと、今度は李傕郭汜が長安で実権を握りました。

しかし、李傕と郭汜は対立し後漢王朝の皇帝である献帝は、洛陽の目指し移動を始めます。

この時に、田豊沮授は袁紹に献帝を迎え入れる様に進言しました。

沮授や田豊が献帝を保護する様に進言しましたが、淳于瓊や郭図は次の様に述べて反対しています。

献帝伝より

漢王朝は衰退してから既に長い時間が経っております。

今、漢王朝を再興しようと思っても、困難な事だと存じます。

現在を見るに、群雄が州や郡を支配しておりますし、その軍勢は数が多いです。

『秦が鹿を逃し、先に捕まえた者が王となる』という言葉は、今の状態に当てはまります。

もし仮に天子をお迎えし、一つ一つ上聞するのであれば、ご意志に従う場合は権力を弱める事になり、背くときは勅命に反した事になってしまうのです。

天子を迎え入れるのは、良策とはいえません。

淳于瓊は郭図と共に、献帝を迎え入れるのに反対したわけです。

袁紹は淳于瓊や郭図の意見を採用し、献帝を迎え入れる事はしませんでした。

ただし、後に袁紹は献帝を迎え入れず、曹操の手に落ちた事を後悔した話があります。

尚、袁紹が淳于瓊や郭図の意見を採用したのは、袁紹は過去に董卓が擁立した献帝を認めず、劉虞を皇帝に擁立しようとした過去があります。

袁紹は過去の行動から、献帝を迎え入れる事に難色を示したとも考えられています。

官渡の戦い

袁紹軍の軍事を統括していたのは沮授でしたが、何度も袁紹と意見が食い違った事もあり、沮授の軍権は三分割されました。

この時に、沮授、郭図、淳于瓊の三名で分割されており、淳于瓊は官渡の戦いの前に、沮授や郭図と共に袁紹の軍事部門トップに立ったとも言えるでしょう。

袁紹陣営の軍事のトップになった時が、淳于瓊の人生の絶頂期だったはずです。

官渡の戦いの前の前哨戦として白馬の戦いがありました。

淳于瓊は郭図や顔良と共に先陣を任され、曹操軍と戦闘を行っています。

白馬の戦いでは袁紹の軍に利は無く、曹操配下の関羽張遼の働きにより、顔良が討たれるなど最悪のスタートとなってしまいます。

さらには、袁紹軍の猛将である文醜が討たれるなど、士気は大いに下がりました。

しかし、兵力や物資で上回る袁紹の軍は、底力があり徐々に曹操を後退させて行く事となります。

烏巣の戦い

曹操軍は兵糧が少なく困窮しますが、徐晃や史渙が袁紹軍の兵糧の一部を焼き払う戦果を挙げています。

袁紹の軍も兵糧が不足しますが、袁紹は比較的近い距離にある烏巣を兵糧庫とし、淳于瓊に守らせました。

淳于瓊は眭元進・韓莒子・呂威璜・趙叡の四将を連れて烏巣に向かおうとします。

この時に沮授は袁紹に、淳于瓊達だけでは不十分であり、蔣奇にも烏巣を守らせる様に進言しました。

しかし、袁紹は沮授の意見を却下し、これが淳于瓊が最期を迎える原因にもなっています。

許攸は袁紹に対し不信感を持っていましたが、許攸の家族が罪を犯し審配に捕らえられる事態となります。

許攸は袁紹を見限り、曹操に寝返り烏巣に兵糧庫があり、淳于瓊が守っていると告げました。

曹操は許攸の話を聞くと、本陣を曹洪に任せ、自らは楽進と共に兵を率いて烏巣に向かう事となります。

袁紹の本陣では淳于瓊がいる烏巣が、曹操に狙われた事を知ると、郭図は曹操の本陣を攻撃する様に進言し、張郃は淳于瓊を救援する様に意見しました。

張郃は「淳于瓊が敗れれば、我等は全員が捕虜となる」とまで述べ、淳于瓊の救援に行くべきだと主張しています。

しかし、袁紹は張郃に曹操の本陣を攻撃させつつも、烏巣の淳于瓊にも援軍を送るという中途半端な策を選ぶ事になります。

これにより淳于瓊は烏巣の戦いで、大苦戦に陥る事になったとする見解もあります。

淳于瓊の最後

楽進に斬られる

烏巣にいた淳于瓊は曹操の兵が少ない事を知ると、自ら兵を率いて野戦で勝負を決めようとします。

しかし、曹操の軍は強く淳于瓊は、烏巣に籠る事になります。

淳于瓊は必死に守り、袁紹の援軍が到着すれば勝てる状態でした。

ここで曹操は袁紹の援軍が烏巣に向かっている事を知ると、必死で淳于瓊の軍を攻撃したわけです。

曹操の必死の突撃の前に、淳于瓊は守り切る事が出来ず、正史三国志によると楽進に斬られたとあります。

曹操や楽進は烏巣にあった兵糧を全て焼き払っています。

淳于瓊が烏巣の戦い敗れた事を知ると、曹操の本陣を攻撃していた張郃や高覧は曹操に降伏しました。

袁紹は淳于瓊が敗れ兵糧も焼かれ、張郃や高覧が寝返った事を知ると、敗北を悟り兵を引いています。

淳于瓊の死により、官渡の戦いの勝敗が決まったと言ってもよいでしょう。

異説

淳于瓊の最後に関しては、異説が存在します。

正史三国志の武帝紀の注釈・曹瞞伝からです。

曹操烏巣の戦いで淳于瓊配下の眭元進・韓莒子・呂威璜・趙叡らは斬首する事に成功しました。

この時に淳于瓊は鼻を削がれてしまいますが、まだ生きていたわけです。

淳于瓊は夜中に捕らえられ、曹操の前に連れ出されています。

曹操と淳于瓊は過去には同じく、西園八校尉のメンバーであった事から、顔見知りでもあり「何でこうなってしまったのだ」と声を掛けます。

曹操の言葉に対し、淳于瓊は次の様に答えました。

※曹瞞伝より

淳于瓊「勝敗は当然の如く天にある。どうして質問する必要があるのだ」

曹操は淳于瓊の才能を惜しんだのか、殺すには惜しいと考えました。

この時に、曹操の側にいた許攸は、次の様に耳打ちしています。

許攸「淳于瓊が明朝に鏡を見れば、絶対に我らに対する恨みを忘れませんぞ」

淳于瓊は鼻を削がれていた事もあり、鏡で自分の顔を見れば、復讐の念に駆られると述べたわけです。

曹操は許攸の言葉を理解し、淳于瓊を処刑しました。

正史三国志の本文と曹瞞伝で記録に差異がありますが、どちらが正しいのかは不明です。

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